誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第70話 想いと揺れる歌声

 夜更けの回廊に、凍えるような風が吹き抜けていた。
リリアナは胸元にそっと手を当て、深く、しかし震える息を吐く。
詠む度に、微かに喉の奥が痛み、それが胸に鉛のような重さを与えた。

 ――あの、人々を癒し、希望を与えてきたと言われている声。
それが今、闇の手によって奪われようとしている。

 レナーテが再び自分を追い詰めようとしていると知った時、息が詰まるほどの恐怖が胸を締めつけた。
何故彼女は、ここまで執拗に私を追い立てるのだろう。
答えの見えない問いが、心の奥で暗い影となって揺らめく。

 ――私は、この国の子供たちや人々に、再び物語を届けられるのだろうか。
それとも、この声そのものが、永遠に失われてしまうのか。

 希望と、それ以上に深い恐れが、彼女の心を激しく揺さぶっていた。



 一方、ノヴァリア王宮の執務室では、バルテルが一人、冷たい机に向かっていた。
数日前、密偵が持ち帰った報せが、彼の胸を重く苛んでいた。

 ――レナーテは、リリアナの命そのものではなく、その声を奪おうとしている。
彼女の詩を詠む声を封じれば、帝国もノヴァリアも心を失う。

 バルテルは耳を疑った。リリアナが遠い異国で王妃に仕え、詩を詠い、声を響かせていることを、彼は知らなかったのだ。
最近、彼女の行方を調べさせていた密偵が、ようやく掴んできた報せだった。

 ――声、か……。
 思い返せば、彼女の声はいつも優しく、ただ耳にしているだけで疲れが溶けていくような不思議な力を持っていた。
共に過ごした日々、夫婦として分かち合ったささやかな生活の記憶が、胸の奥からよみがえってくる。

 しかし、その報せを聞いた日から、バルテルは悪夢のような未来に囚われ続けていた。

 山積する政務文書に目を通しても、心を苛むのはただ一つ――リリアナの声が途絶えてしまう、あまりにも悲しい未来だった。

 彼女は、かの国のために、民のために、そして何より王妃のために詩を詠んできた。

 その尊い声を、もし自分が守れなかったなら、一体何を誇りに生きればいいのだろう。
せめて、遠い国にいる彼女を護らなければ――そう思わずにはいられなかった。

 ――私は、今もなお、彼女を深く愛している。
 だが、国を背負う王である限り、己の心のままに動くことは許されない。
その絶望的な葛藤が、目に見えぬ鎖のように彼を縛りつけていた。



 同じ夜、遠く離れた帝都の高殿に立ち、ラファエルは星空を仰いでいた。
リリアナの歌声に救われたのは、何も帝国の人々だけではない。
彼自身もまた、その澄んだ歌声に幾度となく慰められ、心を癒されてきた一人だった。

 淡い恋心――それは、決して表に出すことのできない、胸の奥底で密やかに芽生えた感情に過ぎなかった。
しかし、その歌声が失われるかもしれないと知った時、その秘めたる想いは静かな炎となり、彼を突き動かす力へと変わりつつあった。

――どうか、その尊い歌声を守らせてほしい。
たとえ、彼女の心が永遠に自分に向くことはなくとも。

こうして、三つの異なる想いは、決して交わることのないまま、同じ夜空の下で揺れ動いていた。
リリアナの歌声を狙う闇の影は、彼らの直ぐそこまで迫っているとも知らずに――。



 その夜、ノヴァリア王宮の奥深く。
密偵からの報告を受け取ったバルテルは、己の足でこの国の闇を確かめるべく、密かに廊下を進んでいた。

 ――レナーテが、ついに動いた。

 胸に去来する嫌な予感が、彼の握る剣の柄に無意識の力を込めさせた。

「バルテル様……まさか、このような場所でお会いするとは」

 闇の中から現れたのは、レナーテの忠実なる腹心、老齢の宰相。その背後には、精鋭の兵士たちが影のように控えている。

 「お前、何故ここにいる! まさかレナーテの差し金か……」
バルテルの怒声に、老宰相はにやりと口角を上げた。

 「差し金? ふふ……陛下、彼女は貴方を愛しておられる。だからこそ――従わせるしかないのです」

 合図とともに、兵たちが一斉に襲いかかる。
剣を抜いたバルテルは怒涛の如く応戦するが、多勢に無勢。鋼のぶつかり合う音が闇に響き、次第にその動きは鈍り、追い詰められていく。

 (……くそ! これが愛だと? いや、違う……! あれは愛ではなく、ただの支配だ!)





 その頃、帝国の命を受けてドレイヴァン王国に戻ったライナトルは、甥と姪――リアムとエアリスの周囲に鉄壁の警護を敷いていた。
片時も目を離さず、廊下の影や侍女の仕草にまで目を光らせる。

 「子供たちに、決して手出しはさせん……!」

 妹と、その無垢な子供たちを守り抜くという決意が、その眼差しをさらに鋭く研ぎ澄ませていた。

 一方その頃、帝国王妃カリスタはノヴァリアの貴族たちと極秘裏に接触していた。
宴席の裏で、密やかな茶会で、彼女は人々に囁きかける。
レナーテの悪行を暴くための布石を、一つひとつ確実に打っていたのだ。

 「リリアナさんのために……そして、この国の子供たちの未来のために」

 その穏やかな微笑みの奥には、揺るぎない覚悟と帝国王妃としての威厳が宿っていた。




 帝都の路地裏に潜んでいたラファエルの耳に、急報が届く。
――バルテルが王宮の奥で襲撃を受けている。

 「バルテル国王が危ない……!」

 彼は迷うことなく駆け出した。
胸に抱くのは、帝国皇子としての使命、そしてリリアナへの秘められた恋心。
彼女を再び涙に沈ませることだけは、どうしても避けたい――その一念が彼を突き動かす。

 二つの感情が背を押し、闇を切り裂く光となるべく、ラファエルは王宮へと急いだ。

 帝国の介入によって、ドレイヴァン王国の王宮に保たれていた均衡は、ついに音を立てて崩れ始めていた。

 バルテルの苦悩、ラファエルの秘めた想い、そしてリリアナと子供たちを巡る陰謀の嵐は、今や一層その激しさを増していく――。
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