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ローグの住居

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「言語の壁というものは存外厚いな……言っていることの半分も理解できなかったぞ」

 訛りが強くて、事前に習得していた一般的なその種族の言語からかけ離れている地域に調査に出向いたことはあったが、完全に言語体系が未知の地域に来たのは初めてだ。
 単語さえ何となく理解できれば、あとはボディーランゲージで何とかなると思っていたが、ついつい脳が知っている犬獣人の言語の文法並べてしまう為、言葉の意味を理解するに至るまでにタイムラグができてしまう。単語が、私達にが知る犬獣人のそれと若干違うから尚更だ。
 一対一ならまだ良いが、さっきのように、間を空けずに複数で話されてしまうと、このタイムラグが致命的なものになる。
 結果、自分に向けられた言葉以外は、「ズーティット」しか聞き取れなかったのが、現状だ。

「……しかし、ズーティット村と交流があったのなら、ミネアに事前に話を聞いておけばよかったな」

 ミネアは、ズーティット村の村長メルヴィルの孫娘で、村一番の才女だ。
 北方の犬獣人の言語をはじめとした様々な言語を独学で習得しており、村に調査に出向いた初日は流暢な人間語で歓迎してくれて、舌を巻いたのを覚えている。
 ……そう言えば、自然に人間語を話している編集のアミーラも、猫獣人の長の娘と言ってたな。長の血筋は、そういう役割を担っているものなのだろうか。しかし、狼獣人の長の息子であるローグは、人間語は解さないようであるから、その辺りは種族差があるのかもしれない。……いや、もしかしたらローグも、人間語以外なら別の言語も使えるのかもしれないな。今度聞いてみよう。
 ……思考がずれた。今は、ミネアのことだな。
 村からあまり出たことはないというミネアは、自身の人間語の精度を確かめたかったのか、人間である私に積極的に話しかけてきた。同年代(と、言ってもミネアは当時既に10歳くらいの子どもがいたのだが……)と言うこともあり、すぐに仲良くなり、彼女は犬獣人のことを、文化から生態に至るまで色々と教えてくれた。私の研究に必要な情報のほとんどは、ミネアから聞いたものだと言っても良い。

 私は基本的に、自分が研究の為に滞在した村の誰かしらとは、最低でも一年に一度は手紙のやり取りをするようにしているのだが、その中で最も頻繁にやり取りをしているのは他でもないミネアだ。ミネアはミネアで、村の外の世界の知識に飢えていて、私に人間社会のことを色々質問して来るので、彼女との情報交換は互いに有意義なものなのだ。
 狼獣人の調査が決まった時点で、ちょうどミネアに手紙を出したばかりだったから、事前調査の対象からは外していたのだが……こんなことなら、真っ先にミネアに色々聞いてみるべきだったかもしれない。

「……いや、どっちにしろ聞いたところで教えてはくれなかったか。一応メルヴィルには、事前に狼獣人のつてはないかと聞いてはみたが、とぼけられたからな」

 迷いの森の結界により隔離された村に住む、謎に満ちた狼獣人。
 どうやら、彼らの情報は、意図的に遮断されているらしい。
 その理由は、この家を見れば、何となく理解できる気がした。

「……この家は、あまりに快適過ぎる」

 家そのものは、木造で、簡素な造りだ。もしかしたら、ローグ自らが、自分で迷いの森で木を切って、一から作ったのかもしれない。この辺りは、父の本にも書かれていた。
 だが、そんな簡素な造りなのにも関わらず、家の中は信じられないくらい快適なのだ。
 初夏に当たる今の季節は、テントで野宿をしても問題ないくらい、暑過ぎず寒過ぎずなちょうど良い季節ではある。
 だけど、雨が多い今の時期は湿気も多く、不快指数は高い。事実、昨夜もテントの中は蒸し暑く、寝苦しかった。
 翌日の朝靄の濃さが、今の時期の湿度の高さを、何より現している。
 だが、この家……否、ここだけではなく先ほどまでいた狼獣人の長の家でも、テントの中で感じていたような肌に纏わり付くような湿度は一切感じられなかった。最初はただ気候が変わっただけかと思っていたが、こうして一人家に残されて周囲を観察してみれば、すぐに理由が分かった。

