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第36話『生徒指導室で』

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 職員室の真横に『生徒指導室』という教室があるのは知っていた。だけどその場所へ立ち入る日が来るとは想像もしていなかった。
 想像していた『生徒指導室』はもっと個室で、一昔前の刑事ドラマに出てきそうな狭い部屋で机に向かい合って生徒と教師が座っている風景を考えていたが、教室一つ分はある広い部屋で俺は驚いた。
 部屋に折り畳み式の長机が四つほど四角を作るように置かれいた。扉の対面に大森先生他数人の先生方がおり、その場所を時計の十二時に位置するとしたら、九時の位置には不機嫌丸出しの才明寺。その隣りにうんざりした様子の細江。才明寺は三時の位置に座る男子生徒を睨みつけていた。細江は疲れた顔で椅子にもたれかかって座っている。
 対面の男子には見覚えがなかった。多分だけど、ウチのクラスのヤツではないと思う。俺よりもしっかりとした体格としている。……まあ、モヤシの俺に比べたら大抵のヤツはしっかりとした体格をしているのだけれど。
 俺は副担任に促されて、時計で例えて六時の席に座る。
 ちらりと才明寺が今も睨みつけている男子を確認するけれど、才明寺のヤツ、よくもこんな男子に掴みかかったなあ、本当に何やってんだ……。
 才明寺は怪我とかなさそうだけど、相手の男子はどうなんだ。
 俺は恐る恐る男子に視線を向けると、才明寺に掴みかかられた男子は部屋にやってきた俺を見ていた。

 じっと。
 冷ややかに。

 才明寺の睨みが威嚇する獰猛な犬に例えるなら、その男子の視線は家族も家も財産さえも奪い尽くした人間を死んでも許すまいと思いながらも今の自分には何の力もなくただ睨みつけるしかできない人間のようだった。
 執念が迸る視線に俺は思わず視線を下げた。
 どうしてそんな視線を向けられているのかまるでわからない。……えっ、初対面、だよな? 彼の顔を見て必死で記憶野を引っ掻き回すが全く思い出せない。入学から一ヶ月と少しの間、彼と言葉を交わしたことがあるか、顔を合わしたことはあるか、擦れ違ったことは……正直わからない、でも俺の記憶では彼にこれほど睨まれる原因になるようなことは入学してからないと思うのだが。
 俺が考えていると、男子生徒はぼそりと呟く。
貝阿彌かいあみマンションのイタコ少年」
 その言葉に俺は血の気が一気に引いた。まるでバキュームで吸い上げられるように指先までも冷たくなる。
 彼の小さな呟きに皆不思議そうな顔をする。
 だけど俺はその言葉の意味を理解できた。

 貝阿彌マンションとは、隣りの市にある大きなマンションだ。
 学校近くの最寄り駅から数駅の場所にある。
 ……この間、俺が才明寺を騙して連れて行った公園のあるマンションだ。
 俺が幼年期を過ごし、祐生を障った『あの女』と遭遇したあの場所だ。
 そして『貝阿彌マンションのイタコ少年』とは、俺が『あの女』に遭遇して騒ぎ立てたことからついた俺の蔑称だ。
 コイツは、あのマンションでの俺を知っているのだ。
 あの当時の周囲からの白い目と、そして『あの女』からもたらされた絶望を思い出して、俺は膝に置いていた手が震えた。
 俺の様子が変わったことに、男子は気づいたようで冷ややかな表情を歪ませる。

「インチキのカンニング野郎が」
 吐き捨てるようにそう言い放つが、俺としては不意打ちで俺のトラウマが抉られたせいでその暴言に反応することもままならなかった。
 反応できない俺を他所に才明寺はすぐさま噛み付くように「ワケわかんないこと言ってんじゃないわよ! 柵木はカンニングなんてしないわよ!」と言い放つ。
 いつもの俺なら才明寺の言葉に感激するところのだろうが、それどころではなく二人が言い争う声も脳に残らない程だった。
「お前はこの野郎のことを知らないからそんなことが言えるんだよ」
「じゃあアンタは知ってんの?! 大体クラスも違うのに試験中の柵木の様子なんて知らないじゃない! 証拠もないのに勝手なこと言わないで!」
 才明寺がそう言い放つと、学年主任の数学担当の先生が「二人共静かに」と制して才明寺は不満そうに口を閉じる。
 学年主任は二人が静かになると、男子を見る。

