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隠遁者コノミ
シコシコゴブリンの脅威
しおりを挟む今、この人は何と言った?
私の思考が、完全に停止した。幻聴だろうか。あまりに俗な単語と、ありふれたモンスター名との組み合わせに、脳が理解を拒絶する。
私の呆然とした顔を見て、文官はさらに説明を続けた。その表情は、国家の危機を語るにふさわしい真剣そのものだ。
「奴らは、通常のゴブリンと異なり、繁殖期になると見境なく、ひたすらに自慰行為に及びます。そして、その白濁した体液を、人里近くの川や水路に撒き散らすのです。一体や二体ならまだしも、今年は異常発生しておりまして……。王都の水は濁り、異臭を放ち、浄化魔法も追いつかない。王都の景観と尊厳も……」
言葉を失った私を尻目に、文官はぐっと拳を握りしめ、熱っぽく訴えかけた。
「そこで、聖女殿のお力が必要なのです! あなたの【射精管理】スキルで、忌まわしきシコシコゴブリンどもの射精を、根こそぎ禁じていただきたい!」
教会の外では、相変わらず、のどかな波の音が響いていた。
私の二年間の平穏が、今、とんでもなく馬鹿馬鹿しい理由で終わりを告げようとしていた。
「……シコ、シコ……ゴブリン?」
かろうじて紡いだ私の声は、ひどく間抜けに震えていた。あまりに下品で、緊張感のないその響きに、思わず自分の耳を疑う。何かの隠語だろうか。あるいは、この国の言語における発音の問題か。
しかし、文官はあくまで真剣な面持ちで、深く頷いた。
「左様。正式な魔物分類学上の名称です。聖女殿は異邦人とのことゆえ、ご存じないのも無理はありますまい」
彼は咳払いを一つすると、まるで大学教授が講義でも始めるかのような、よどみない口調で説明を始めた。
「シコシコゴブリンは、ゴブリン種の中では比較的、無害な亜種とされておりました。多くのゴブリン種は、ご存知の通り、ヒトやエルフといった異種族の女性を直接襲い、犯すことで子孫を残そうとします。しかし、彼らは違う。シコシコゴブリンは、なぜか性行為そのものよりも自慰行為を優先する、という奇妙な生態を持つため、直接ヒトを襲うことは滅多にないのです」
「は、はあ……」
相槌を打つので精一杯だった。話の内容が、私の常識の斜め上を猛スピードで駆け抜けていく。
「ですが、それこそが奴らの真に厄介な点なのです」
文官の声に、苦々しい色が混じる。
「奴らは、人里近くの川や、王都の用水路に、己の精液を流し込みます。そして、その水を用いて水浴びや洗濯をした異種族の女性を、体内から妊娠させることで子孫を残そうと試みるのです」
「なっ……!?」
思わず息を呑んだ。それはつまり、見えない触手による陵辱ではないか。あまりに陰湿で、卑劣な繁殖方法に、背筋がぞっとする。
「通常のゴブリンであれば、女性を屈強な兵士でガードしたり、巣を特定して叩いたり、現場を押さえて撃退することで防げます。しかし、シコシコゴブリンは直接手を下してこない。防御のしようがないのです」
文官は、王都を襲う惨状を語り始めた。
「奴らの精液は、おそろしく生命力が強く、水中に放出された後も、実に十四日以上も受精能力を保ち続けます。熱にも異常な耐性があり、水を煮沸したところで死滅しない。迂遠な繁殖方法ゆえ、これまでは個体数が増えることもなく、稀な珍事として扱われておりました。それが救いだったのですが……ここ数ヶ月、どういうわけか奴らの数が爆発的に増えているのです」
隣で沈黙を守っていた騎士が、重々しく口を開いた。
「王都の泉や水路は、もはや白く濁り、使い物にならん。浄化魔法は焼け石に水。何より、王都の女性たちが、知らぬ間にゴブリンの子を身ごもる恐怖に怯えている。これは、王国の存亡に関わる由々しき事態なのだ」
私は言葉を失った。政治的な暗殺や謀略。そんな、人間同士の醜い争いのために、私の力が求められているのだとばかり思っていた。だが、現実は違った。もっと生物的で、根源的で、そして途方もなく厄介な問題だった。
退治しようにも、奴らは特定の巣を持たず、広範囲に散開している。騎士団を動員して一匹ずつ倒していては、キリがないどころか、その間に被害は拡大し続けるだろう。
そこで、私のスキルだ。
視認さえできれば、射程内すべての対象に効果を及ぼせる。
レジストは不可能。
そして、ゴブリンどもの「それ」を、根本から「禁じる」ことができる。
「ご理解いただけましたかな、聖女殿」
文官は、私の心を見透かすように言った。
「この国、いや、この世界のいかなる魔法や武力をもってしても、この事態を収拾するのは困難を極めるでしょう。しかし、あなたのお力ならば可能なはず。散らばるゴブリンどもを視認するだけで、その忌まわしき繁殖活動を、未来永劫に渡って封じることができる。実質的に、奴らを無害な存在へと変えられるのです。これほどうってつけの能力は、他にありません」
私は、自分の手のひらを見つめた。
このスキルを与えられた時、神を呪った。冒険者として無力だった日々、侮蔑と嘲笑に耐えた日々を思い出す。こんな力、なければよかったと、何度思ったことか。
