誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第80話 バルテルの解放と蝕む身体

 蝋のにおいと古紙の匂いが混じり合う執務室に、紙と羽根ペンが擦れる乾いた音だけが続いていた。

 バルテルは背凭れにもたれず、わずかに前屈みの姿勢で机に伏している。白銀に褪せた髪はこめかみで痩せた皮膚に貼りつき、かつて精悍だった頬には深い皺が影のように沈んでいた。指は震えている――それでも、彼はペンを手放さない。

 レナーテの傀儡として過ぎた年月は、彼の肉体を確実に蝕んでいた。
毒に似た薬を幾度も飲まされ、その度に意識は鈍り、鋼のようであった思考は錆びていった。
さらに派閥の押印は、彼自身の決裁印を覆い隠すかのように積み重なり、魂までも押し潰そうとしていた。

 それでも彼は、日々机に向かった。
 ――この国のために。
 その一点だけが、朽ちゆく肉体に魂を繋ぎ止めていた。

 外は風が強い。薄い窓ガラスが、ときどき震える。
 視線を落とせば、政務の山は容赦なく積み上がる。歳出の配分、兵站の再編、飢饉に備えた備蓄の振替、辺境からの嘆願――。

 レナーテの影がどれほど濃くとも、紙の上に書かれた文字は嘘をつかない。必要な場所に、必要な手を。彼はその原則だけは崩さなかった。

 扉が二度、控えめに叩かれた。
 「入れ」
 掠れた声に、若い近習が慌てて膝をつく。胸元まで上がった息を、無理にのみ込んでいる。
 「陛下……緊急のご報告にございます」

 沈黙。
 バルテルが瞼を上げる。若者の額には汗。声は僅かに震えていた。
 「レナーテ王妃――貴族裁判にて、断罪。爵位剥奪、財産没収、平民籍への落籍の上、島流しの沙汰……執行済みとのことにございます」

 羽根ペンの先が、紙の上で止まった。
 胸の奥で、長く凍りついていた何かが割れる音がした。
 バルテルはゆっくり息を吸い、そして深く吐いた。吐息は、石のように重かった。

 「……漸く、解放されるのか」

 呟きは誰に向けたものでもなかった。
 安堵が衣の下を走り抜ける。だが次の瞬間、空洞が胸をさらう。

 リリアナはいない。リアムも、エアリスも。守るべきものは、砂のように指の間から零れていった。策略に屈し、力を削られ、何も守れなかった――己への怒りと悔恨が、安堵の温度を奪っていく。

 「……情けない」
 自嘲ともつかぬ声を飲み込み、彼は震える手で羽根ペンを握り直した。

 「報を持ってきたこと、労であった。下がれ」
 近習が頭を下げ、そっと退く。

 静寂が戻る。
 バルテルは机上の地図を広げた。

ドレイヴァン王国の山脈、河川、交易路。レナーテの派閥が握っていた関所に赤い印を打ち、補給線の再建に青い線を引く。

 「せめて、この国だけは……」
 彼はまだ、王であり続けることを選んだ。
滅びの理由に自分を数えるのではなく、僅かでも再生の礎となるために。

 夜が落ちる。
 蝋燭が一本、また一本と短くなる。窓の外では風が瓦を鳴らし、遠くの鐘が時を告げた。

 彼は書いた。失ったものの名を数えるかわりに、残すべき手立てを書いた。

 王都の穀倉の鍵を二重化せよ。辺境の兵糧の補填は春の市が立つ前に行え。徴税の遅滞分は三期に分け、利子を免ずる。ただし商会の上納は据え置く。――誰にでも読める言葉で、誰にでも行える順序で。

 ふと、胸が痛んだ。
 羽根ペンの先がぶれ、インクが紙に黒い星をつくる。
 (まだ、だ)
 彼は浅く息を吐き、痛みが去るのを待った。

 机の端には、短く折れた赤い糸が結ばれている。
かつて、リリアナが冗談めかして結んだ「忘れないための印」。解いては結び、結んでは解き、糸はいつの間にか半端に短くなっていた。

 「リリアナ……」
 名を呼べば、胸の奥で遠い日々が揺れた。

子らの笑い声、春先の陽だまり、膝に眠る重み。そこに自分はいない。
会わせる顔はない――それでも、彼女が笑っていてくれるのなら。
その願いは、悔恨と同じ場所に沈んだまま、形を持たない。

 夜半。
 最後の書簡に、彼は短い言葉を記した。
 ――未来を恐れるな。希望を胸に、進め。
 それは命令ではなく、祈りに近かった。国民へ、そして自分自身へ。

 ペン先が止まったとき、バルテルの胸が大きく痙攣した。机に突っ伏しかけた体を、直ぐ傍に控えていた侍医が支える。

 「陛下、もう御止めください」
 低く切迫した声に、バルテルは苦笑を浮かべる。
 「まだ……終えてはいない」
 震える指先が、紙を探る。

 侍医はその手をそっと押さえた。
 「これ以上はお命にかかわります。どうか、今夜はここまでに――」

 その言葉は命令ではなく、祈りのようだった。
 バルテルはしばらく視線を落としたまま動かず、やがて力なく頷いた。
 「……明日のために、か」
 「はい。陛下には、まだ明日がございます」

