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隠遁者コノミ
シコシコゴブリン監視官さん、国を救った英雄になってしまう
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「奴らの厄介な点は、その神出鬼没さにもあります」
私の中に燃え始めた決意を感じ取ったのか、文官は少しだけ安堵したような表情で説明を続けた。
「特定の巣を持たず、人目を巧みに避けて行動する。そして、夜陰に乗じて、あるいは人通りの少ない路地で、こっそりと川や用水路に近づき、犯行に及ぶのです。この広い王都で、すべての現場を押さえるのは物理的に不可能。だからこそ、騎士団による討伐も後手に回ってしまう」
「ですが、聖女殿」と、騎士が私の目を見て力強く言った。「視認さえできればよい、あなたならば可能です」
彼らに導かれ、私がやってきたのは、王城に隣接する巨大な白亜の塔だった。
「星見の塔」と呼ばれるその場所は、王都で最も高く、街の全域を一望できるという。螺旋階段を延々と上り、最上階の展望台に出た瞬間、眼下に広がるパノラマに息を呑んだ。白く濁った水路網が、まるで病んだ血管のように街中を這いずり回っているのが、手に取るようにわかる。
「これを」
文官が、真鍮製の精巧な望遠鏡を私に手渡した。ずしりと重い。レンズの向こうには、拡大された王都の街並みが広がる。
「この塔から、王都全域を監視していただきたいのです。我々が総力を挙げて、聖女殿の生活を支援いたします」
言われるがまま、私は望遠鏡を覗き込み、ゆっくりと視界を動かした。石畳の道、家々の屋根、市場の喧騒。そして、問題の水路。
その時だった。
「……いた」
私の声に、隣で控えていた文官と騎士が息を呑む。
市場の裏手、ゴミが打ち捨てられた水路の縁。緑色の肌をした、小柄な人影が一つ。周囲をきょろきょろと警戒しながら、腰を落とし、ズボンを下ろしている。間違いない。あれが、シコシコゴブリンだ。
奴は、自分のそれをしきりに扱きながら、うっとりとした表情で水面を見つめている。まさに行為の真っ最中だった。
私は、望遠鏡のピントを合わせ、その醜悪な姿をレンズの中央に捉える。そして、心の内で強く、明確に念じた。
――禁ずる。
瞬間、レンズの向こうで、ゴブリンの動きがピタリと止まった。
恍惚としていたその表情が、一瞬で「あれ?」という戸惑いの色に変わる。最高潮に達するはずだった快感の波が、寸前で忽然と消え失せた。そんな、信じられない、という顔だ。
ゴブリンは、なぜ絶頂に至れないのか理解できず、不思議そうに自分の股間を見つめる。そして、さらに激しく腰を振り始めた。だが、いくらやっても、結果は同じ。決して、ゴールテープは切れない。
やがて、その戸惑いは焦りへ、そして絶望へと変わっていった。ぽろり、と。その大きな目から、一筋の涙がこぼれ落ちるのが見えた。なぜ、なぜイけないんだ。そう言いたげに天を仰ぎ、彼はその場で泣き崩れた。それでもなお、諦めきれないのか、涙を流しながら虚しくヘコヘコと腰を振り続けている。
「……終わりました」
私はそっと望遠鏡から目を離し、傍らの騎士に手渡した。
「聖女様、これは……!」
望遠鏡を覗き込んだ騎士が、驚愕の声を上げる。レンズの向こうの光景――泣き崩れながらも、報われることのない自慰を続けるゴブリンの哀れな姿――を確認した文官も、感極まったように声を震わせた。
「おお……! なんというお力だ! 奴はもう、二度と我らを脅かすことはない! さすがは聖女様だ! 王国は救われた!」
彼らの大絶賛を浴びながら、私は少しだけ複雑な気分になった。やっていることは、ゴブリンの自慰を覗き見して、それを邪魔しているだけなのだ。聖女というには、あまりにも俗で、情けない光景ではないか。
しかし、感傷に浸っている暇はなかった。
「あちらにも!」
「西の橋の下にもおりますぞ!」
騎士たちの報告を受け、私は再び望遠鏡を覗き込む。いる、いる。あちこちに、こそこそと隠れては自らの欲望を満たそうとする緑色の小男たちが。
私は淡々と、しかし確実に、一体ずつ照準を合わせ、その機能を停止させていく。
