誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第64話 揺れる声、届かぬ想い

 その日、リリアナは皇帝ノヴァリウスと王妃カリスタの前で、古代詩の一篇を朗読していた。

 澄んだ声が広間に響き渡ると、重苦しかった空気がふっと和らぎ、護衛騎士や侍女たちの表情から険しさが消えていく。

 朗読を終えると、沈黙ののち、ひとりの侍女が隣の侍女に小声で囁いた。
「……まるで歌を聴いているようでした。まさしく“歌姫”のようでございますね」

 その言葉に、周囲の者たちも頷き合う。
「確かに……声が人を癒すなど、ただの朗読ではない」

 皇帝ノヴァリウスもまた頷き、低い声で告げた。
「――帝国に舞い降りた“朗詠の歌姫”だな」

 周囲の騎士たちも一様に同意の色を浮かべる。
 その光景を目の当たりにして、リリアナは頬を赤らめ、深く頭を垂れた。
「そのような呼び名、私には……」

 だが、王妃カリスタは柔らかく微笑みながら言葉を添える。
「良いではありませんか。あなたの声は、この宮廷に光を運んでくれる。歌姫――まさに相応しい名です」

 こうして「朗詠の歌姫」という呼び名は、帝都に広まり始めた。

 宮廷ではリリアナの朗読が静かな評判となり、王妃カリスタを癒す声は、今や侍女や近衛たちの間にも噂として語られていた。
 本人はまだ半信半疑のまま、ただ与えられた務めを果たしているにすぎなかったが、その声は確実に人々の心を掴みつつあった。

 その評判は、モンテフェル侯爵家にも届いていた。
 夕餉の席では必ずといっていいほどその話題がのぼり、エドワールとクラリスは誇らしげに口にするのだった。
「“朗詠の歌姫”と呼ばれているのは、私たちの母の妹なのだ」

 子供たちの言葉に、大人たちも微笑みを浮かべて耳を傾ける。

 居候の身であることを気にしていたリリアナにとっても、この出来事はようやく自らの存在が誰かの役に立っているのだと実感させるものだった。


――その頃、ドレイヴァン王国では。

 王宮の執務室には、夜更けになっても灯火が絶えることはなかった。

 国王バルテルの前には、終わりの見えぬ文書と報告が積み上げられ、次々と署名と決裁を求めている。
 ふと窓の外に視線を移せば、闇に沈む王都の灯りが遠く瞬いていた。

 本来なら、今は子供たちに寝物語を語ってやるべき時刻である。
 だが、王位に就いて以来、彼はほとんど父としての時間を奪われていた。

 王妃レナーテは子供たちに冷ややかな眼差しを向け、母の役割を担おうとはしない。
 いや、最初からそんな期待を抱いたことはなかった。レナーテという女は、己の欲のためにしか動かぬのだから。

 彼女は以前、アルンベルク侯爵と結婚していたが、子を成す気など毛頭なく、愛情もないまま離縁した。
 「子供が欲しければ、愛妾にでも産ませればよい」――そんな言葉を口にしていたと後に聞いた時、バルテルの胸に冷たい怒りが宿った。

 そんな思考に囚われていた時、扉を叩く小さな音が響いた。
「誰だ」
「マルタでございます。お坊ちゃまが……」

 お坊ちゃま。その言葉に、バルテルは即座に応じた。
「入れ」

 入ってきた乳母マルタの腕には、眠りを妨げられた幼い兄弟の姿があった。
「父上……」
 リアムは涙に濡れた瞳で、か細い声を絞り出した。
「父上……母上に会いたい。もう一度だけでも……」

 その傍らで、エアリスがぎゅっと兄の衣を掴む。
「ぼく……母上のこと、知らないの。だけど……さみしいの……」

 幼い二人の訴えに、バルテルの胸は強く締めつけられた。
 言葉を失い、ただ小さな体を両腕に抱き寄せる。
「……許してくれ。父でありながら、お前たちに何もしてやれぬ……」
 掠れる声でそう告げるしかなかった。

 一方で、レナーテは相変わらず己の欲望に忠実だった。
 政務を顧みず、権力を笠に着て遊興に耽り、時には媚薬まで用いてバルテルを縛ろうとする。
 だが彼の心は微動だにせず、その虚しい試みがむしろ王宮の空気を荒ませるだけであった。

 バルテルは、そんなレナーテを冷ややかな眼で見据える。

(このままでは、国が傾き、子供たちの未来さえ危うくなる……。必ず、彼女を排する道を見つけねばならぬ)

 王弟の影がなお背後にある以上、軽率な行動は許されない。
 それでも、バルテルは決して諦めなかった。
 ――いつの日か、リリアナを呼び戻すその時を信じて。

 その決意を胸に机へ視線を戻した瞬間、背後に冷たい視線を感じた。
 振り返らずとも分かる。扉の陰から覗くレナーテの瞳が、蛇のように鋭く、彼を射抜いていた。
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