あ・い・う・え・お

夢=無王吽

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最終話『与えてほしい』

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「ミキが毎朝、そこの駅前のベンチに座ってたの、イナヅくん気付いてた?」
 マミさんは今や、少し甘えたような口調になっていた。
 姉と付き合っていたらという妄想から、少しだけ兄のように思ってくれていたのかもしれない。懐いたという表現がピッタリな、嬉しそうな顔と声。俺は、脇腹がくすぐったくなるような、カワイイ妹ができたような気分にフワフワと流された。マミさんの真っ直ぐなアーモンド型の目が、俺を見詰めている。おっと、そうか。彼女の聞きたいことは、そう、うん。もちろんだ。気付いていたから、ミキさんを毎朝見かけているうちに、好きになったんだ。
 胸を張って頷き返した。マミさんは安心したように大きく息を吸い、そして少し言いづらそうにして、相談するような口調で続けた。
「ミキね、こっちの学校でもまたイジメられるんじゃないかって、不安で、毎朝、その日のぶんの勇気が出るまで、あそこのベンチで通勤する人を見てたんだって。通勤や通学に迷いなんてない立派な人たちばかりだなって、世界から取り残されたような、すごく情けない気持ちでね。でも、やっぱり自分は、すぐには動けない。怖い。誰か助けてって、いつも思ってたみたい。そしたらね、いつも自分のことを心配そうな眼で、でもジロジロ見ないように遠慮してる風に、チラチラ見ながらも気にする素振そぶりを隠すような、自分の前をなかなか通り過ぎようとしない、自分を誰も見ていない中で、一人だけ、いつも気にしてくれてるように見える人がいたんだって。ミキのことを何度も振り返りながら、駅の改札に入って行く人。その人を見たら勇気が出るような気がして、だんだんね、ああ、今日もあの人が自分を見てくれたって安心するようになって、その人を見られたら、ミキもすぐにベンチから立ち上がって、学校に行けるようになったんだって。ねぇイナヅくん、そのミキが励まされた人って、誰のことか、わかる?」
 間違いなく、俺だ。
 見てないフリをしながらチラ見していたことまで気付かれてたなんて。俺は今、猛烈に恥ずかしい。
「あの日もね、イナヅくんが一緒の車両にいることに気付いて、それもすぐ近くにいたから驚いて、嬉しそうに興奮して、私に教えてくれたんだよ。ねぇマミ、あの人がいるよ、どうしよう? って」
 ……それ、俺か?
 いや、そんな風に思ってくれていたのなら嬉しいけど、それ、ホントに俺?
「だからあの後、イナヅくんが痴漢かもしれないって私が疑った時もね、そんなの信じられないって言って、他に怪しい男の人がいないかを捜してたの。まさかもう犯人が逃げた後だなんて思わなくて。捜しても、男の人はイナヅくんだけだった。嘘だ嘘だって泣いて、ミキ、すごくショックを受けてたんだ。だから私もね、つい頭にきちゃって。キツイ言い方になっちゃったの。あの時は、ホントにゴメンね」
 事件の日の、あの階段の光景が、記憶によみがえる。
 一人一人、査定するように、誰かを捜していたミキさんの顔。
 悲しそうに、ヒステリックに叫んでいたマミさんの声。
 そういうことだったのかと、嬉しくて泣きそうになる。
 俺は照れてしまい、「いや、こっちこそ」と、ワケのわからない返答をした。
「……待てる?」
 マミさんが言ってテーブルに身を乗り出し、俯き気味な俺の顔を覗き込む。
 待つって、なにを? と、目顔が精一杯の俺。
「ミキね、親に、『成人するまで本当の自分はわからない』って言われてね、怖くなったんだって。そうだよね、混乱するよね。ミキは可愛いから特に、鏡にうつる自分が男だなんて信じられないだろうし、意識と身体の性別が違うなんて、ミキの事情を初めて聞かされた時は、私だって何度も、どういうこと? って、聞き返しちゃったし。今だって、理解してあげたいし、理解してるつもりになってるけど、本人でさえ混乱してることを他人が理解なんて、本当にはできないとも思うんだ。でも、もし、ね。イナヅくんが本当にミキを好きで、ミキが大人になるまで待ってくれるなら、ミキだって──」
