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第84話 夫婦の思い出
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ラファエルは諦めなかった。
自国ノヴァリア帝国の医師だけではなく、周辺諸国の名医にまで声をかけ、ありとあらゆる治療法を探し求めた。
やがて評判の高い医師を招き入れることに成功し、その手配はすべて彼が背負った。
医師の処方と手立てによって、バルテルの痛みは和らぎ、顔色もわずかに戻ってきた。
歩くのはまだ難しかったが、従者に支えられ、車輪付きの椅子に腰掛けて庭へ出られるようになった。
車椅子を押すのはリリアナだった。
風に揺れる木々を眺め、子供たちの無邪気な声を聞くバルテルの横顔は、久方ぶりに安らいでいた。
「日差しと風が気持ちいいわね。寒くない?」
「……あぁ。大丈夫だ。本当に気持ちいい。こんな気分を味わえるなんて、いつ以来だろう」
リリアナは小さく笑い、少し遠い日を思い出すように語った。
「ねぇ、結婚した頃を思い出したわ。あなたが私を野原に連れ出してくれて……あの頃は、二人でどこまでも歩いていける気がした。風も、今と同じように優しかった。覚えている? 私が作った花冠を、不器用なのに被ってくれたこと」
バルテルの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「もちろんだ。あの時、お前がどこか寂しそうだったから、少しでも笑ってほしくてな。だが、お前の作った花冠は、どんな宝石よりも美しかった」
リリアナの胸が、きゅっと締め付けられる。
思い出は暖かく、それでいて残酷な現実を突きつける。
「そんなことないわ。あなた、耳まで真っ赤にして恥ずかしがっていたくせに……。でも、そう言ってくれると嬉しい」
彼女の声は少しだけ震えていた。
「ねぇ、バルテル。もし、この先もずっと……こんなふうに日向ぼっこができたら、どんなに幸せかしら」
バルテルは車椅子の手すりに置かれたリリアナの手に、自分の細く冷たい指を重ねた。
「リリアナ……」
その声は風に溶けるようにか細い。
「お前と出会って、私は初めて、戦場ではない場所で『生きたい』と思った。お前が、私に『未来』という光を見せてくれたのだ」
言葉の続きを、リリアナは聞かずとも理解していた。
彼女は静かに俯き、その冷たい指をそっと包み込んだ。
――その半年は、かけがえのない安らぎの時であった。
しかし、その裏でリリアナとライナルトの胸には、深い申し訳なさが積もっていった。
ここまでしていただいて……どうして、と。けれど言葉にはならず、ただ感謝の思いを繰り返すばかりだった。
ある日、ラファエルが柔らかく告げる。
「気にすることはありません。あなたは我が帝国に必要な方だから。国を挙げてあなたを守ります。父上――皇帝の許しも得ています。だから、どうか安心してください」
リリアナは胸の奥が熱くなり、ただ深く頭を垂れるしかなかった。
だが、安らぎは永遠ではなかった。
半年が過ぎた頃、再びバルテルの体調が崩れ始める。
医師は診察のあと、言葉を濁した。
「……これ以上の処置は、かえって身体に大きな負担をかけましょう」
ラファエルもライナルトも、その言葉に重く頷くしかなかった。
ここまでか――。どれほど尽力しても、抗えぬものがあると悟る瞬間だった。
その報せをリリアナに伝えるのは、あまりに苦しい。
だが、彼女はすでに感じ取っていた。
周囲の苦悩を、彼女の敏感な心は見逃さない。
「……隠さなくてもわかります」
リリアナは静かに、涙を滲ませて言った。
「バルテル様は……もう長くは……」
言葉の続きを口にすることはできなかった。
ラファエルもライナルトも胸を詰まらせ、ただ沈黙するしかなかった。
その夜。子供たちが眠った後、リリアナは蝋燭を灯し、夫婦の部屋に足を運んだ。
寝台の上で天井を見つめていたバルテルは、彼女の気配に気づいて顔を向ける。
「起きていたの?」
「あぁ」
「眠れないの?」
「いや、お前を待っていた」
そう言ってリリアナの手を握る。
「詩を詠んでくれないか」
「えぇ……」
彼女は夫の傍らで、静かに詩を朗じた。
――夕暮れは静かに色を溶かし、
やがて朝は新たな光を運ぶ。
限りある日々もまた、
その一瞬に喜びを満たすのだ。
――おお時よ、進むならば進め。
けれど幸せよ、お前は残れ。
われらの家族の心に根を下ろし、
明日を照らす希望となって――
――夜が来ても、夢は眠らず。
愛は花のように咲き続け、
笑顔と共に広がっていく。
それが我らの祝福――
その声は震えながらも澄み渡り、バルテルの心を温かく包み込んだ。
リリアナにとって、詩を紡ぐことは自らの痛みを堪える唯一の術でもあった。
――叶わぬ祈りの中で、それでも今を生きてほしい。
朗読を終えると、リリアナはそっと寝台に身を横たえ、バルテルを抱きしめた。
この温もりがもっと長く続きますように――そう願いを込めて。
