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第一話『スタンド&ホニャララ』
しおりを挟む一昨日から、ずっと頭がイタイ。
ズキズキするカゼっぽい痛みかたじゃなく、頭蓋骨の内側から脳ミソが膨張してくるような、あ、俺、今、死にそうって感じの苦しい痛みかただ。
薄暗い部屋。
空気がよどんだ、自分ではわからないけど、けっこう臭いだろう俺の部屋。
背中が敷き布団に沈んでいる。
湿った、茶色く変色した、ずっとシーツをかえていない万年床に。
上体を起こすだけで、いつも二時間くらいかかる。
爺さんみたいな嗄れた声を出して、少し肩を浮かして右手をのばし、布団のすぐ横にあるガラス戸の鍵を開ける。
手探りなのは、カーテンが閉めっぱなしだからだ。
女子のスカートに手を突っ込んでまさぐる変態のように、縦にヒダヒダのついた布の下で手先をモゾモゾさせる。
俺はイライラして、乱暴にカーテンを引き開けた。
ブチブチと音がして、カーテンレールから留め具がいくつか外れた感触が、俺の右手に伝わってくる。
息ができなくなるほどの、高濃度なホコリが宙にもうもうと舞う。
顔をしかめて咳き込み、またイライラを再発させる。
カーテンの開けられたガラス戸は狭いベランダへの出口で、鈍い陽光を、部屋にじんわりと染み込ませた。
爽やかな日光を期待した俺は、曇天にまでムカついた。
厚い雲に遮られた日光は、ホコリをクッキリさせただけで、部屋の陰気さを取り除いてはくれなかった。
これじゃ、俺は起きられない。もっとバチッと、目覚めさせてくれないと。
布団に潜り込みかけて、まてまてとまた黴だらけの窓を見上げる。
ガラス戸の内鍵は、さっきもう開けたんだ。
あとは、思い切って引き戸を動かすだけ。
それで、外気が室内に入ってくる。
動けなくなるまで、もうあと三分もない。
俺のカラータイマーは、点滅するほど元気じゃない。
いつも急に、ストンとエネルギーが切れる。
そうなる前にと、重たい右手を動かす。
重たく感じている時点で、もう動かなくなる寸前だ。
ガラスに模様のように手垢をベタベタとつけながら、ずりずりと押し、戸を足のほうへと開けていく。
五センチ、十センチ、十五センチ。
じわじわとガラス戸が開き、酸素が顔に当たる。
まだ俺は今日、右手しか動かしていない。
室内とは成分の違う空気が、俺の髪をさらさらと靡かせる。
頭が冴えてくる。
いっぱいまで、ガラス戸が開いた。
網戸を閉めたいが、ずっと前に外れてベランダに倒れたままだ。
でも、虫が入ってくるのを気にするような部屋じゃない。
たぶん、もう虫なんて室内にいっぱいいる。
深呼吸をする。
さらに、頭が澄んでいくのを感じた。
「今、何時だ?」
久しぶりに、自分の声を聴く。へんな声だ。
外から室内に視線を向けると、暗くてなにも見えなかった。
カレンダーは……、ない。
前はあったんだけど、たぶん今は床に散乱するゴミに埋もれている。
時計……は、どこだ?
壁掛け時計はたしか留具が外れて落下して、そうだ、あれもゴミの山の中だ。
時計と言えば、卓上時計も持っていたはず。
目覚まし機能のついたあの時計は、ゴミの中には埋もれていないはずだ。
あれは、どこへ行った?