イク寸前で虚無に突き落とされ、泣き崩れるゴブリン。
何が起きたか分からず、首を傾げながら去っていくゴブリン。
怒り狂ったように地面を叩くゴブリン。
その反応は様々だったが、結果はただ一つ。彼らは皆、永遠にその目的を達成できなくなった。
結局、その日、私が塔の最上階で費やした時間は、わずか一時間にも満たなかった。
その間に、私が「断種」したシコシコゴブリンの数は、実に二十匹を超えていた。騎士団が丸一日かけても数匹しか駆除できないことを考えれば、驚異的としか言いようのない成果だ。
「素晴らしい……本当に、素晴らしい……」
文官は、感動のあまり言葉もなかった。
こうして、私の新しい日常が始まった。
この「星見の塔」の最上階に住まいを与えられ、三食昼寝付きの厚待遇を受けながら、一日中、望遠鏡で王都を監視する。そして、シコシコしているゴブリンを見つけ次第、そのささやかな楽しみを、根こそぎ奪い去る。
それは、海辺の教会での祈りの日々とは全く違う、奇妙で、どこか倒錯した「聖務」だった。
それからの一ヶ月は、ある意味で私の人生で最も単調で、しかし最も劇的な日々だった。
朝、侍女が運んでくる温かい朝食をとると、私は決まって望遠鏡の前に座る。眼下に広がる王都のミニチュアをゆっくりと眺め、緑色の小さな点を探す。見つけ次第、心のスイッチを入れる。――禁ずる。それだけだ。
昼は豪華な食事が運ばれ、午後は紅茶を片手に再び監視。夜は満天の星の下で、最後のチェックを済ませて眠りにつく。
私の生活は、完全に「シコシコゴブリン監視官」と化していた。
最初の数日は、面白いようにゴブリンどもが見つかった。用水路の縁、橋の下、寂れた裏路地、洗濯場の物陰。彼らは本当に、ありとあらゆる場所で、人知れずその欲求を満たそうとしていた。私はそれを片っ端から、無慈悲に、しかし効率的に「処理」していった。
一週間も経つと、その数は目に見えて減り始めた。
二週間が過ぎる頃には、一日に数匹見つけられれば良い方になった。
そして、一ヶ月が経過する頃には、王都のどこを探しても、シコシコしているゴブリンの姿を見かけることは、ほとんどなくなっていた。
変化は、別の形でも現れた。
ムラムラとした欲求を解消できなくなったゴブリンの一部が、自暴自棄になったのか、狂暴化して街中に姿を現すようになったのだ。
「第三地区にゴブリン出現!」
塔の下から騎士の報告が響く。だが、それはもはや脅威ではなかった。もともとシコシコゴブリンは、戦闘力も頭数も大したことがない。ただ衝動のままに暴れるだけ。人前に姿を現せば、待ち構えていた騎士団の格好の餌食だった。物理的な駆除は、驚くほどスムーズに進んだ。
私の「断種」と、騎士団の「討伐」。この二段構えの作戦は、完璧に機能したのだ。
水路の水は、日に日にその透明度を取り戻していった。神官たちが施す浄化魔法の効果が、汚染の速度をようやく上回ったのだ。生臭い異臭は消え、街には活気が戻り始めた。洗濯物が風にはためき、子供たちが水辺で遊ぶ。そんな、当たり前だったはずの光景が、何よりも尊く感じられた。
そして、その日がやってきた。
王城への出頭を命じられた私は、用意された豪奢なドレスに身を包み、少しばかりの緊張と共に、玉座の間へと通された。
磨き上げられた大理石の床。ずらりと並ぶ、きらびやかな衣装の貴族たち。その視線が、一斉に私に注がれる。その最奥、玉座に座るのは、この国の次期国王、ユリウス王太子その人だった。
金色の髪を陽光のように輝かせ、蒼い瞳は湖のように澄み渡っている。物語から抜け出してきたかのような美貌の青年は、私を認めると、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「面を上げよ、聖女コノミ」
その声は、若々しくも、王族としての威厳に満ちていた。
私が顔を上げると、彼は柔らかな笑みを浮かべ、大理石の床にその声が響き渡るよう、はっきりと宣言した。
「貴女の献身に、心からの感謝を。貴女は、この国を救った英雄だ」
貴族たちから、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こる。
私は、ただ呆然と、その光景を見つめていた。
英雄。
この私が?
