誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第72話 ラファエルの想い

夜明け前の離宮は、静かな祈りに包まれていた。
リリアナは窓辺に立ち、まだ会えぬ二人の子を想いながら、震える唇で詩を紡ぐ。

「……ねむれ、ねむれ。星々が君を見守っている……」

掠れた声は夜気に溶けてゆく。喉の奥に小さな痛みが走り、それが不安を呼び覚ます。
(この声を……もし失ってしまったら? リアムとエアリスに、詩を届けられなくなるのではないか――)
胸が締めつけられ、目頭が熱くなる。

そのとき、背後に柔らかな気配が差した。振り向くと、そこに立っていたのはノヴァリア帝国の第二王子、ラファエル――。

「失礼いたします、リリアナ殿」

低く澄んだ声に、リリアナは驚きのまばたきを返した。彼と言葉を交わすのはこれが初めてだった。
王子の瞳は夜明けの光を映し、まっすぐに彼女を見据えている。

「……その詩を聞かせていただけただけで、私の心は救われました。無理に声を張らなくても、あなたの想いはきっと届いています」

不思議な温かさが胸を満たし、張り詰めていたものが幾分かほどけてゆく。掠れた声で、リリアナはかすかに微笑んだ。

「……ありがとうございます。あなたにそう言っていただけると、少し楽になります」

ラファエルの胸に痛みが走る。彼女は遠い存在で、決して自分のものにはならない──それでも、一瞬でも彼女を支えられたのなら、それでいいのだ。

「どうか、この帝国で安心してお過ごしください。あなたの詩は……我らにとって光なのですから」

表向きには丁寧な皇子の挨拶。その言葉の奥には、抑えきれぬ想いが滲んでいた。
リリアナはその視線を受け止め、胸の奥に小さなざわめきを覚える。恋か、敬慕か——判じがたくとも、確かなのは彼の言葉が自分を支えたことだけだった。

二人の間に静かな沈黙が流れる。短い時間だったが、互いの心を触れ合わせるには十分だった。
やがてラファエルは一歩下がり、深く礼をして離れた。背中を見送りながら、リリアナは再び窓辺に戻り、空を仰ぎ祈る。

(リアム、エアリス……必ず会える日が来る。その時まで、母は声を失わない)

遠い空の下、リリアナは子らを想い、ラファエルはただ彼女の幸せを願っていた。交わらぬ想いであっても、ふたりは同じ祈りで結ばれているように思えた。



同じ頃、ノヴァリアの高殿にて。第二王子ラファエルは塔の窓から同じ空を見上げていた。遠く離れていても、心はいつもリリアナへ向いている。

彼は、初めて彼女が詩を紡ぐ姿を見た日のことを忘れられない。あの穏やかな声に触れた瞬間、自分の中の暗闇が溶けたように感じたのだ。

――彼女には、笑っていてほしい。
――たとえ自分の隣に立つことが叶わなくても。

恋慕の炎は表に出せぬまま、静かに彼の胸で燃え続ける。やがてラファエルは覚悟を固める。

「母上……リリアナ殿とその子供たちを救うため、どうか私に任せてください」

王妃カタリナは、息子の眼差しに潜む想いを読み取りつつも静かに頷いた。

「……その覚悟、無駄にはさせません。けれど忘れてはなりません。あなたは皇子。彼女の未来は、彼女自身のものです」

その言葉は胸を刺す現実を突きつける。だがラファエルはうなずく。

(わかっている。しかし、彼女が涙する姿だけは――この命をもってでも阻止したい)

窓辺に寄りかかり、遠い空を見つめる。リリアナのいる場所、彼女の表情、ひとつひとつを思い描くだけで胸が締めつけられる。無事を祈る気持ちと、再び彼女の傍らに立ちたいという願いが、彼の心を激しく揺らした。

「リリアナ……」

静かに呼ぶその名は、風に乗って彼女の元へ届くことを願う、切なくも力強い祈りのようだった。彼女は、ラファエルにとって単なる歌姫ではない。閉ざされた心に灯をともす唯一無二の光であり、生きる意味そのものだった。



離宮に戻ったリリアナは、いつものように詩を紡ごうと唇を開いた。だがその瞬間、喉の奥が焼けるように疼き、声が掠れて途切れる。胸の底から湧き上がる恐怖に、膝が震えそうになる。

(……もう、この声を失ってしまうの? 子供たちに届かなくなるのではないか)

震える肩を支えたのは、そっと寄り添ったラファエルの柔らかな手だった。彼の瞳は真剣で、ただリリアナだけを映している。

「無理に声にしなくてもいい。リリアナ殿、僕には伝わっています」

その言葉に、彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。かすかな笑みを浮かべ、掠れた声で囁く。

「……殿下、ありがとうございます」

言葉を超えた響きがふたりの間に生まれる。恋でも契約でもない。ただ、互いの胸の奥で相手を支えたいと願う、純粋な想いの交差だった。

ラファエルは胸に熱い痛みを覚えつつ、静かに微笑んだ。

(彼女が幸せであること――それだけを、僕は剣に誓う)
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