だが、今。
王国の使者は、私のこの忌まわしいスキルを「聖女の力」と呼び、心の底から渇望している。
王侯貴族を断種するための暗殺道具だと思っていたこの力は、あるいは、世界で一番下品で、どうしようもなく馬鹿馬鹿しいこの力こそが、世界で一番、陰湿で厄介なこの悲劇を終わらせられる、唯一の希望だというのか。
「……」
潮風が、ステンドグラスの隙間から吹き込み、私の頬を撫でた。
それはまるで、二年間の平穏に別れを告げる、優しい合図のようだった。
結局、私はその途方もなく馬鹿げた依頼を引き受けることにした。
シスター・マリルは「あんたの心が決めたことなら、それが神の思し召しだよ」とだけ言って、私の背中を優しく押してくれた。こうして私は、二年ぶりに修道服を脱ぎ、王家の使者が用意した簡素な旅装束に身を包んで、王都アステリア行きの馬車に乗り込んだのだった。
道中、文官から聞かされる王都の噂は、どれもこれも暗いものばかりだったが、それでも私の心の中には、まだどこか現実感のない、他人事のような感覚が漂っていた。シコシコゴブリン。その名前が持つ滑稽さが、事態の深刻さを覆い隠してしまっていたのだ。
だが、その認識がいかに甘いものであったか、王都の城門をくぐった瞬間に思い知らされることになる。
「……うっ!」
馬車を降りた途端、鼻をついた生臭く、そしてどこか酸っぱいような異臭に、私は思わず口元を手で覆った。胃の奥からこみ上げてくる吐き気を、必死にこらえる。
目の前に広がるのは、かつて「大陸で最も美しい」と謳われた水の都の姿ではなかった。
街の至る所に張り巡らされた水路。本来ならば、陽光を浴びてきらきらと輝く清流が、街行く人々の心を和ませていたはずだ。しかし、今、私の目に映る水路は、まるで溶かした獣脂でも流し込んだかのように、どろりと白濁し、よどんでいた。水面には正体不明の泡がぷつぷつと浮かび、生命の営みとは程遠い、腐敗した匂いをあたりに撒き散らしている。
これが、シコシコゴブリンの……。
話には聞いていた。だが、想像をはるかに超える惨状だった。もはや「汚染」という言葉では生ぬるい。これは、都市機能の壊死だ。
私の青ざめた顔を見て、文官が痛ましげに眉を寄せた。
「お見苦しいところを……。これが、今の王都の現実です。飲み水は、王城の井戸から汲み上げた水を、神官たちが総出で浄化した『聖水』として無償で配給していますが、元が元なだけに、皆、かなり抵抗を感じている状態です」
彼の指さす先では、広場に設けられた配給所に長い列ができていた。人々は皆、一様に暗い顔で、水樽を受け取っては足早に去っていく。その表情には、感謝よりも強い嫌悪と諦めが滲んでいた。
「洗濯や入浴も、この水を使うわけにはいきません。現在は著しい規制が強いられており、公衆衛生に甚大な被害が発生しています。見てください、街ゆく人々の身なりを」
言われてみれば、人々の衣服は薄汚れ、髪もどこか脂ぎっている。かつての華やかな都の住人とは思えないほど、皆が疲弊しきっていた。活気はなく、笑顔もない。街全体が、重苦しい閉塞感に支配されている。
さらに、騎士が忌々しげに舌打ちをした。
「そのせいで、腐敗も横行している。浄化不要な山奥の湧き水や、限られた富裕層が持つ魔法の浄水器で生成された真水が、商人たちの投機の対象となり、法外な値段で取引されているのだ。買える者と、買えぬ者。水の格差が、民の心を分断しつつある」
路地裏では、革袋に入った水を高値で売りつける商人と、それにすがるように金を渡す市民の姿が見えた。それは、私の知る平穏な港町では、決して見ることのない光景だった。
二年。私が海辺の教会で静かな祈りを捧げている間に、この国の心臓部は、こんなにも深く、そして静かに蝕まれていたのか。
世俗を離れていた自分を、初めて恥じた。これは政治闘争でも、権力争いでもない。人々の日常が、尊厳が、見えない汚濁によって根こそぎ奪われている、紛れもない災害だ。そして、その原因となっているのが、あのふざけた名前の魔物なのだという現実が、途方もない怒りとなって腹の底から湧き上がってきた。
私は、自分のスキルを呪っていた。こんな力、なければいいとさえ思っていた。
だが、今は違う。
この光景を前にして、なお自分の力を否定するのは、ただの傲慢であり、怠慢だ。
この白く濁った絶望を、洗い流せる者がいるとすれば。
この忌まわしい連鎖を、断ち切れる者がいるとすれば。
それは、他の誰でもない。
この、世界で一番下品で、役立たずだと思っていた【射精管理】スキルを持つ、私しかいないのだ。
私は、吐き気をぐっとこらえ、顔を上げた。
文官と騎士の、不安げな視線が私に注がれる。その視線をまっすぐに受け止め、私ははっきりと告げた。
「案内してください。奴らは、どこにいるのですか」
私の声には、もう迷いはなかった。胸の内に燃え上がったのは、まぎれもない使命感だった。
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