数ヶ月前まで、海辺の教会で無力感に苛まれていた私が?
冒険者としては落ちこぼれで、与えられたスキルを呪い、世を儚んで生きてきた私が?
ゴブリンの自慰を覗き見て、それを妨害していただけで?
なんだか、世界というのは、本当に不思議なものだと思った。
私のユニークスキル【射精管理】は、確かにこの国を救ったのかもしれない。だが、それはあまりにも滑稽で、あまりにも間抜けな救済劇だった。
ユリウス王太子は、私の前に歩み寄ると、その手を取った。貴族の作法も知らない私の、少しばかりごわついた手を、彼は優しく包み込む。
「貴女には、相応の褒賞を与えねばなるまい。望むものはあるか? 金銀財宝、爵位、領地。何でも望むがよい。貴女には、それを受け取る資格がある」
きらきらとした蒼い瞳が、私をまっすぐに見つめている。
その瞳を見つめ返しながら、私は、この一ヶ月の奇妙な日々を、そして、王都が取り戻した平穏を、静かに思い返していた。
貴族たちの喝采が鳴り響く中、私はユリウス王太子の言葉に、すぐには返事をすることができなかった。
金銀財宝、爵位、領地。どれも、かつての私が見たこともないような、夢のような褒賞だ。だが、私の胸に去来したのは、喜びよりもむしろ、静かな不安だった。
「……恐れながら、殿下」
意を決して口を開くと、玉座の間は水を打ったように静まり返った。
「私には、そのような大それたものを頂く資格はございません。それよりも、一つ、懸念していることが」
「申してみよ」
ユリウス王太子は、興味深そうに私の言葉を促す。
「私のこの能力が……【射精管理】の力が、広く知られてしまったことです」
私は、集まった貴族たちを憚ることもせず、正直な気持ちを打ち明けた。
「今回は、国を救うために役立ちました。しかし、この力は、使い方を誤れば、血統を重んじるこの国において、恐ろしい政争の道具となり得ます。私は……誰かの野心のために、この力を利用されるのが怖いのです。また、静かに暮らしたい。そう願うのは、我が儘でしょうか」
私の告白に、貴族たちの間に、ざわめきが走る。彼らもまた、私のスキルの本当の恐ろしさに、今更ながら気づいたのだろう。人の子を成す営みを、意のままに操る力。それは、どんな剣よりも、どんな魔法よりも、静かで残酷な凶器となりうる。
しかし、ユリウス王太子は、少しも動じることなく、私の言葉を最後まで聞いていた。そして、全てを理解した上で、彼はこう言ったのだ。
「ならば、話は簡単だ」
彼の蒼い瞳が、私を射抜く。
「利用される側になるのが怖いのであれば、貴女自身が、誰にも利用されぬほど、偉くなれば良い」
「……え?」
「貴女には、その資格がある。いや、国を救った英雄として、その地位を築く義務がある」
彼は高らかに、玉座の間にいる全ての者たちへ向けて宣言した。
「聞け! 我は、聖女コノミに、永らく空位となっていたリューン伯爵家の家督を継がせることを決定した! 彼女がかつて祈りを捧げた港町リューンを含む、沿岸一帯を彼女の領地とし、新たな当主として任命する!」
伯爵。
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。それは、この国でも指折りの高位貴族だ。
ダメ能力だと思っていた、あの【射精管理】スキルで。ゴブリンの自慰を監視するという、この上なく馬鹿げた任務をこなしただけで。私は、一介の元冒険者、見習いシスターから、一躍、大貴族の仲間入りを果たしてしまったのだ。
まさかの立身出世。
貴族たちが、驚きと、嫉妬と、そして畏怖の入り混じった目で私を見ている。
もう、誰も私を「使えねえスキル持ち」だなどと侮らないだろう。それどころか、下手に敵に回せば、自分の家系が根絶やしにされかねない、歩く戦略兵器として恐れるに違いない。