 侍医の言葉に従い、側仕えが彼を寝台へと移す。
 羽根ペンを離した手は痩せ細り、しかしその眼差しには、なお消えぬ炎が残っていた。
 明日――。
 バルテルは瞼を閉じ、短く頷いた。
 眠りへ落ちる直前、彼は指先で机の上の赤い糸を探った。そこにまだ結び目があることを確かめ、安堵のような痛みが胸に広がった。

 ***
 数日後。
 ノヴァリア帝国・王宮。磨き上げられた大理石の回廊に、急ぐ足音が反響した。

「殿下、急報にございます!」
 執務室の扉が開き、侍従が深く頭を垂れる。

 ラファエルは顔を上げ、手にしていた文書を静かに伏せた。
「どうした」
「ドレイヴァン王国よりの公電にございます。――レナーテ王妃、断罪執行済み。あわせて、国王バルテル・ヴァルディア、政務へ復帰とのこと。ただし……ご容態は芳しからずも、存命にて執務を続けておられるとか」

「なに……! 直ちにリリアナへ伝えよ」
「はっ!」

 侍従は指示を受けるや、すぐさまリリアナの邸へと走った。
 今では彼女は子供たちと共に一つの邸へ移り住み、侍女や家令に囲まれて暮らしている。

 侍従は到着するなり、家令に急報を伝えた。
「家令殿、至急リリアナ様に。……ドレイヴァン王国にて、レナーテ王妃は断罪され、バルテル国王は解放されたとのことです」
 家令は頷き、慎重に言葉を選びながら奥へ進み、主に報告した。

「リリアナ様。先ほどラファエル殿下より伝言が届きました。――レナーテ王妃は断罪され、バルテル国王は解放されたそうです。ただ……」

「どうしたのです?」
 問いかける彼女の瞳に、家令は一瞬だけ逡巡を見せた。
「……お身体が、かなり弱っておられると」

 室内の空気が張り詰めた。
 窓辺に立っていたリリアナが振り向き、その視線が家令に注がれる。
「……バルテルが解放されたのですね。よかった……」
 安堵の吐息と共に言葉を洩らす。だがすぐに声が震えた。
「先ほど……身体が弱っていると。どういうことなのですか?」
「詳しいことは分かりかねます。殿下であれば、何かご存じかと」

「そう……」
 短い返答の裏で、握りしめた薄絹の端がかすかに震えていた。

(殿下に会いに行かなくては……。バルテルの身に、何が――)
 別れてから幾年が過ぎただろう。健康で誰よりも頑丈だったはずの彼が、どうして。
 不安が胸を満たし、リリアナは急ぎ仕度を整えると、王宮へ向かった。

 ――王宮。
 執務室に通されたリリアナは、ラファエルの前に進み出た。
「殿下……バルテル様のお身体がよろしくないと伺いました。どういうことなのでしょうか」

 ラファエルは眉を寄せ、小さく首を振った。
「いや、こちらも詳しいことは分からない。ただ……一度会いに行かれるのも良いかもしれぬ。ご希望であれば、訪問の段取りを整えよう」

 彼はリリアナの横顔を見つめた。
 安堵、動揺、痛み――幾つもの感情が瞬きのように去来し、やがて透き通った光に落ち着いていく。

「……はい。彼に会いに行きたいです」
 静かに告げる声に、ラファエルは一拍置いて応じた。
「ただし、報せによれば長居は難しいかもしれない。向こうは向こうで、国の立て直しが急務でもある」

 リリアナは目を伏せ、胸の奥に長い季節がひとつ折り畳まれていくのを感じた。
(会える――)
 ただその事実だけで涙が滲みそうになる。

「知らせてくださって、ありがとうございます」
 深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「……リアムとエアリスに、今夜は少し遅くなると伝えていただけますか。祈りたいのです」

 ラファエルは頷いた。
「もちろんだ」

 扉が閉じる。短い沈黙ののち、ラファエルは机上の文を束ね、窓外へ視線を投げた。
 夕陽が帝都の尖塔を朱に染め、風が若葉を揺らしている。

 胸の内に、彼自身の祈りが灯る。
 ――彼女の選ぶ道が、どの道であれ、光でありますように。

 その夜。
 礼拝堂の灯は遅くまで消えなかった。

 リリアナは膝をつき、両手を胸に重ねる。祈りの言葉は声にならず、ただ静かな呼吸だけが石の床に落ちていく。
 遠い国で、白銀の髪の王が机に向かう姿が、瞼の裏に浮かんだ。

 ――未来を恐れるな。希望を胸に、進め。

 誰かの――けれど確かに彼の言葉が、胸の奥で小さく響いた。
 リリアナはそっと目を開けた。

 ドレイヴァンの空にも、ノヴァリアの空にも、同じ夜風が渡る。
 ふたつの国の灯の間で、長く引き結ばれていた細い糸が、解けず、切れもせず、ただ静かに、次の朝の方角を指していた。
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