「………なんて、純度が高くて大きな魔宝石だ。あれ一つあれば、城が建てられるぞ。それを、あんなに無造作に置いておくだなんて。私が盗んで逃げる可能性を考えていないのか?」

 魔法は、基本的に自分が持つ魔力の分しか使えない。
 なので、自分の魔力を越えた魔法を使いたい場合は魔法具に頼ることになるわけだが、その魔法具の核となっているのが、魔宝石である。

 含まれる魔力量によって、その純度と輝きを増す、美しい鉱物。爪先ほどのほんの一欠片でも、通常の人間が一日に使用できる分の魔力を保有するその宝石は、非常に高価だ。
 魔法工学教授の研究の根本は、魔宝石をいかに削減した状態で、どれだけ高い魔法効果を出せるかということだと言っても過言ではない。
 貴族や王族の間では、そのように貴重で役に立つ魔宝石を、敢えて機能させずに、装飾に用いると言う勿体ない行為が、彼らのステータスの一種になっていたりする。(魔法工学の教授や、鉱物学の教授は、何という宝の持ち腐れだと嘆いていた)
 狼獣人であるローグは、そんな貴重な魔宝石の中でも、国宝級の代物を、この家を快適にする為だけに使っているのだ。

「魔法工学教授がこれを知ったら、失神しそうだな……。魔法石に直接彫り込まれた魔方陣の効果は、快適な室温と、湿度の維持。あとは、この家の強度の上昇と言ったところか? ……王様だって、こんな勿体ない使い方はしないぞ」

 100歩譲って、城や大貴族の屋敷の維持と言うのなら、まだ分かる。
 だが、この魔宝石が維持しているのは、人二人が住むくらいがちょうど良い大きさの、この家だ。
 そんなものの為に、これほど純度の高い魔宝石を使ってしまうだなんて。王族や貴族のステータスを上昇させる為のそれと、勿体ないという意味ではそう変わらない。
 興奮で渇いた唇を、舌で湿らす。

「父さんは、わざとこの辺りは本に書かなかったのだろうな……」

 この家に少し滞在しただけの私が、すぐに気づいたくらいだ。聡明な文化獣人類学者であった父が、気づかないはずがない。
 それでも本の中に魔宝石に関する記述が一切なかったのは、おそらく父なりの配慮なのだろう。助けてもらったという恩を、間接的とはいえ、仇で返すことはしたくなかったに違いない。

「……もし、この村の魔宝石の存在が外に広まったら、魔宝石を求めた人々によって、村が襲撃に遭う可能性があるからな」

 迷いの森の固有結界は、優秀だ。
 だが、どんな攻撃にあっても、絶対に破れない保障はない。
 もし、王がこの村の魔宝石を求めれば、派遣されて来る兵士や魔術師は、国で一番魔力量が多く、優秀なもの達だ。容赦なくぶつけられる上級魔法に、結界は果たして耐えきれるのだろうか。
 一度結界が破れてしまえば、後は蹂躙だ。魔宝石は根こそぎ奪われ、狼獣人は生まれ育った村を追われることになるだろう。
 私の論文のせいで、そんな悲劇を引き起こすわけには行かない。

「……狼獣人に関する文化獣人類学の論文は、今まで他の獣人の村でもしていた通り、最終的には長に確認してもらい、外に広めて良いか情報かどうか取捨選択してもらうことにしよう」

 真実を公にすることが必ずしも正義だとは限らない。
 調査をに協力してくれた人々が、私の論文で苦しむことがないように、隠すべき情報は、最初から知らなかったことにする。
 それこそが、私が調査対象である獣人達に示せる、せめてもの誠意だ。

「………そんな重大な秘密を抱えているわりに、狼獣人の長達があっさり私を村に招いたことは、とても疑問ではあるが」
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