「ちょっと」と、姉のアキさんが、妹を止めた。
「それ、彼に押し付けちゃって、いいの? もしイナヅくんが『待つ』って言ってくれてたとしてもさ、ミキが適合手術受けるのは、まだ二年も先の話なんだよ? そんなの、どうなの?」
 アキさんが言ってる途中で困惑して、妹から俺のほうに縋るような目を向ける。
 俺も含めて、きっとこの場の全員が同じことを望んでいるのだろう。
「待てない? イナヅくん、自信ない?」
 マミさんは姉に止められても、俺から目を逸らさない。
 待てる、と、言いたかった。
 実際、一度誰かを本気で好きになったら、二年くらいは、他の人を好きになんてなれないのは、俺にとっては普通のことだ。
 待つこと自体は、簡単だろうなと思った。二年を長いとも思わない。
 俺はミキさんの本当の性別を(どっちが本当かという問題は置いておくとして)知らなかった時から、彼女の年齢を勝手に十八歳だと予想していたし、もし彼女と付き合うとしたら二年は待たないとななんて、いつも妄想していたのだから。
 待てるかどうかだけで言えばゼンゼン余裕だと思う。待てる自信は、ある。
 でも俺が懸念するのは、待ってもいいのかという点だった。
 十代の頃の二年は、長い。
 俺だってまだ二十四歳だけど、あのころとは時間の流れるはやさが違う。
 俺はそれを、マミさんにどう伝えようかなと迷い、迷ったままで、口が動くのに任せて答えてみた。
「待つ、必要なんて、ないんじゃ、ない、かな?」
 俺の発した言葉に、姉妹が同時に固まる。
 戸惑いの視線が四本、レーザービームのように俺の顔を貫く。二人とも、不安で詳しく訊けないという顔だった。
「そんなに、お互いを縛り付けなくてもさ、たとえば二年後の今日に、まだ二人の気持ちが変わってなかったら、あの駅のベンチで待ちあわせしようとかのほうが、ロマンチックでよくないかな?」
 マミさんはその俺の答えに飛びつくように納得して、嬉しそうな表情にクルリと変わったが、人生経験が妹より豊かそうなアキさんは逆に、眉をひそめた。
「イナヅくん、それって、どういう意味?」
 咎めるように詰めてくる。さすがだ。俺はアキさんに微笑みを返した。
「もちろん、『待てる』って意味だけど。でも俺が待ってると思い続けるのって、ミキさんのプレッシャーにならないかな? 大学に行ったり、イロイロとこれから経験するだろうに、せっかくの十代の時間が俺のせいで楽しくなくなっちゃったとしたら、それはそれで、彼女がかわいそうじゃない?」
 俺の言葉の意味が浸透するにつれ、姉妹の表情が晴れていく。
 安堵の表情。納得の表情。信頼の表情。
 それを向けられた俺も、自然と嬉しい表情になる。
 マミさんの大きな二重の目から、涙がポロポロとこぼれた。
「イナヅくん、私が絶対、ミキに浮気させないから、安心して待っててね?」
 鼻水をすする妹に、姉が「オイオイ」と呆れる。
 言われたことは理解していても、言ってることは真逆で、ミキさんの自由意志を縛りつけようとしているからだ。
 それじゃ、伝わってないのも同じだと、俺も苦笑する。
 マミさんの泣き顔を見詰める俺の手を、温かいものが包み込んだ。
 見ると、アキさんが両掌で俺の手を握りしめていた。
「ねぇイナヅくんさぁ、やっぱりガキなんかやめて、ワタシと付き合わない?」
 妖艶な微笑で俺を誘惑する。
「ええっ!」と叫び、目を丸くして姉を見る妹。
 俺の苦笑が、満面の笑みに変わる。
 俺は、アキさんの冗談には答えられない。
 恋愛経験のレベルが違いすぎて、気の利いた答えを返せる自信がない。
 どう答えても、傷付けてしまうような気もするし、笑顔で誤魔化すくらいしか、できることがなかった。
 俺の困惑顔を見たアキさんはカラカラとオッサンのように笑い、満足そうにまたタバコを一服した。右手はタバコをつまみ、左手はまだ、俺の手に触れたままで。
 マミさんが、「お姉ちゃん!」と本気で怒って、テーブルを叩いた。


