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「晴貴くん、晴貴くん」
畳に寝そべって億劫そうに夏休みの宿題をしていた岩見の弟の高志が俺を呼んだ。岩見は台所で昼食を作っている。部屋の中は、午前中は節電という岩見家の規律に従って一台の扇風機がそよ風を生み出しているのみだ。多少の蒸し暑さは我慢をする。
「どした」
柱に寄り掛かっていた体を戻して応える。あまり日に焼けていない顔の、岩見よりも少し吊りぎみで猫のような目がじっと上目気味に見つめてくる。今年の春先に会ったときと大して変わっていないと思っていたが、こうして見ると少し大きくなったようだ。前よりも手足が長くなっている気がした。
「晴貴くんって、国語得意なんだったよね」
「まあまあ得意だけど。なんで」
「宿題見てほしい」
「あー、いいよ」
二つ返事で了承してやると、高志はぱっと表情を明るくして腹ばいの姿勢から起き上がった。
テーブルの上をいそいそと片付けて、手を付けていたらしい国語のドリルのようなものをそこに広げる。俺も移動して、テーブルの前に座った。
開いたページは、少し筆圧の強い丁寧な字で三分の一ほど埋められている。ざっと見た限り間違いはない。空欄になっているのは登場人物の心情を問う文章題らしかった。
「早い時期から宿題始めて、偉いな」
頬杖をついて雑に褒める。
「うーん、兄ちゃんから言われてるから。授業聞くのと宿題だけちゃんとやっとけばそうそう困らないよって」
「岩見らしいな」
「でも、国語って苦手だ。登場人物の気持ちに正解なんてあるの? しかも、問題出す人が思った答えじゃないとだめなんでしょ」
不満げな顔をして、高志は右端に書かれたタイトルをなぞった。その表情が岩見にそっくりで少し面白い。
「作者はそんなつもりで書いてないかもしれないのに、出題者がそう解釈したらそれが答えっていうのが変ってこと?」
「うーん、うん、そう。そういう感じ」
「それは確かに。でも、全く書かれてないことが答えになってたりはしないから。直接気持ちが書いてなくても、それを推測できる要素は文の中にあんだよ」
「スイソク?」
「推測。分かんないか?」
言葉の意味が分からなかったのかと思ったが、すかさず首を振られた。
「スイソクが何か説明しろって言われたら無理だけど、意味は分かるよ。どうやってスイソクするの?」
漢字に変換されていなさそうな拙さを感じる言い方に口元が緩む。
苦手なものに意欲的に取り組もうとするのは素直にすごいと思う。やり方を教えれば出来るようになるだろう。俺は一度文章と設問に目を通して内容を把握してから、少しでも分かりやすいように心がけながら説明をはじめた。
▽▽▽
トン、と目の前に麦茶のグラスが置かれる。顔をあげると岩見がにこっと笑った。
「ありがとね、エス」
「うん?」
「タカに勉強教えてくれて」
「ああ、別に。タカは岩見に似て賢いし、教えるのも楽」
「俺は賢くはないけどね。タカはがんばり屋だから」
昼食を食べ終えた現在、高志は友達と遊びに行くと意気揚々と出掛けていった。宿題は自分でノルマを決めているらしい。国語以外はほとんど悩むこともなくすらすらと解答を埋めていくので感心してしまった。
岩見は俺の言葉にいつものように謙遜した後、少し誇らしげに高志を自慢する。
「岩見が賢くなかったらなんなんだって」
「俺は皆より多少計画的で要領がいいだけなんですー。ま、それも勉強面だけだけど」
計画的で要領がいい。それは結構なことだと思うのだが、岩見にとってはあまりいい要素ではないのだろう。若干皮肉っぽい笑みを見るとそう感じる。
こいつの自己否定は自分を卑下していることと同義ではない。岩見にとってはそれが現実なのだ。
卑屈ではなく、自己評価がいっそすがすがしいほどに低いだけ。そんなことない、と言われることなど一切求めていないのだ。
何事に関しても岩見は大抵人より出来る。それはこいつが努力をしているからだ。けれど岩見は普通の人間のように努力を誇らない。努力するのが当たり前だから、岩見は多分、自分の努力を努力として認識していない。他人に甘くて自分に物凄く厳しい。
岩見のネガティブな言動は否定待ちでもなんでもない。煩わしく感じないのはそれが理由で、でも同時にもどかしくもある。
「岩見って馬鹿だな」
思わずしみじみと呟きながら岩見の横顔を眺める。
「えっ? 賢いって言ってくれた直後に馬鹿呼ばわりとは何事? びっくりした」
「だってお前、否定するから」
「否定するけど! でもエスに褒め言葉らしきものをもらうのは嬉しいんだよ!」
「へえ」
嬉しいのか。それはそれで不思議だ。
「よくわかんねえな。お前が褒め言葉否定するときって、例えば俺が可愛いって言われて微妙な気持ちになるのと同じなんじゃないの?」
言ってからなんだこの例え、と思ったら岩見の口から俺の思考と同じ突っ込みが出た。
「なんだその例え。まあ分かりやすいけどさー、はは。そうだね、そういう心境。でも、相手がそれをまじで言ってくれてたら実際は違ってもちょっと嬉しくない?」
「―いたたまれなさと同時に?」
「そうそう。いたたまれな嬉しい? みたいな?」
「新しい言葉作るなよ」
岩見はけらけらと声をあげて笑った。
