見える彼 と 見えない彼女

神﨑なおはる

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第25話『残り香』

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 結局、才明寺とは中間試験中一言も話をすることはなかった。才明寺は最初から最後まで『静か』だった。
 登校した時には机に突っ伏し、試験を受け、そして終わったらすぐさま帰っていく。
 日程が進むにつれ顔が蒼白になっていく細江と違い、才明寺はずっと何かに怒っているような様子だった。
 この一ヶ月才明寺と接してきて、限られた時間ではあったが、あまり怒りを身の内に溜めておくような性格ではないと思っていた。
 でも、実はそうではなかったのか。それとも何か、彼女には許し難い出来事に直面したのか。
 どちらにせよ、俺に何ができるというのか。できることなんて何にもない。
 俺は、こういう時、どうして良いのか、本当に何もわからないのだから。

 金曜日は採点休みだ。
 中学校の時にはなかった休みに驚くが、俺にとって都合の良い休みだった。
 もうすぐ祖母ばあちゃんの誕生日なのだ。
 引っ越して遠くで住んでいた時は、手紙や電話でお祝いをするだけだった。でもこっちに戻ってきて会いに行ける距離に住んでいるのだが、祐生とお祝いしに行こうと決めた。それならプレゼントも買おうという話になり、俺が買いに行くことになったのだ。
 祐生と相談して母さんに意見を聞いてもらった結果、日傘をプレゼントすることになった。去年使っていたものは、夏の終わりに通り雨の際に使っていたら突風に煽られて日傘の親骨が数本折れ生地にも穴が空いてしまったと、残念そうに電話で話していたのを覚えてたから。母さんに遠まわしに今年の日傘は購入したか聞いてもらったが、まだらしく、誕生日プレゼントは日傘に決まった。
 祐生からは「シュウ兄のセンスに期待してるから」と俺にプレッシャーをかけて学校に登校していった。
 やばいな、微妙なものを買って帰ったら笑われる。祖母ちゃんにも使ってもらえないかも。そんな重圧に苦しみながら、俺は大きなショッピングモールへ行くため、駅へ向かった。

 目指すショッピングモールは電車で三駅のところにある。
 俺はホームに立つと、何気なく向かいのホームを見る。それは俺が行く目的地とは反対車線のホームだ。
 向こうのホームから出る電車に乗ると、俺が以前住んでいたマンションの方へ行く。先日利用したホームだ。
 俺は『あの夜』のことを、『あの女』のことを思い出して思わず寒気が身体を走り向ける感覚に震えた。
 身が竦む、とはこういうことなのかもしれない。
 春の陽気が消え失せ、一瞬でその場の空気を凍てつく真冬に変わる。刺すような冷たさが俺の身体に絡まると、身体が呼吸の仕方を忘れたかように息苦しくなる。
 俺は右手で左手を握りその寒さに抵抗するように手を擦る。
『あの女』はいない、『あの女』は消えたんだ。俺はそれを見たんだ。
 そう自分に言い聞かせるように何度も何度も手を擦る。
 そうすると暫くして擦った箇所から徐々に温度が蘇り、気が付けば周囲に春の気候が戻っていた。
 途端に周囲の気温と、自分の感じていた温度の差に汗がどっと流れ出す。
 その額から流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら、俺は思った。

 ああ、まだ『あの女』の呪いは俺の中に残っているのだ、と。

 勿論あの黒いシミは俺の身体の何処にも存在しない。勿論、祐生にも。そしてきっと俺が知らないだけで『あの女』に障られた誰かにも。
 でも、十年近く『あの女』に怯え続けた俺の精神には、まだ『あの女』の影のようなものが残っているのかもしれない。
 それが完全に消えてなくなる日は果たして来るのか。
 俺は手の甲にびちゃりとついた汗を払うと、ホームの端に置かれている自動販売機を目指す。汗が吹き出て、身体の水分が随分抜けたような疲労感があったから。何か飲み物を飲みながら、気分を落ち着けたかった。
 俺はいつもは買わない甘ったるい冷たいココアを買うと、ちびちびと飲む。
 口の中が甘ったるくなったけれど、今はじわりと甘さが体内に染みる感じが『あの女』の残り香を一時的にも誤魔化してくれるように思えた。

「目の前で消えたの、ちゃんと見たのになあ」
 そう、才明寺がまるで花火のように『あの女』を溶かした。
 あの時の光景を思い出していると、ふと、見慣れた女子が目の前を通り過ぎる。俺はココアを飲みながらぼんやりとした気分で見送ったが、通り過ぎたその女子の後ろ姿に思わずココアを吹き出しそうになった。

 その女子は、陰鬱な表情をしていた。
 恨み辛みを飴玉にしてその舌が落ちそうな程の苦味をいつまでも強制的に味合わされているような不愉快を隠すこともせず垂れ流していた。
 こんな女を視界に入れれば誰だって視線を反らしてしまうだろう。俺も思わず反らしたが、その不愉快を顔面に貼り付けた女が才明寺であることに気がつき恐る恐る視線を彼女に戻した。
 才明寺だ、紛うことなく才明寺稀だ。
 思わず自動販売機の影に隠れて、俺が才明寺を覗う。
 先日の勉強会ではパーカーとズボンという楽な格好だという印象だったが、今日もTシャツとズボンというこれもまた楽な格好だが、いつもは恐らくちゃんを梳かしている整えているだろう髪が適当というかボサボサだ。
 女子というのは、いつだって髪の毛は綺麗に整えているものだと思っていた。母さんはそうだし。
 でも今日の才明寺はそんな好き勝手に跳ねる毛先を気にする様子もない。

 それは数日続く彼女の不機嫌が、もう身なりすら気にならないところまで来ているのか。それとも、これから彼女の不機嫌の原因に対峙する、とか。
 ……気になる。
 俺は恐る恐る才明寺とは距離を取りつつも彼女の後を追う。
 才明寺はホームの端に立つと、腕時計を見てから腕を組む。やはり溢れ出る不機嫌がダダ漏れになる。
 あんまり深く考えたことはなかったが、才明寺の『祓う力』は彼女の精神状態に左右されることはあるのだろうか。こういう状態で『常人には見えないもの』を祓えるのだろうか。
 そんなことを考えている海を漂うクラゲのように空中に揺れる弱々しい影が視界の端に映る。それは風に流されるように才明寺の方へと流れていき、そして彼女の横を通り過ぎる瞬間に光になって消えていく。

「……」
 どうやらアイツらを祓うのに、彼女の機嫌は関係ないらしい。
 霧散した影だったものを見ながら、俺はほんの少し同情してしまった。
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