あ・い・う・え・お

夢=無王吽

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第三話『ベンチの彼女』

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 玄関を出て扉の鍵をしめ、アパートの二階の通路から下りの階段へと行くまでの間も、一階におりてから先も、誰にも会わなかった。エントランスというほどでもない、銀色の集合ポストの並んだ広間を通り抜けて、観音開きの重たいガラス扉を押し開ける。
 出てすぐ横の壁際にはコンクリの歩道のようなスペースがあり、そこには水道のメーターボックスが並んでいる。
 住人たちはメーターボックスの蓋が開かなくなるなんてことには構わず、平気でその上に自転車などを置いていた。
 俺がナゼそんなことを気にするのかというと、引きこもる前に勤めていたのが、水道の検針会社だったからだ。車の予備タイヤやら、自転車やらスクーターやら、なんでもかんでも蓋の上に置くなと、仕事中にいつも思っていたから、今でもその時のクセが抜けない。
 コンクリの打たれたメーターボックスエリアから外側は、土の上に飛び石が置かれており、それが外門まで並んでいた。アパートは青黒く黴の生えたブロック塀で囲われていて、塀のすぐ内側は、大家の趣味で花壇になっていた。
 名前も知らない草木の間に、バラが咲いているのが見える。
 俺は飛び石を踏みながら門まで進み、敷地の外に出た。
 そこには右から左への一方通行の道路が、狭い道幅を横たえており、その向こう正面には古い一戸建てが並んでいた。
 さてどっちに行くかなと逡巡し、まだどちらかを決めてもいないのに足が勝手に右方向へと進んだので、なんとなくそれに従った。
 左方向へ行くと、そちらは駅に向かう道だった。
 たぶん俺は、駅とは逆のほうに行きたかったのだろう。
 トボトボと、背を丸めてヒトケのない道を歩く。
 頭の中では、記憶を掘り返す作業が始まっていた。
 長いこと放っておいたせいで、永久凍土のようにガチガチに固まってしまった、俺の赤っ恥の記憶。一体どこから掘ったらいいのだろうか……会社、通勤、仕事。それは嫌な記憶ではなかった。最後に駅に向かったあの日までは俺は毎朝、会社に行くのが楽しみだったのだ。
 正確に言えば、楽しみだった。
 駅のロータリーにあるバス停近くの、喫煙所の横のベンチ。
 あそこに彼女は、いつもいた。
 彼女に会えるのが楽しみで、と言っても、見かけるのがというほうが正確なんだけども、俺は毎朝、彼女の姿をチラ見しては、元気をもらい、癒やされていた。
 そうだよ。
 話したこともないし、名前だって知らない。
 そんな、真っ赤な他人にフラレたくらいで、そこまで落ち込むなんて変だよな。って、俺は誰にイイワケをしてるんだ?
 まぁ、いい。
 これは、事情聴取だ。
 自分で自分に質問して、それに答え、答えに潜む疑問点を探り、またその疑問に答えていく。
 そうやって、客観的に思い出していくほうが、心の負担は少なそうだ。
 それに、反省するなら、かっこつけないでちゃんと思い出さないと意味がない。
 思い出せ。そうあのベンチは、そうだ、バス停やその近くの待合所からポツンと離れた、あれはたぶん、喫煙所を建てたから、それまで並んでいた、間のベンチが抜けちゃっただけなんだと思うけど、そんな誰も座らない、なんのために存在しているのかもわからない、不便な位置にあるベンチに、彼女はいつも一人でポツンと腰掛けていた。
 その佇まいが、なんとなく上品で、寂しそうで、俺の内面の人恋しさをわかってもらえそうな、そんな風に見えたんだ。
 百パーセント、勝手な思い込みだけど、それがなにか? 
 誰も使っていない古いベンチはペンキがハゲていて、みすぼらしかった。
 そこを選んで座っているってのが、そののようなものが、心の琴線に触れたのかもしれない。
 好感というか、共感というか、同類を見つけたような気分だった。
 彼女は細身で、背が高く、色白で、顔が小さくて首が長く、つぶらな、小動物のような瞳をしていた。
 長い黒髪を後頭部でキレイにまとめていて、うなじが匂ってくるようだった。
 つやつやとしたサラサラの髪の毛を、手のこんだ編みかたでクルクルとまとめていたが、あれは、自分でやっていたのだろうか?
 彼女が髪をおろしている姿は、見たことがない。
 いつも、ポニーテールにしたり、お団子にしたり、必ずまとめていた。
 あれはたぶん、通勤通学の電車で邪魔にならないように気をつかって、そうしていたんじゃないかな。なんて想像が、また勝手に彼女の好感度をあげていた。
 彼女の存在に最初に気付いたのは、いつだったか?
 いつもベンチに腰掛けていて、なにか本を読んでいることもあれば、ぼーっと、缶コーヒーかなにかを飲みながら、駅のほうを見ていることもあり、最初は誰かを待っているのかななんて思っていたような気がする。
 でも、違ったんだ。
 ある日、俺が少し遅めに出勤した日、あ、そうそう、水道検針の仕事ってのは、引っ越しとか、いろんな事情で、目の前で検針してすぐにその月の日割りの料金を支払う必要がある、契約中止を依頼した、お客さんとの待ち合わせの約束でもない限りは、ある程度、出勤時間が自由なんだ。常識の範囲で、早く来ても遅く来てもいい。自分の分担が終われば帰ってもいい。そういう自由な仕事だから、モチロン責任が自分に全部かかってくるぶん、プレッシャーもあるにはあるけど、少しだけ稼ぎたい、主婦の人にも、副業をしている人にも、とても働きやすい職種なんだ。俺はあの日、たまたま朝、ウンコしてるうちに家を出るのがいつもより遅くなり、駅についたら、彼女がちょうどベンチから立ち上がり、改札に向かって行くところだったので驚いた。
 その日も彼女は一人だった。というか、いつもあのベンチで、誰かを待っていたわけじゃなかったんだなと思ったのを、よく覚えている。
 俺は試しに翌日も、そのまた翌日も同じ時間に家を出てみた。すると、やっぱり彼女は一人で改札に入っていく。
 やっぱりそうだ。待ち合わせじゃなかったんだ。
 俺はそれから、彼女が駅に入る時間に合わせて出勤するようになった。
 じゃあ彼女は、ずっと一人で、ベンチでなにをしていたのかって謎は残るけど、そんな答えの出ない疑問は不毛なので、すぐに忘れた。
 とにかく俺はその日から、彼女と一緒に駅に入って、一緒に出勤時間を過ごせるようになったんだ。
 部屋を出る時間だけじゃなく、駅の敷地内に入ってからの歩幅も調整して、必ず彼女の後から改札に入るようにした。
 それまでは、駅に入るまでの間、通り過ぎながら横目で見るだけだった彼女と、一緒に駅に入っていけるという幸せ。
 見ているだけということに変わりはないんだけど、少しだけ、幸せの成分濃度が増したように感じた。
 彼女のおりるホームは『くだり』で、『のぼり』の電車にのる俺とは逆方向だということも、この『待ち合わせごっこ作戦』を始めてから知れたことだった。
 彼女についての情報が増えると、興奮した。
 遠い存在だった、というか、関係性という意味での距離は一ミリも縮んでないんだけども、それでも少しだけ心の距離が近くなったようで、ワクワクした。
 改札を抜け、通路から、別々の階段をおりていくまでの、短い至福の時間。
 俺は、混んでいる時でも彼女の背中を見失わないように、人波を縫うようにして忙しく歩き、彼女の艶めく黒髪と一定の距離を保ちながら、見守った。


 ──つづく。
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