畳に寝そべって億劫そうに夏休みの宿題をしていた岩見の弟の高志が俺を呼んだ。岩見は台所で昼食を作っている。部屋の中は、午前中は節電という岩見家の規律に従って一台の扇風機がそよ風を生み出しているのみだ。多少の蒸し暑さは我慢をする。
「どした」
柱に寄り掛かっていた体を戻して応える。あまり日に焼けていない顔の、岩見よりも少し吊りぎみで猫のような目がじっと上目気味に見つめてくる。今年の春先に会ったときと大して変わっていないと思っていたが、こうして見ると少し大きくなったようだ。前よりも手足が長くなっている気がした。
「晴貴くんって、国語得意なんだったよね」
「まあまあ得意だけど。なんで」
「宿題見てほしい」
「あー、いいよ」
二つ返事で了承してやると、高志はぱっと表情を明るくして腹ばいの姿勢から起き上がった。
テーブルの上をいそいそと片付けて、手を付けていたらしい国語のドリルのようなものをそこに広げる。俺も移動して、テーブルの前に座った。
開いたページは、少し筆圧の強い丁寧な字で三分の一ほど埋められている。ざっと見た限り間違いはない。空欄になっているのは登場人物の心情を問う文章題らしかった。
「早い時期から宿題始めて、偉いな」
頬杖をついて雑に褒める。
「うーん、兄ちゃんから言われてるから。授業聞くのと宿題だけちゃんとやっとけばそうそう困らないよって」
「岩見らしいな」
「でも、国語って苦手だ。登場人物の気持ちに正解なんてあるの? しかも、問題出す人が思った答えじゃないとだめなんでしょ」
不満げな顔をして、高志は右端に書かれたタイトルをなぞった。その表情が岩見にそっくりで少し面白い。
「作者はそんなつもりで書いてないかもしれないのに、出題者がそう解釈したらそれが答えっていうのが変ってこと?」
「うーん、うん、そう。そういう感じ」
「それは確かに。でも、全く書かれてないことが答えになってたりはしないから。直接気持ちが書いてなくても、それを推測できる要素は文の中にあんだよ」
「スイソク?」
「推測。分かんないか?」
言葉の意味が分からなかったのかと思ったが、すかさず首を振られた。
「スイソクが何か説明しろって言われたら無理だけど、意味は分かるよ。どうやってスイソクするの?」
漢字に変換されていなさそうな拙さを感じる言い方に口元が緩む。
苦手なものに意欲的に取り組もうとするのは素直にすごいと思う。やり方を教えれば出来るようになるだろう。俺は一度文章と設問に目を通して内容を把握してから、少しでも分かりやすいように心がけながら説明をはじめた。
▽▽▽
トン、と目の前に麦茶のグラスが置かれる。顔をあげると岩見がにこっと笑った。
「ありがとね、エス」
「うん?」
「タカに勉強教えてくれて」
「ああ、別に。タカは岩見に似て賢いし、教えるのも楽」
「俺は賢くはないけどね。タカはがんばり屋だから」
昼食を食べ終えた現在、高志は友達と遊びに行くと意気揚々と出掛けていった。宿題は自分でノルマを決めているらしい。国語以外はほとんど悩むこともなくすらすらと解答を埋めていくので感心してしまった。
岩見は俺の言葉にいつものように謙遜した後、少し誇らしげに高志を自慢する。
「岩見が賢くなかったらなんなんだって」
「俺は皆より多少計画的で要領がいいだけなんですー。ま、それも勉強面だけだけど」
計画的で要領がいい。それは結構なことだと思うのだが、岩見にとってはあまりいい要素ではないのだろう。若干皮肉っぽい笑みを見るとそう感じる。
こいつの自己否定は自分を卑下していることと同義ではない。岩見にとってはそれが現実なのだ。
卑屈ではなく、自己評価がいっそすがすがしいほどに低いだけ。そんなことない、と言われることなど一切求めていないのだ。
何事に関しても岩見は大抵人より出来る。それはこいつが努力をしているからだ。けれど岩見は普通の人間のように努力を誇らない。努力するのが当たり前だから、岩見は多分、自分の努力を努力として認識していない。他人に甘くて自分に物凄く厳しい。
岩見のネガティブな言動は否定待ちでもなんでもない。煩わしく感じないのはそれが理由で、でも同時にもどかしくもある。
「岩見って馬鹿だな」
思わずしみじみと呟きながら岩見の横顔を眺める。
「えっ? 賢いって言ってくれた直後に馬鹿呼ばわりとは何事? びっくりした」
「だってお前、否定するから」
「否定するけど! でもエスに褒め言葉らしきものをもらうのは嬉しいんだよ!」
「へえ」
嬉しいのか。それはそれで不思議だ。
「よくわかんねえな。お前が褒め言葉否定するときって、例えば俺が可愛いって言われて微妙な気持ちになるのと同じなんじゃないの?」
言ってからなんだこの例え、と思ったら岩見の口から俺の思考と同じ突っ込みが出た。
「なんだその例え。まあ分かりやすいけどさー、はは。そうだね、そういう心境。でも、相手がそれをまじで言ってくれてたら実際は違ってもちょっと嬉しくない?」
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「新しい言葉作るなよ」
岩見はけらけらと声をあげて笑った。
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