 運ばれてきた時は香ばしい湯気を立てていたコーヒーが、今ではもう、すっかり冷めてしまい、琥珀色の小さな波紋を陶器のなかで描いていた。
 店主の老婆が扉の『OPEN』を、『CLOSED』へと裏返している。
 俺の手を握ったままのアキさんが、「イナヅくん、スマホ買いなよ」と微笑み、姉の誘惑を一睨みしてから、マミさんも「それは、私もそう思う」と同意した。
 一拍置いて、三人が同時に笑う。
 楽しい。なんだこの出会いはと、俺は胸一杯に暖色の空気を深呼吸した。


 好きになるのも、忘れるのもままならない。
 愛は本当に、ままならないものだ。
 愛が生まれたり、徹底的に壊れたりする因果も、いつの間にかそれに囲まれて、抜け出せなくなっているのが常だ。
 愛の成功率と出会いは、同確率ではない。
 出会いが運命なら、それが成就するのは、また別の運命だ。
 それは視線ひとつで結ばれることも、言葉ひとつで切れることもある。
 多くの幸運に、神懸かり的なタイミングの勇気が重ならないと、せっかく誰かを好きになっても、その時間は流れ去るだけになってしまう。
 勝手には成就しないけれど、闇雲に努力しても前に進むとは限らない。
 愛。
 因果。
 運。
 縁。
 恩。
 料理に『さ・し・す・せ・そ』があるように、人生には『あ・い・う・え・お』がある。
 これらは自分で拾えるものではなく、たぶん、与えられるものだ。
 人生の幸福のほとんどは人間関係で決まり、出会いや友情や恋愛には頑張っても得られない『あ・い・う・え・お』が必要で、俺は今、それに包まれている。
 なんて温かいんだと、この時間を大切に想う。
 アキさんとマミさん。
 玉木姉妹との出会いは縁で、二人は俺に、愛の因果に必要な恩恵を与えてくれている。
 こんなの、自分の力ではなんともならない、本当にただの運だ。
 ついこないだまでの、ゴミ人間だった時の俺も、今の俺も、同じ人なのに。
 一体、なにが違うというのか。
 行動したから出会いを得たんだなんて風には、とても思えない。
 だって俺は、行動したことで、すべてを失っていたかもしれなかったからだ。
 今、それが真逆に転がっていることが信じられなくて、不安になる。
『あ・い・う・え・お』の、どれか一つが欠けても、たぶん二年後のミキさんとの再会はなくなってしまうだろうし、そうなれば、なにもなかったのと同じだ。
 是非とも、この幸運は保たれてほしい。
 でも、その方法が、俺にはわからない。
 とりあえず明日にでも、地元の氏神様にお礼詣りに行ってこよう。
 どんなに悩んで努力しても、運だけは、なんともならないから。
 二年後、どうなっているのかはわからないけど、とりあえず、あの喫煙所の横のベンチが撤去されていないといいなとは思う。
 あのベンチに、成人したミキさんが座っていて、そこに俺が歩み寄っていく。
 この妄想を、持ち続けるほうがいいのか、半分忘れるくらいがいいのか。
 俺は、彼女との未来に期待してもいいのだろうか。
 へたに想い続けると、また暴走してしまうかもしれない。
 俺はストーカーではないので、二年後にミキさんがあのベンチにいなかったら、スッパリと諦めるけどね。
 ……こうしようと考えるのは、簡単なんだよな。
 二年くらい余裕で待てる、なんてカッコつけておいて、実は自信なんて一ミリもないんだから、まったく俺ってやつは、どうしようもない。
 今夜は、興奮と感動と不安で、たぶん眠れないと思う。
 あと七百三十日もの長期間。与えられた『あ・い・う・え・お』が去らずにいてくれることを祈りつつ、昨日干したばかりの布団に、今朝洗濯して、部屋干ししておいたシーツを被せて、明日もまた健康的に一日を過ごせるよう、眠る努力だけはしておこうかな。
 俺にできることは、生活を保つことだけなのか?
 まぁ、仕事がないと、恋愛なんてできないしね。
 成人した彼女を、社会人の俺が迎えに行く。
 そんなに難しいことではないのだろうけど、どうなることやら。
 情けないなぁ、我ながら。
 玉木姉妹と繋がっておくためにも、スマホを買おう。
 まずは、そこからかな。
 呆れるほどに無力だな、人は。
 ……人っていうか、俺は。
 出勤時にミキさんに会うこともあるだろうけど、そういう時、どんな顔をしたらいいのだろうか?
 なにも知らないくせに、なんの自信もないくせに、カッコだけはつけたい。
 玉木姉妹を安心させようとして、自己犠牲を気取ったけども、できるのか?
 弱いぞ、俺は。マジで。想いがつのると、また病むぞ?
 ……まったくもう、締まらんなぁ。



 《完》
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