リリアナの想いは、消えゆく命に寄り添う唯一の光となっていた。
自国ノヴァリア帝国の医師だけではなく、周辺諸国の名医にまで声をかけ、ありとあらゆる治療法を探し求めた。
やがて評判の高い医師を招き入れることに成功し、その手配はすべて彼が背負った。
医師の処方と手立てによって、バルテルの痛みは和らぎ、顔色もわずかに戻ってきた。
歩くのはまだ難しかったが、従者に支えられ、車輪付きの椅子に腰掛けて庭へ出られるようになった。
車椅子を押すのはリリアナだった。
風に揺れる木々を眺め、子供たちの無邪気な声を聞くバルテルの横顔は、久方ぶりに安らいでいた。
「日差しと風が気持ちいいわね。寒くない?」
「……あぁ。大丈夫だ。本当に気持ちいい。こんな気分を味わえるなんて、いつ以来だろう」
リリアナは小さく笑い、少し遠い日を思い出すように語った。
「ねぇ、結婚した頃を思い出したわ。あなたが私を野原に連れ出してくれて……あの頃は、二人でどこまでも歩いていける気がした。風も、今と同じように優しかった。覚えている? 私が作った花冠を、不器用なのに被ってくれたこと」
バルテルの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「もちろんだ。あの時、お前がどこか寂しそうだったから、少しでも笑ってほしくてな。だが、お前の作った花冠は、どんな宝石よりも美しかった」
リリアナの胸が、きゅっと締め付けられる。
思い出は暖かく、それでいて残酷な現実を突きつける。
「そんなことないわ。あなた、耳まで真っ赤にして恥ずかしがっていたくせに……。でも、そう言ってくれると嬉しい」
彼女の声は少しだけ震えていた。
「ねぇ、バルテル。もし、この先もずっと……こんなふうに日向ぼっこができたら、どんなに幸せかしら」
バルテルは車椅子の手すりに置かれたリリアナの手に、自分の細く冷たい指を重ねた。
「リリアナ……」
その声は風に溶けるようにか細い。
「お前と出会って、私は初めて、戦場ではない場所で『生きたい』と思った。お前が、私に『未来』という光を見せてくれたのだ」
言葉の続きを、リリアナは聞かずとも理解していた。
彼女は静かに俯き、その冷たい指をそっと包み込んだ。
――その半年は、かけがえのない安らぎの時であった。
しかし、その裏でリリアナとライナルトの胸には、深い申し訳なさが積もっていった。
ここまでしていただいて……どうして、と。けれど言葉にはならず、ただ感謝の思いを繰り返すばかりだった。
ある日、ラファエルが柔らかく告げる。
「気にすることはありません。あなたは我が帝国に必要な方だから。国を挙げてあなたを守ります。父上――皇帝の許しも得ています。だから、どうか安心してください」
リリアナは胸の奥が熱くなり、ただ深く頭を垂れるしかなかった。
だが、安らぎは永遠ではなかった。
半年が過ぎた頃、再びバルテルの体調が崩れ始める。
医師は診察のあと、言葉を濁した。
「……これ以上の処置は、かえって身体に大きな負担をかけましょう」
ラファエルもライナルトも、その言葉に重く頷くしかなかった。
ここまでか――。どれほど尽力しても、抗えぬものがあると悟る瞬間だった。
その報せをリリアナに伝えるのは、あまりに苦しい。
だが、彼女はすでに感じ取っていた。
周囲の苦悩を、彼女の敏感な心は見逃さない。
「……隠さなくてもわかります」
リリアナは静かに、涙を滲ませて言った。
「バルテル様は……もう長くは……」
言葉の続きを口にすることはできなかった。
ラファエルもライナルトも胸を詰まらせ、ただ沈黙するしかなかった。
その夜。子供たちが眠った後、リリアナは蝋燭を灯し、夫婦の部屋に足を運んだ。
寝台の上で天井を見つめていたバルテルは、彼女の気配に気づいて顔を向ける。
「起きていたの?」
「あぁ」
「眠れないの?」
「いや、お前を待っていた」
そう言ってリリアナの手を握る。
「詩を詠んでくれないか」
「えぇ……」
彼女は夫の傍らで、静かに詩を朗じた。
――夕暮れは静かに色を溶かし、
やがて朝は新たな光を運ぶ。
限りある日々もまた、
その一瞬に喜びを満たすのだ。
――おお時よ、進むならば進め。
けれど幸せよ、お前は残れ。
われらの家族の心に根を下ろし、
明日を照らす希望となって――
――夜が来ても、夢は眠らず。
愛は花のように咲き続け、
笑顔と共に広がっていく。
それが我らの祝福――
その声は震えながらも澄み渡り、バルテルの心を温かく包み込んだ。
リリアナにとって、詩を紡ぐことは自らの痛みを堪える唯一の術でもあった。
――叶わぬ祈りの中で、それでも今を生きてほしい。
朗読を終えると、リリアナはそっと寝台に身を横たえ、バルテルを抱きしめた。
この温もりがもっと長く続きますように――そう願いを込めて。
リリアナの想いは、消えゆく命に寄り添う唯一の光となっていた。
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