ユリウス王太子の狙いは、これだったのだ。私に絶大な権威と地位を与えることで、逆にその力を封じ込め、誰にも手出しさせないようにする。そして、王家への絶対的な忠誠を誓わせる。見事な政治判断だった。
こうして私は、リューン伯爵、コノミ・コウノとなった。
だが、それは決して、安寧な日々の始まりを意味するものではなかった。
貴族社会の複雑な儀礼、領地経営の重圧、そして何より、私の力を利用しようと、あるいはその力を恐れて排除しようと、様々な思惑で近づいてくる者たちとの、終わりのない駆け引き。
私の新たな戦いは、ゴブリンの股間を監視する日々よりも、ずっと厄介で、骨の折れるものになるだろう。
私は、ドレスの裾を握りしめながら、静かに覚悟を決めた。
私の戦場は、もう、塔の上から望遠鏡を覗くだけでは済まされないのだから。
私の中に燃え始めた決意を感じ取ったのか、文官は少しだけ安堵したような表情で説明を続けた。
「特定の巣を持たず、人目を巧みに避けて行動する。そして、夜陰に乗じて、あるいは人通りの少ない路地で、こっそりと川や用水路に近づき、犯行に及ぶのです。この広い王都で、すべての現場を押さえるのは物理的に不可能。だからこそ、騎士団による討伐も後手に回ってしまう」
「ですが、聖女殿」と、騎士が私の目を見て力強く言った。「視認さえできればよい、あなたならば可能です」
彼らに導かれ、私がやってきたのは、王城に隣接する巨大な白亜の塔だった。
「星見の塔」と呼ばれるその場所は、王都で最も高く、街の全域を一望できるという。螺旋階段を延々と上り、最上階の展望台に出た瞬間、眼下に広がるパノラマに息を呑んだ。白く濁った水路網が、まるで病んだ血管のように街中を這いずり回っているのが、手に取るようにわかる。
「これを」
文官が、真鍮製の精巧な望遠鏡を私に手渡した。ずしりと重い。レンズの向こうには、拡大された王都の街並みが広がる。
「この塔から、王都全域を監視していただきたいのです。我々が総力を挙げて、聖女殿の生活を支援いたします」
言われるがまま、私は望遠鏡を覗き込み、ゆっくりと視界を動かした。石畳の道、家々の屋根、市場の喧騒。そして、問題の水路。
その時だった。
「……いた」
私の声に、隣で控えていた文官と騎士が息を呑む。
市場の裏手、ゴミが打ち捨てられた水路の縁。緑色の肌をした、小柄な人影が一つ。周囲をきょろきょろと警戒しながら、腰を落とし、ズボンを下ろしている。間違いない。あれが、シコシコゴブリンだ。
奴は、自分のそれをしきりに扱きながら、うっとりとした表情で水面を見つめている。まさに行為の真っ最中だった。
私は、望遠鏡のピントを合わせ、その醜悪な姿をレンズの中央に捉える。そして、心の内で強く、明確に念じた。
――禁ずる。
瞬間、レンズの向こうで、ゴブリンの動きがピタリと止まった。
恍惚としていたその表情が、一瞬で「あれ?」という戸惑いの色に変わる。最高潮に達するはずだった快感の波が、寸前で忽然と消え失せた。そんな、信じられない、という顔だ。
ゴブリンは、なぜ絶頂に至れないのか理解できず、不思議そうに自分の股間を見つめる。そして、さらに激しく腰を振り始めた。だが、いくらやっても、結果は同じ。決して、ゴールテープは切れない。
やがて、その戸惑いは焦りへ、そして絶望へと変わっていった。ぽろり、と。その大きな目から、一筋の涙がこぼれ落ちるのが見えた。なぜ、なぜイけないんだ。そう言いたげに天を仰ぎ、彼はその場で泣き崩れた。それでもなお、諦めきれないのか、涙を流しながら虚しくヘコヘコと腰を振り続けている。
「……終わりました」
私はそっと望遠鏡から目を離し、傍らの騎士に手渡した。
「聖女様、これは……!」
望遠鏡を覗き込んだ騎士が、驚愕の声を上げる。レンズの向こうの光景――泣き崩れながらも、報われることのない自慰を続けるゴブリンの哀れな姿――を確認した文官も、感極まったように声を震わせた。
