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第35話『歪な空気』

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 頭が痛え。
 俺は頭を押さえながら、よろよろとした足取りで学校へ向かうのだが、どうにも気が重かった。
 昨日靴箱に残されていた紙のせいで、あまり眠れなかった。
 ずっとあの紙のことを考えていた。
 才明寺が破り捨てた紙のことを思い出すと不安な気持ちが溢れて、眠気も消え失せた。不安感に併せて疲労感も募っていくのに、眠ってそれらを解消することもできない。
『嘘つき』。
 あの言葉が正しいことは他ならぬ自分自身がよくわかっている。
 今更どうにかできるわけではないこともよくわかっている。
 才明寺に十年前のことを謝罪したところで、これまでの積み重ねてきた嘘が消えるワケでもない。
 だとしても、俺は才明寺にはきちんと謝りたい。
 アイツが俺を許すかどうかは才明寺の問題だ。俺は、俺がすべきこととして、才明寺に謝りたいのだ。
 ……とはいえ、意気込みが募るばかりで一向に言い出せない自分が不甲斐ない。何てダサいヤツなんだと思い知る。
 試験で良い点が取れるよりも、人生ではこういうことをちゃんとできるヤツの方が良いに決まってる。俺の脳裏で一瞬、クラスメイトに囲まれて笑っている貴水の姿を思い出す。
 彼はきっと俺とは比べ物にならないくらい友達に素直に接しているのだろう。心から羨ましいと思えてしまった。

 ***

 予鈴ギリギリに学校に着くと、どうにも空気が妙だった。
 正確には一年教室の廊下周辺から、他のクラスの生徒たちがざわついているような感じがあった。もうすぐ朝のホームルームが始まるというのに、どのクラスの生徒も廊下で屯って何か話し込んでいる。
 不思議に思いながら、廊下で話す女子たちの会話に少し聞き耳を立ててみるが、その内容でこのざわつきの理由を理解した。

 女子が男子に掴みかかるなんてヤバイよね。

 その一文だけで、俺は顔を青くする。
 かなりヤバイことが起こったらしい。何処のクラスかは知らないが、女子生徒が男子生徒に掴みかかるような事件が発生したのか。
 些細な揉め事か痴情の縺れか。とはいえ、進学校だぞ。その手のいざこざが起こるなんて。
 俺は起こった事件に驚きながら教室に向かう。
 きっと細江あたりは聞いてもないのに今朝起きただろう事件の詳細を語るだろう。
 そんなことを思いながら教室に入るが、来ているだろうと思っていた細江の姿は前の席にはなかった。
 いつも朝は早いのに、珍しいな。
 カバンもないから別に何処かへ行っているという感じでもない。寝坊でもしたのだろうか。そんなことを思いながら才明寺の席を見ると、何故か才明寺もおらずカバンもない。まだ登校してないのか。
「……?」
 何だ。あの二人がいないのは妙な感じだ。
 俺は違和感に襲われながら自分の席に来ると、どういうわけか教室の空気が一瞬変わるのがわかった。
 ざわつく。空気に電気が走るような。
 この感覚には覚えがある。小学校とかで度々感じた空気だ。
 その場にいる人間が好奇な視線を突き刺してくるような雰囲気。
 こういうのを針のむしろというのだ。
 高校生活が始まって久しく感じることのなかった空気に、俺は吐きそうになった。
 どうして今更こんな空気が教室にあるのか。俺は何かやらかしたのか。
 昨日まで何もなかったじゃないか。
 俺は席に座るとこの空気に萎縮してただ頭を低くする。
 早く細江でも先生でも良いから来てくれないだろうか。この空気を少しでも変えて欲しかった。ぐっと唇を噛み、呼吸音すら殺すようにただ存在を殺すようにじっとする。
 すると誰かが机の前に立つ。
 細江が登校してきたのだろうかと俺は恐る恐る顔を上げる。
 でも其処にいたのは、細江でもましてや才明寺でもなかった。
 貴水だった。
 前に話しかけられたときは才明寺が一緒だったが、一対一で向き合うのは初めてで、クラスカースト上位の俺とは正反対の真人間の存在に俺は更に焦る。
 もしかして彼がクラスを代表して、俺の知らないところで発生したこの空気の原因を糾弾するのだろうかと思うと、朝食が胃から迫り上がってくるんじゃないかとさえ感じた。

