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第1話『見える不幸』

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 常人には見えないものが見えるのは、幸運か不幸か。
 間違いなく不幸であると断言できる。
 俺は、不幸だ。

 初めて『そういうもの』を見たのは、四歳か五歳か、そのくらいだったはず。
 弟の祐生ゆうせいが産まれた少し後で、母さんが俺と祐生を住んでたマンションの目の前にある公園に連れてきた時だった。その日、公園には他にもマンションに住んでいる子供が遊んでいた。俺は顔見知りのヤツらと砂場で山を作り出した。
 母さんは祐生を抱え暫くは砂場近くのベンチに座って俺の様子を見ていたが、すぐに他の母親たちと談笑を始めた。
 俺は夢中になって砂場に立派な山を作った。

 それはどのくらいの時間が経った頃だったか。
 公園の端に黒い服の女が立っているのに気が付いた。髪は長くお世辞にも顔色が良いとは言えない女がいつの間にか居て、じっと談笑する母さんたちを見ていた。
 異様に赤い唇の両端をあげて歪な笑みを浮かべていた。
 はじめはこの公園に居る誰かのお母さんなのかと思って、山にトンネルを作るのに専念していた。
 だけど女はゆっくりと母さんたちに近づくと、その輪に入り母さんの隣に立つ。
 その輪にいた母さんたちはまるで今しがた輪に加わった女が見えていないかのように女に声をかけることなく話を続ける。
 女は母さんが抱えていると祐生を見下ろしていたが、不意に女はゆっくりと手を上げて人差し指を突き出すと祐生の顔に向かって落としていく。
 それはまるで目を突こうとしているように見えて、俺は思わず砂場から駆け出して「やめろよ!」と女の足元で叫んだ。
 女は勿論、談笑していた母さんたちは皆驚いて俺を見る。
 一番驚いていたのは勿論母さんだった。
 俺がいきなり「やめろよ!」なんて叫ぶのだから。

秀生しゅうせい、どうしたの急に大きな声出して」
「だってこいつがユウに何かしようとしてたんだ!」
 俺はそう叫びながら女を指差す。
 だけど俺の言葉に談笑の輪は沈黙した。輪の母親たちは皆不思議そうに俺が指差した方を見る。
 女は俺を見下ろして、更に口角をあげて笑う。その笑いが不気味だったけれど、俺は『お兄ちゃん』になったのだから負けてはならないという使命感で女を睨み返した。
 絶対負けてなるものか。
 だけど母さんから返ってきた言葉に俺は驚く。

「誰を指さしてるの?」

 そう言われて俺は吃驚して母さんを見る。
 母さんはとても困った顔をしていた。他の輪の母親たちも同じだった。
『この子は一体何を言っているのか』
 皆そんな顔だった。
 その表情に俺も何が起こっているのかわからなかった。だって、女は此処にいるのに。
 俺が慌てて振り返るが、そこには既に女の姿はない。
「あ……」
 確かに此処にいたのに。掲げていた指が思わず下がる。あからさまに気を落とす俺に母さんは困ったような顔をしながら、俺と目線を合わすためにしゃがむ。
 母さんは俺を見て「シュウくん、もう疲れちゃった? お家帰る?」と聞く。
 それはまるで、俺が疲れて帰りたいから母さんの気を引くために嘘をついた、そう思われたような気がして悲しくなって顔を下げた。母さんはそれが俺の肯定だと勘違いしたのか俺の頭を撫でながら、他の母親たちに「何だか疲れちゃったみたいなんで私たち帰りますね」と声をかける。
 輪の母親たちも、母さんと同じように俺が母さんの気を引きたくてそんな嘘を付いたのだと納得して微笑ましく笑って「さようなら」と口々にいう。

 嘘なんてついていないのに。

 俺は母さんに手を引かれながら、悔しくてあの女が立っていた場所を振り返る。
 だけどその瞬間、血の気が引いた。
 マンションへ向かって歩く俺達の少し後ろをさっきの女がついて歩いている。
 女は俺と目が合うと、楽しげに笑うではないか。
 俺は慌てて前へ向き直りぎゅっと目を瞑る。目を瞑ったまま顔を後ろに向けて恐る恐る目を開ける。
 すると後ろには女の姿はなかった。

 良かった、いなくなった。

 安心して振り返ると、目の前には青白い女の顔があり、ワケに赤い唇の両端を上げて笑っていた。
 後ろにいたはずの女が前にいるのかとか、どうして誰も気がつかないんだとか、色々考えることがあったはずなのに、それ以上に目と鼻の先にあった不気味な女の顔に息が止まりそうになった。
 引きつった息を零す俺に、母さんは振り返って「シュウくん?」と呼ぶ。
 だけど俺がこの不気味な女と対峙している様子がようで、ただいつまでも歩き出さない俺を不思議そうに見ていた。

「オ前にハ、私が見エていルなア」

 まるでガラスを強く擦った音を何十倍も不快にしたような不気味な声が女の口から発せられる。まるで幾つもの金属音を調律して何とか人の言葉に聞こえるような調節したかのような、とてもじゃないが人が発したとは思えないような音に俺は何も答えられる震える。
 一つ、わかったのは、この不気味な女は俺にしか見えていないということだ。

 俺は何も答えなかった。
 何も答えられなかった。
 ただ怖くて、自分の見ている世界に何が起こったのかわからなくって、足が動かすこともできなくって、ただ女を見ていることしかできなかった。

 女にはそんな俺がどれだけ滑稽に見えたことか。
 ただ赤い唇で笑ってみせる。

 そんな時、いつまでもついて来ない俺の元に母さんがやってくる。
 泣きそうに震える俺の横まで来て、母さんはしゃがむと俺の肩を抱きしめる。
「秀生? どうしたの?」
 俺の肩を撫でながら、手の届くに恐ろしく不気味な女がいることなんか知らず、母さんは優しくあやすように問う。
 そんな母さん言葉にも俺は何も答えなかったし、答えられなかった。

「どうしたの? いっぱい遊んで疲れちゃった?」
 そう言いながら俺の肩や背中を摩ってくれる優しい母さん。
 だけど、目の前には不気味な青白い顔の女、横には大好きな母さんと母さんが抱えている弟、そんな異様な状況で俺は何もすることができず、ただ立ち尽くすだけ。
 俺が硬直して動かないことを良い事に、女はゆっくりと俺から視線を外して、母さんが抱える弟を見つめる。
 そしてさっきしたみたいに、ゆっくりと祐生に指を伸ばす。

「あ……」
 女は俺の反応を楽しむかのように、ゆっくり、だけど確実に祐生へと指を近づける。
 そしてものの数秒で、女の指が祐生の頬に触れる。
 その瞬間、女の指先から何か黒いものが溢れ、まるで丸い痣のように祐生の頬の残る。
 指を離して、祐生の頬に残る黒いシミのような痣に女は笑う。
 そしてあの不快な声で「赤ン坊はじキ死ヌ」と呟くとまるで影に溶けていくように姿が見えなくなった。
 その言葉に、俺はただ震えた。
『お兄ちゃん』なのに、何もできなかった。『お兄ちゃん』なのに……!
 俺はとうとうその場で泣き出す。
 何も見えない、何も聞こえない、何も知らない母さんは突然泣き出す俺の頭を撫でながら「どうしうたの?」と聞いてくれる。

 初めて、優しくされることが辛い、と思った。
 そして自分は何もできない兄なんだと思い知った。
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