「おお……! なんというお力だ! 奴はもう、二度と我らを脅かすことはない! さすがは聖女様だ! 王国は救われた!」
彼らの大絶賛を浴びながら、私は少しだけ複雑な気分になった。やっていることは、ゴブリンの自慰を覗き見して、それを邪魔しているだけなのだ。聖女というには、あまりにも俗で、情けない光景ではないか。
しかし、感傷に浸っている暇はなかった。
「あちらにも!」
「西の橋の下にもおりますぞ!」
騎士たちの報告を受け、私は再び望遠鏡を覗き込む。いる、いる。あちこちに、こそこそと隠れては自らの欲望を満たそうとする緑色の小男たちが。
私は淡々と、しかし確実に、一体ずつ照準を合わせ、その機能を停止させていく。
イク寸前で虚無に突き落とされ、泣き崩れるゴブリン。
何が起きたか分からず、首を傾げながら去っていくゴブリン。
怒り狂ったように地面を叩くゴブリン。
その反応は様々だったが、結果はただ一つ。彼らは皆、永遠にその目的を達成できなくなった。
結局、その日、私が塔の最上階で費やした時間は、わずか一時間にも満たなかった。
その間に、私が「断種」したシコシコゴブリンの数は、実に二十匹を超えていた。騎士団が丸一日かけても数匹しか駆除できないことを考えれば、驚異的としか言いようのない成果だ。
「素晴らしい……本当に、素晴らしい……」
文官は、感動のあまり言葉もなかった。
こうして、私の新しい日常が始まった。
この「星見の塔」の最上階に住まいを与えられ、三食昼寝付きの厚待遇を受けながら、一日中、望遠鏡で王都を監視する。そして、シコシコしているゴブリンを見つけ次第、そのささやかな楽しみを、根こそぎ奪い去る。
それは、海辺の教会での祈りの日々とは全く違う、奇妙で、どこか倒錯した「聖務」だった。
それからの一ヶ月は、ある意味で私の人生で最も単調で、しかし最も劇的な日々だった。
朝、侍女が運んでくる温かい朝食をとると、私は決まって望遠鏡の前に座る。眼下に広がる王都のミニチュアをゆっくりと眺め、緑色の小さな点を探す。見つけ次第、心のスイッチを入れる。――禁ずる。それだけだ。
昼は豪華な食事が運ばれ、午後は紅茶を片手に再び監視。夜は満天の星の下で、最後のチェックを済ませて眠りにつく。
私の生活は、完全に「シコシコゴブリン監視官」と化していた。
最初の数日は、面白いようにゴブリンどもが見つかった。用水路の縁、橋の下、寂れた裏路地、洗濯場の物陰。彼らは本当に、ありとあらゆる場所で、人知れずその欲求を満たそうとしていた。私はそれを片っ端から、無慈悲に、しかし効率的に「処理」していった。
一週間も経つと、その数は目に見えて減り始めた。
二週間が過ぎる頃には、一日に数匹見つけられれば良い方になった。
そして、一ヶ月が経過する頃には、王都のどこを探しても、シコシコしているゴブリンの姿を見かけることは、ほとんどなくなっていた。
変化は、別の形でも現れた。
ムラムラとした欲求を解消できなくなったゴブリンの一部が、自暴自棄になったのか、狂暴化して街中に姿を現すようになったのだ。
「第三地区にゴブリン出現!」
塔の下から騎士の報告が響く。だが、それはもはや脅威ではなかった。もともとシコシコゴブリンは、戦闘力も頭数も大したことがない。ただ衝動のままに暴れるだけ。人前に姿を現せば、待ち構えていた騎士団の格好の餌食だった。物理的な駆除は、驚くほどスムーズに進んだ。
私の「断種」と、騎士団の「討伐」。この二段構えの作戦は、完璧に機能したのだ。
水路の水は、日に日にその透明度を取り戻していった。神官たちが施す浄化魔法の効果が、汚染の速度をようやく上回ったのだ。生臭い異臭は消え、街には活気が戻り始めた。洗濯物が風にはためき、子供たちが水辺で遊ぶ。そんな、当たり前だったはずの光景が、何よりも尊く感じられた。