 貴水は俺が顔を上げると「おはよう、柵木くん」と挨拶してくれる。
 これくらいの人間になると、大して親しくもない俺にも言葉を詰まらせることなく話しかけられるのかと感動さえ覚える。
「っお、おはよう」
 声が上擦る。それでも何とか挨拶を返すことができた。
 俺が反応すると貴水は少し上体を傾けて、椅子に座る俺に顔を近づけて小声で話す。

「稀の話はもう聴いた?」

 そう言われて、一瞬、稀って誰だ、となったがそれが才明寺の名前であることを思い出し貴水を見上げる。
 何故このタイミングで才明寺の名前が出たんだ。もしかしてアイツが教室にいないことに関係しているのか。
 貴水の言葉に脳内で色んな可能性が飛び交い、きっと貴水には俺が言葉を失い硬直したように見えたようで更に詳細を教えてくれる。
「俺も詳しくは知らないんだけど、柵木くんがカンニングしたって疑惑かけたヤツがいるらしくって稀がその生徒に掴みかかったらしいんだ」
「か、カンニング?」
 全く身に覚えのない疑惑に心底驚きながらも、俺が教室に入ってきたときに空気がざわついたのがその疑惑に因ることを知って合点がいった。それと同時に別に幽霊云々が原因ではなかったことに何処かほっとした。でもその安堵も束の間で、さっき廊下で聞いてきた女子たちの噂の当事者がまさかの才明寺であることを理解して徐々に血の気が引いた。

 男子に掴みかかったって聞いたぞ。何やってんだアイツ。

 貴水の話のニュアンスでは俺のために掴みかかってくれたように聞こえるが、それを嬉しいと思うよりも、女子なのにそんな危ないことをするなという焦りと心配が勝った。
 俺が顔を青くしているのを見て、貴水はかがめていた身体を起こして肩をすくめる。
「まあ、カンニングの話って完全にデマだろ? 俺は才明寺と小中一緒だったから知ってるけど、アイツに勉強教えるって結構な学力と忍耐が要求されるからさ。それができてる柵木くんがカンニングとかまず有り得ないし、才明寺の奴も放っとけば良かったのに」
 そう何処か才明寺の行動に呆れるように呟く貴水。
 そしてそんな貴水の声が聞こえたのか、これまで少し歪だった教室の空気が変わる。
 クラスカースト上位の貴水が、俺のカンニング疑惑を否定することを言うと、クラスの雰囲気が、あーやっぱりそうだよね、というものに変わる。その空気の変化に貴水も気がついたのか、振り返って誰に言うでもなく「いやいや、カンニングで学年一位とかまず無理だから」とおどけた様子で笑うとクラスでもそれに同調するように笑いが起こる。
 ……一先ず俺の疑惑は消えたのか。
 でも才明寺は大丈夫なのか。
 俺が心配していると漸く予鈴が聞こえてくる。その後すぐ、大森先生ではなく、副担任の先生が教室にやってくる。
 副担任はやってくるなり、一時間目が自習になったことを伝えると、素早く俺の机の方へやってくる。
「柵木くん、ちょっと話を聞きたいから来てくれるかな」
 そう声をかけてくる。
 俺は突然のことにぎょっとするが、その直後クラスの誰かが「センセー、あの噂ってデマでしょー」とか「才明寺さんが怒るのも当然だよ」とか声をかける。
 すると副担任は振り返り「そりゃそうだけど、念のため確認するだけだから」と返してから再度俺に向き直り「な?」と声をかけてくる。
 俺としても才明寺が今どういう状態なのか知りたくって素直に頷くと席を立った。
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