見当たらない。
どこかにあるとは思うが、思い出せない。
腐ってるんじゃないのかと思うほどに動かしていない両脚を、ワイパーのように布団の中で開閉させてみる。コツンと、フトモモになにかが当たった。
これだと、布団の奥に手をのばす。
四角い無愛想な目覚まし時計が、何日のか知らないが四時五分で秒針が止まったままの姿で、布団の中から俺の右手にサルベージされた。
裏っかわを見ると、蓋が外れて電池が抜けていた。
舌打ちとともに、床のゴミ山にそれを投げ捨てる。
狭い六畳一間には、あの時計のような壊れ物や、なにかが入っていて空になった容器ばかりが積み上げられている。
不要な物ばかりが視界を覆う。
不要な物って、俺もそのひとつだなと思い当たり、湿っぽい自嘲をする。
部屋が暗いからだけじゃなく、俺の視界はガッピガピの目ヤニに覆われていて、非常に見えづらい。
もう何日も、シャワーどころか顔も洗っていない。
部屋も、暮らしぶりも、立派なクズ。ちゃんとしたゴミ人間だ。
こんな暮らしも、始めてすぐの頃は、罪悪感のようなものを覚えていた。
時間の感覚がなくなり、夜と昼のどっちがどうでもよくなる頃には、不潔という感覚は失われていた。
ホームレス一歩手前レベルの、完璧な世捨て人だ。
実家から送られてきていた保存のきく食品は、仕事をしていた頃は、あまり食べなかった。
最近は、缶詰とか、カップラーメンとか、非常食として両親が送ってくれたものばかりを食っている。
非常食……そうだ、これは、非常事態なんだ。
仕事もしていない、外にも出ていない、声も発さない。
俺は今、生きているとは言えない状態だ。
考えたくない。
自分のことも、将来のことも、現在の状況も。
誰にも会いたくなくて、友人からの電話やメールもずっと無視しつづけていた。
もう、ここしばらくは、携帯が鳴っているのを聴いたことがない。
充電器に繋ぎっぱなしのはずだから、電池がきれたんじゃなく、たぶん誰からも連絡が来なくなっただけだと思う。
いや……まて、違う。忘れてた。
スマホは、そうだ、解約したんだった。
友人からの連絡なんて、そういえば解約する前からなかった。
どうせ使わないんだからって、やけになって解約してやったんだった。
マジで終わってるよな。自分でもそう思う、けど、それだけだ。
そこから先は、なにも考えられない。なにも感じない。
俺は自分が嫌い……じゃ、なかったはずなのにな。
不潔で平気でもなかったし、寂しがりだから誰かといつも連絡をとっていないと不安だったのに。
今は、そんなのぜんぶ平気だ。
俺ははたして、強くなったのか、弱くなったのか。
身体は、動かしていないから、たぶん弱くなっているはず。
頭も、ずっとなにも考えていないから、弱ってるだろうな、きっと。
心はもう、弱ってるというよりも、死にかけに近い。
卑屈で、自虐的で、無気力。なにもかも誰かのせいにする、卑怯者。
こんなやつじゃない。
俺は、こんなやつじゃなかった……ような、気がする。
少なくとも時計を見て、ちゃんと食事や寝起きをしていた。
今日が何曜日か知らないが、それをそのままにするような、そこまでいい加減なやつじゃなかった。
なんだこれ? 俺は、なんでこんな暮らしをしているんだ?
ここまで気づいても、まだ布団から出ようともしない。
ずっとこのまま、寝っぱなしでいられないのは、自分でもわかっている。
貯金だって、もうそんなにのこってないはずだ。
どうしよう。
どうすればいい?
どうして、こうなった?
目ヤニだけじゃなく、涙で滲んで室内が見えなくなる。
なさけない。
なさけない。
なさけない。
なんだこのザマは?
いつからこうなった? とかは、もういい。そこはもう、どうでもいい。
問題は今だ。今、俺は、どうすればいい?
「外に、出かけよう」
勝手に、口がそう言った。
そうだ。
出かけよう。
この新鮮な空気を浴びながら、少し歩くんだ。
そう思えたことがまず驚きだが、自然と俺は、上体を起こしていた。
もう、たっぷりと休んだ。
そうだ、なにか悩んでいるなら、考えて、考えて、解決しろ。
歩け、動け、頭を働かせろ。
自分を取り戻せ。
俺は、なんだ、どんなやつだった?
仕事をしていたはず、だろ?
どうやって生活をしていた?
思い出せ。なにもかも、ちゃんと思い出せ!
動け、動け、さあほら、動け!
俺は気づけばペシャンコの布団の上に、立ち上がっていた。
──つづく。
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