そして、その日がやってきた。
王城への出頭を命じられた私は、用意された豪奢なドレスに身を包み、少しばかりの緊張と共に、玉座の間へと通された。
磨き上げられた大理石の床。ずらりと並ぶ、きらびやかな衣装の貴族たち。その視線が、一斉に私に注がれる。その最奥、玉座に座るのは、この国の次期国王、ユリウス王太子その人だった。
金色の髪を陽光のように輝かせ、蒼い瞳は湖のように澄み渡っている。物語から抜け出してきたかのような美貌の青年は、私を認めると、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「面を上げよ、聖女コノミ」
その声は、若々しくも、王族としての威厳に満ちていた。
私が顔を上げると、彼は柔らかな笑みを浮かべ、大理石の床にその声が響き渡るよう、はっきりと宣言した。
「貴女の献身に、心からの感謝を。貴女は、この国を救った英雄だ」
貴族たちから、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こる。
私は、ただ呆然と、その光景を見つめていた。
英雄。
この私が?
数ヶ月前まで、海辺の教会で無力感に苛まれていた私が?
冒険者としては落ちこぼれで、与えられたスキルを呪い、世を儚んで生きてきた私が?
ゴブリンの自慰を覗き見て、それを妨害していただけで?
なんだか、世界というのは、本当に不思議なものだと思った。
私のユニークスキル【射精管理】は、確かにこの国を救ったのかもしれない。だが、それはあまりにも滑稽で、あまりにも間抜けな救済劇だった。
ユリウス王太子は、私の前に歩み寄ると、その手を取った。貴族の作法も知らない私の、少しばかりごわついた手を、彼は優しく包み込む。
「貴女には、相応の褒賞を与えねばなるまい。望むものはあるか? 金銀財宝、爵位、領地。何でも望むがよい。貴女には、それを受け取る資格がある」
きらきらとした蒼い瞳が、私をまっすぐに見つめている。
その瞳を見つめ返しながら、私は、この一ヶ月の奇妙な日々を、そして、王都が取り戻した平穏を、静かに思い返していた。
貴族たちの喝采が鳴り響く中、私はユリウス王太子の言葉に、すぐには返事をすることができなかった。
金銀財宝、爵位、領地。どれも、かつての私が見たこともないような、夢のような褒賞だ。だが、私の胸に去来したのは、喜びよりもむしろ、静かな不安だった。
「……恐れながら、殿下」
意を決して口を開くと、玉座の間は水を打ったように静まり返った。
「私には、そのような大それたものを頂く資格はございません。それよりも、一つ、懸念していることが」
「申してみよ」
ユリウス王太子は、興味深そうに私の言葉を促す。
「私のこの能力が……【射精管理】の力が、広く知られてしまったことです」
私は、集まった貴族たちを憚ることもせず、正直な気持ちを打ち明けた。
「今回は、国を救うために役立ちました。しかし、この力は、使い方を誤れば、血統を重んじるこの国において、恐ろしい政争の道具となり得ます。私は……誰かの野心のために、この力を利用されるのが怖いのです。また、静かに暮らしたい。そう願うのは、我が儘でしょうか」
私の告白に、貴族たちの間に、ざわめきが走る。彼らもまた、私のスキルの本当の恐ろしさに、今更ながら気づいたのだろう。人の子を成す営みを、意のままに操る力。それは、どんな剣よりも、どんな魔法よりも、静かで残酷な凶器となりうる。
しかし、ユリウス王太子は、少しも動じることなく、私の言葉を最後まで聞いていた。そして、全てを理解した上で、彼はこう言ったのだ。
「ならば、話は簡単だ」
彼の蒼い瞳が、私を射抜く。
「利用される側になるのが怖いのであれば、貴女自身が、誰にも利用されぬほど、偉くなれば良い」
「……え?」
