あ・い・う・え・お

夢=無王吽

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第二話『恥』

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 仕事。
 俺の前職は……あれだ、ああ、言葉が出てこない。
 なんで、辞めたんだった?
 仕事が嫌になったんじゃない。むしろ、今までで一番好きな仕事だった。
 職場の人間関係だって、悪くなかった。
 居心地がよくて、俺はたしか、気にいっていたはずだ。
 急に、後悔のような感情の大波が襲ってきて、怖くなり、一度思考を止める。
 深呼吸。しようと思ったが、よどんだ室内の空気に一瞬でウンザリし、開かれたガラス戸へと顔を寄せた。外に顔を出すと金木犀みたいな香りが風にのってきた。季節は秋だ。
 何度か深呼吸をすると、気分が落ち着いてきた。
 さてと、なんの話だったっけか? そうだ、退職の理由だ。
 最後の日のことは、よく覚えている。
 出勤の途中で、行くのが億劫になって、引き返したんだ。
 翌日からは、朝起きるのも面倒になった。
 身支度をするのも、混雑した電車にのると考えるのも嫌だった。
 社会の一員でいることが、突然、苦痛になったんだ。
 その理由は、なんだった? と考えたら急に、ズキンとまた頭が痛んだ。
 舌打ちをして目を強くつむると、涙が溢れ出て頬を伝った。
 泣いているんじゃないのに、涙がドバドバと出る。
 なんなんだよ、これは。
 閉じたまぶたの内側では、グワーッと景色が遠のいていくような、まるで、過去へとタイムスリップしていくかのような、SF映画のワープシーンのようなイメージが映像化される。
 息が荒くなる。
 脳ミソが、グリグリと締め付けられる。
 目眩めまい、吐き気、脱力感。
 歯を食いしばる。
 畜生、そうだ、やっぱり俺は、情けないやつだった。
 社会に背を向けたくなったのには、理由があった。
 それを考えたくなくて、忘れたくて、俺はずっと寝てばかりいたんだ。
 失恋。
 俺は、そうだ、失恋をしたんだった。
 を、失恋と呼んでいいならだけど、他に呼びようがない。
 失恋で落ち込んで引きこもりになったなんて、たぶん誰に言ってもバカにされて笑われるだけだと思うし、実際にそうなった経験が、俺には過去に何度もあった。
 だから、今回も、誰にも相談しようとしなかったんだ。
 学生時代に失恋をして、あれは中学生の時だったか。あの時はただ、好きな人と高校が別になって会えなくなっただけだったけど、誰かが慰めてくれた記憶なんてない。あのあと、時間が好きな気持ちを和らげてくれて、俺は、高校で、また人を好きになった。勇気を出して告白して、「私でよかったら、こちらこそよろしく」なんて返事をもらい、生まれて初めて彼女ができた。俺はその日の夜、興奮して、一睡もできなかった。嬉しくて、嬉しくて、飛び上がって、舞い上がって、じっとしていられなかった。翌日、いつも仲良くしていた友人に、「彼女ができた」って報告をしていた時に、そうだ、よりによって、ちょうどその話をしている最中に、彼女が電話してきて、「やっぱりゴメンナサイ」って、なぜかフラレたんだった。あれはショックだったなぁ。友人は、どうしていいかわからなかったようで、ただ苦笑していた。少しだけ励ますようなことを言ってくれて、その日から後はもう、俺がなにを言っても、聞いてもらえなかった。男同士の失恋話なんて、その一瞬の話題性だけで、その場は盛り上がるけど、後はもう「その話は聞いたってば」っていう、過去の話題になってしまうものなんだ。心の痛みとか辛い気持ちってのは、あとからジワジワとくるもんなのにさ。
 あれから何度か、失恋や、それっぽいことを経験するたびに、男の友情ってのは薄情なもんだなと悲しくなった。
 悩みなんて、てめぇで解決しろってのが、男同士の友情だ。
 しかも、失恋を忘れようと、積極的に次の恋愛に努力をすればするほど、失恋の確率は高くなり、トラウマや苦手意識ばかりが増えていき、学生時代が終われば、恋愛のチャンスじたいが激減した。
 今回、久々にフラレたのだって、恋愛が上手になってフラレなくなったわけじゃなく、人を好きになったのが久々だったってだけだ。前に失恋してから、たしか、一、二、三……ほら、出会ったことじたい八年ぶりだ。だから俺にとっちゃこれは大事件だったんだ。好きな人ができたのも、失恋も。
 そりゃ無気力にもなるわな、と思いかけて、いや違うと自分で自分に反論する。
 恥ずかしかったんだ。
 いや、失恋ってのは恥ずかしいものだけど、今回は、徹底的に恥をかいた。
 俺だけじゃない、好きになった相手である彼女にも、すごい恥をかかせた。
 俺が悪かったのか、なんなのか、よくわからない。
 結果から考えれば、きっと俺が悪かったんだろうと思うんだけど、思い出すのが辛すぎて、あまり深く考えないようにしていた。
 なにを、どうしていたら、または、なにをしないようにしていたら、違う結果になっていたのだろう?
 たぶん、それをちゃんと考えて、失恋や、それまでの過程と向かい合うことが、この『世捨て人生活』と決別するための、唯一の方法なのだろうと思う。
 忘れるなら、忘れる。
 反省するなら、反省する。
 やりなおせることがあるのだとしたら、やりなおす。
 そうやって、もう一度、元の自分に戻るんだ。
 改めて考えても、やっぱり辛い記憶でしかないのなら、反省した後で封印すればいい。
 俺に今、必要なのは、ちゃんと過去を振り返るための環境だ。
 よたよたとゴミ山をよけながら歩き、布団の上から室内を横断した。
 居間から玄関までの短い廊下には、洗濯機やバスルームがある。
 俺は玄関まで、振り返りも、よそ見もせずに直進した。
 腰から足の裏までが、フワフワとして落ち着かない。
 部屋から外に出ようとしているだけなのに、人類が月面へと飛び立った時代の、宇宙飛行士のような気分になっていた。いや、宇宙飛行士になったことなんかないので、宇宙飛行士がどんな気分なのかは、正直知らんけども。


 ──つづく。
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