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第二章 弓張月
薬師川漣の無気力
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「終わった終わった。こんなのに巻き込まれるなんて、律月さんも災難だねー」
さも「面倒な対応が終わった」と言いたげに、漣が肩を回す。結の言葉は微塵も響いていないようだ。
「……それだけ?」
思わず問いかけるが、漣は小さく笑うだけ。それ以外に言うことはないと、言外に匂わせていた。
「さて、と。他の人たちもまだ戻ってこないみたいだし、俺たちだけでおやつ食べちゃおっか」
「食べる」
差し出された焼き菓子を受け取る。平べったい直方体を頬張っていると、漣はバウムクーヘンの年輪を数枚だけ剥がして口に運んでいた。ついまじまじと眺めてしまう。
「あげないよ?」
「人の食べかけ貰うほど意地汚くない。そうじゃなくて、なんか変わった食べ方してるなって」
「ついつい剥がしたくなっちゃうんだよなー。見てて不快なら止めるよ」
別に気にしない、とわたしが言い終える前に、漣は再び層を剥がす。最初からわたしの言葉を聞く気はなかったらしい。
「漣、聞いてもいい?」
焼き菓子を食べ終えたわたしは、ゴミを片付けながら漣に問いかける。なぜ結を嫌っているのか、と。あくまで世間話の一環として、彼を責め立てるような口調にはならないように。
細心の注意を払って投げかけた質問には、漣の「別に嫌ってないよ?」という不思議そうな声が返ってきた。
「そうは見えないけど」
「まぁ多少の苦手意識はあるけど、嫌いじゃない。そもそも嫌いになるほど関わりもないし」
「ふーん?」
そんな説明で納得できるわけがない。じとりと見やると、漣は苦笑して両手を挙げた。
「わかったよ。ちゃんと説明するから」
漣は組んでいた足を戻す。退屈な話になるけど、と言いながら彼はノートをデスクに広げた。
「結さんの家庭事情は知ってる? 有名な食品メーカーの創業者一族なんだけど」
「……まさか、さっきのお菓子……」
わたしは恐る恐る尋ねる。記憶が正しければ、先ほど捨てたばかりのパッケージに「フジタ」と記載されていた。直後、その予想は肯定される。
「正解。それ以外にもパンとかジュースとか、フジタ印の飲食物はあちこちにあるよ」
今飲んでるお茶もね。続けられた言葉に咳き込む。気管へ侵入した液体を咳で追い出していると、漣がティッシュを差し出してきた。ありがたく受け取る。
「あらら、大丈夫? 大丈夫じゃなくても話続けるね」
あんたも鬼だったのか――そう言ってやりたいが、ゲホゲホと咳き込んでいるうちは文句の一つも言えやしない。彼の父親が立ち上げた医薬品メーカーについての話を聞き流し、わたしはお茶で喉を潤す。
ようやく咳が治まると、彼は「もう平気?」と笑った。そろそろ本題ね、と。
「薬師川家……というか俺の親はフジタを目の敵にしてて、何かにつけて結さんと競わせようとするんだ。当然、仲良くなるなんて以ての外」
「ふーん……。でも、親が結の話ばっかりしてたら嫌にならない?」
「そりゃあね。子供の頃は結さんの顔も知らなかったのに、不幸になれって呪ったこともあるよ」
わたしの疑問に答えた漣は、開きっぱなしのノートにペンを立てた。真っ白なページに黒い点がつく。
トントントントン。いくつもの点を書き加えた漣は、やがてぴたりと手を止め「でもね」と呟いた。
「俺が嫌うべきは三歳年下の女の子じゃなくて、比較しかしない親の方。そう気づいてから不毛な恨み事は言わなくなったな」
「前向きになったってこと?」
「違う、面倒になったんだ。結さんを嫌うことも、必死になって努力することも……何もかもどうでもよくなった」
ペンが音を立てて転がる。漣はそれを視線だけで追い、やがてわたしに目を戻した。
「そしたら親がめちゃくちゃキレてさ、俺を〈九十九月〉に押しつけたんだよ。ほとんど勘当みたいな感じで」
「勘当……」
「家から追い出されたってこと。ま、あの家族に愛着なんてないからいいんだけど」
言葉の意味を聞きたかったわけではないのだが、何かを言うことなく口を閉ざす。いくら本人が「愛着なんてない」と言っていても、家族との縁が切れたことを喜べるはずがなかった。
「……漣の事情はわかった。いつもだるそうな目をしてるのはそのせいなんだね」
「え、顔に出てた? 他の人には何も言われたことないんだけどな」
神妙に頷いて、とりあえず話題を逸らす。すると漣は目を丸くした。瞳は純粋な驚きで彩られていて、普段の冷めた目つきは見当たらない。
「本気で気持ちを隠したいなら千秋を見習うといいと思うよ」
「あー……。あの人は、ねぇ……」
曖昧な笑みで誤魔化すと、漣は瞬きを一つした。再び開かれた目は普段通りの気だるげなもので、先ほどの驚いた顔は錯覚だったのかと疑ってしまう。
「あの人を見習って優秀になったら家に連れ戻されそうだよねー。俺、この組織に骨を埋めるつもりだから」