「貴女には、その資格がある。いや、国を救った英雄として、その地位を築く義務がある」
彼は高らかに、玉座の間にいる全ての者たちへ向けて宣言した。
「聞け! 我は、聖女コノミに、永らく空位となっていたリューン伯爵家の家督を継がせることを決定した! 彼女がかつて祈りを捧げた港町リューンを含む、沿岸一帯を彼女の領地とし、新たな当主として任命する!」
伯爵。
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。それは、この国でも指折りの高位貴族だ。
ダメ能力だと思っていた、あの【射精管理】スキルで。ゴブリンの自慰を監視するという、この上なく馬鹿げた任務をこなしただけで。私は、一介の元冒険者、見習いシスターから、一躍、大貴族の仲間入りを果たしてしまったのだ。
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貴族たちが、驚きと、嫉妬と、そして畏怖の入り混じった目で私を見ている。
もう、誰も私を「使えねえスキル持ち」だなどと侮らないだろう。それどころか、下手に敵に回せば、自分の家系が根絶やしにされかねない、歩く戦略兵器として恐れるに違いない。
ユリウス王太子の狙いは、これだったのだ。私に絶大な権威と地位を与えることで、逆にその力を封じ込め、誰にも手出しさせないようにする。そして、王家への絶対的な忠誠を誓わせる。見事な政治判断だった。
こうして私は、リューン伯爵、コノミ・コウノとなった。
だが、それは決して、安寧な日々の始まりを意味するものではなかった。
貴族社会の複雑な儀礼、領地経営の重圧、そして何より、私の力を利用しようと、あるいはその力を恐れて排除しようと、様々な思惑で近づいてくる者たちとの、終わりのない駆け引き。
私の新たな戦いは、ゴブリンの股間を監視する日々よりも、ずっと厄介で、骨の折れるものになるだろう。
私は、ドレスの裾を握りしめながら、静かに覚悟を決めた。
私の戦場は、もう、塔の上から望遠鏡を覗くだけでは済まされないのだから。
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さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
田舎農家の俺、拾ったトカゲが『始祖竜』だった件〜女神がくれたスキル【絶対飼育】で育てたら、魔王がコスメ欲しさに竜王が胃薬借りに通い詰めだした
月神世一
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「くそっ、魔王はまたトカゲの抜け殻を美容液にしようとしてるし、女神は酒のつまみばかり要求してくる! 俺はただ静かに農業がしたいだけなのに!」
ブラック企業で過労死した日本人、カイト。
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女神ルチアナからチートスキル【絶対飼育】を貰い、異世界マンルシア大陸の辺境で念願の農場を開いたカイトだったが、ある日、庭から虹色の卵を発掘してしまう。
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しかし、カイトはスキル【絶対飼育】のおかげで、その破壊神を「ポチ」と名付けたペットとして完璧に飼い慣らしてしまう。
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これは、世界の運命と、美味しい野菜と、ペットの散歩に追われる、史上最も騒がしいスローライフ物語である!
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