堂土どうど、そもそも柵木がカンニングしたと断言しているが、才明寺の言う通り証拠なり確信があるのかな?」
 堂土、というのか、コイツは。やっぱり覚えがない。でもあの言葉から考えるに、コイツはあの貝阿彌マンションの住人なのだろう。
 学年主任が話しだしたことで、堂土のキツい視線が俺から外れて、俺は少しだけ気持ちが落ち着く。それでもまだ指先は緊張で冷たいし、吐きそうな気分に襲われていた。
 堂土は淡々とした様子で「この場に出せる証拠はありません。でもコイツならそういうこともやるだろうって思ってます」と答える。
「証拠もないのに君は柵木を中傷するようなことをしたのかい」
「証拠はないけれど、先生方もコイツが絶対にカンニングをしていないって確証もないですよね」
 堂土はそう胸を張って言い切る。
 これはもう水掛け論だ。互いの納得の得られるはずもない。
 と、思ったとき、学年主任が机に数枚の紙を置いた。遠目に見てそれが何かの答案用紙であることはわかった。でも今回の中間試験の答案用紙ではない。何となく見覚えが有るのだが。
 堂土は怪訝そうに「何ですかそれ」と問うと、学年主任は淡々とした様子で「柵木くんの答案用紙だ。今年の入試のね」と言う。
 学年主任の言葉に俺が一番驚く。何故そんなものをこの場に持ってくるのか。この場の誰よりも驚いていると、学年主任はその答案用紙を堂土に渡す。堂土は何故渡されたのかわからない様子で受け取りつつその答案用紙を見る。
 堂土は一番上の答案用紙へ興味が感じられない視線を落としていたが、数秒すると「え」と小さな声を上げる。その声が出ると堂土の表情に俺以上の驚きが貼り付いていた。
 何? 俺が、え、なんだけど。
 思わず俺は訝しむように堂土を見る。それはアイツの向かいに座っている才明寺や細江もそうだった。堂土は他の答案用紙も確認してから俺を睨む。
 今度は何だよ。そう思いながらも何も言うことができず、俺はただ視線が合わないように視線を下げるしかできない。
 堂土の様子に学年主任は「私も驚かされたよ」と話し出す。堂土はまた答案用紙に視線を落として食い入るように見つめる。

「入試担当をもう何年もやっているけれど、全問正解の答案なんて見たことがなかったからね。どの教科にも難度の高い問題を二つ三つ入れてるし、引っ掛け問題もあるから、全教科全問正解なんて早々出るものじゃあない。柵木は今年度の新入生で一番の学力であることは中間試験をする前から教師は皆知っていることなんだ。だから彼が中間で一位になったことも全然不思議じゃあない」
 淡々と諭すような緩やかな口調で学年主任は話す。
 その言葉に俺は、入試の答案の結果がまさかそんなことになっていたことを初めて知った。
 入学生代表の挨拶の打診があったから入試の点数が新入生で一番良いのはわかっていたが……まさか全問正解だったとは。
 というか、よくよく考えると入試は本当に必死だったから。隣りの市に住むか住まないかの瀬戸際だったから。今回の中間よりも必死で勉強した。
 その結果が全教科全問性格とか……信じられない。
 俺は震え上がるが、学年主任の話を聞いていた才明寺が「全問正解……」と呟きながらあんぐりと口を開けて呆けてしまう。才明寺、俺も同じ気分だ。
 堂土も絶句状態で答案用紙を見つめ「でも、入学式では別のヤツが代表挨拶を……」と呟く。その声に俺は萎縮しながらも「目立つの嫌だったから、断ったんだ」と上擦った自分の声に嫌になりながら呟く。
 俺の声は小さかったものの、堂土やこの部屋にいた人間には聞こえたようで堂土は目を剥いて俺を見る。
 学年主任は俺の呟きに大きく頷くと、堂土に話しかける。

「学校側は柵木のカンニングはないと考えている。それでも柵木に何か不正があるというなら、明確な証拠を出してから言ってもらわないと君の発言はただの誹謗中傷になってしまうけれど、どうする?」
 学年主任の言葉に皆の視線が堂土に集まる。
 堂土は悔しそうに唇を噛み締めると「……すみませんでした」と掠れた声で呟いた。
 その言葉にその場は何とかお開きになった。

 堂土は放課後に反省文を書きに来るように言われて才明寺は満足そうだったが、その直後堂土に掴みかかったとして才明寺にも反省文のお沙汰が出て才明寺の笑顔はすぐさま溶けるように消えてふらふらとその場に経たり混んでしまった。
 反省文は……すまんが流石に手伝えない。
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