軽薄な微笑からは真偽を読み取れない。わたしは深く追及せず「そっか」と話を打ち切った。
さも「面倒な対応が終わった」と言いたげに、漣が肩を回す。結の言葉は微塵も響いていないようだ。
「……それだけ?」
思わず問いかけるが、漣は小さく笑うだけ。それ以外に言うことはないと、言外に匂わせていた。
「さて、と。他の人たちもまだ戻ってこないみたいだし、俺たちだけでおやつ食べちゃおっか」
「食べる」
差し出された焼き菓子を受け取る。平べったい直方体を頬張っていると、漣はバウムクーヘンの年輪を数枚だけ剥がして口に運んでいた。ついまじまじと眺めてしまう。
「あげないよ?」
「人の食べかけ貰うほど意地汚くない。そうじゃなくて、なんか変わった食べ方してるなって」
「ついつい剥がしたくなっちゃうんだよなー。見てて不快なら止めるよ」
別に気にしない、とわたしが言い終える前に、漣は再び層を剥がす。最初からわたしの言葉を聞く気はなかったらしい。
「漣、聞いてもいい?」
焼き菓子を食べ終えたわたしは、ゴミを片付けながら漣に問いかける。なぜ結を嫌っているのか、と。あくまで世間話の一環として、彼を責め立てるような口調にはならないように。
細心の注意を払って投げかけた質問には、漣の「別に嫌ってないよ?」という不思議そうな声が返ってきた。
「そうは見えないけど」
「まぁ多少の苦手意識はあるけど、嫌いじゃない。そもそも嫌いになるほど関わりもないし」
「ふーん?」
そんな説明で納得できるわけがない。じとりと見やると、漣は苦笑して両手を挙げた。
「わかったよ。ちゃんと説明するから」
漣は組んでいた足を戻す。退屈な話になるけど、と言いながら彼はノートをデスクに広げた。
「結さんの家庭事情は知ってる? 有名な食品メーカーの創業者一族なんだけど」
「……まさか、さっきのお菓子……」
わたしは恐る恐る尋ねる。記憶が正しければ、先ほど捨てたばかりのパッケージに「フジタ」と記載されていた。直後、その予想は肯定される。
「正解。それ以外にもパンとかジュースとか、フジタ印の飲食物はあちこちにあるよ」
今飲んでるお茶もね。続けられた言葉に咳き込む。気管へ侵入した液体を咳で追い出していると、漣がティッシュを差し出してきた。ありがたく受け取る。
「あらら、大丈夫? 大丈夫じゃなくても話続けるね」
あんたも鬼だったのか――そう言ってやりたいが、ゲホゲホと咳き込んでいるうちは文句の一つも言えやしない。彼の父親が立ち上げた医薬品メーカーについての話を聞き流し、わたしはお茶で喉を潤す。
ようやく咳が治まると、彼は「もう平気?」と笑った。そろそろ本題ね、と。
「薬師川家……というか俺の親はフジタを目の敵にしてて、何かにつけて結さんと競わせようとするんだ。当然、仲良くなるなんて以ての外」
「ふーん……。でも、親が結の話ばっかりしてたら嫌にならない?」
「そりゃあね。子供の頃は結さんの顔も知らなかったのに、不幸になれって呪ったこともあるよ」
わたしの疑問に答えた漣は、開きっぱなしのノートにペンを立てた。真っ白なページに黒い点がつく。
トントントントン。いくつもの点を書き加えた漣は、やがてぴたりと手を止め「でもね」と呟いた。
「俺が嫌うべきは三歳年下の女の子じゃなくて、比較しかしない親の方。そう気づいてから不毛な恨み事は言わなくなったな」
「前向きになったってこと?」
「違う、面倒になったんだ。結さんを嫌うことも、必死になって努力することも……何もかもどうでもよくなった」
ペンが音を立てて転がる。漣はそれを視線だけで追い、やがてわたしに目を戻した。
「そしたら親がめちゃくちゃキレてさ、俺を〈九十九月〉に押しつけたんだよ。ほとんど勘当みたいな感じで」
「勘当……」
「家から追い出されたってこと。ま、あの家族に愛着なんてないからいいんだけど」
言葉の意味を聞きたかったわけではないのだが、何かを言うことなく口を閉ざす。いくら本人が「愛着なんてない」と言っていても、家族との縁が切れたことを喜べるはずがなかった。
「……漣の事情はわかった。いつもだるそうな目をしてるのはそのせいなんだね」
「え、顔に出てた? 他の人には何も言われたことないんだけどな」
神妙に頷いて、とりあえず話題を逸らす。すると漣は目を丸くした。瞳は純粋な驚きで彩られていて、普段の冷めた目つきは見当たらない。
「本気で気持ちを隠したいなら千秋を見習うといいと思うよ」
「あー……。あの人は、ねぇ……」
曖昧な笑みで誤魔化すと、漣は瞬きを一つした。再び開かれた目は普段通りの気だるげなもので、先ほどの驚いた顔は錯覚だったのかと疑ってしまう。
「あの人を見習って優秀になったら家に連れ戻されそうだよねー。俺、この組織に骨を埋めるつもりだから」
軽薄な微笑からは真偽を読み取れない。わたしは深く追及せず「そっか」と話を打ち切った。
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