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俺の方からも恐る恐る腕を回してぎゅう、と力を込めてみる。今までで一番強く抱きしめる。
柔らかい髪を撫でながら、ふと勝手に溜め息がもれた。
なんだ、これ。すごい。
抱き締めてきた先輩の背に軽く腕を回したことはあったけれど、こうやってしっかりと抱き締め返すというのに相応しい行為をしたのは初めてだった。
欠けていたものなどなかったはずなのに物凄く、満たされていく。在るべきものがやっと戻ってきたみたいに思う。よくわからないけれど、そういうふうに表現するしかないような感覚だった。緊張するし心臓が痛いのに、安心して嬉しい。
こんなに触れることが特別な人間は、他にいない。なるほど、恋人同士が互いにくっついていたくなるのも無理はない。この幸福感は抗いがたい。
「……俺の特別が、キヨ先輩でよかった」
心底そう思う。身動いだキヨ先輩が俺の首元から顔をあげた。目の縁が赤い。
何か言おうと口を開いて、少し迷う様子が窺える。
言葉を探しているわけではなくて、言いたいことがたくさんあってどれを言ったらいいのか分からないのと、上手く伝えられそうにないからこそ言い淀んでいる。表情だけでそれが分かることが嬉しかった。
俺は今までずっと、ちゃんとこの人のことを見てきたのだということが分かるから。
「―っ、ハル」
最終的に、彼はどんな言葉よりも俺を呼ぶことを選んだらしい。
宝物の名前みたいだ、といつかと同じことを思う。自分で言うのはむず痒いが、彼にとっては単なる比喩ではないだろうということを理解したうえで聞くそれは、たった二音だけだというのにキヨ先輩の感情を奔流のように伝えてきた。
人の声が、ただの音声であるはずのものが、特別な響きを持ちうるということを、俺はこれまでにも彼に教えられた。
それはとても綺麗で愛おしくて、俺の心臓をぎりぎりと締め上げる。この声を聞くことが出来るのは、俺だけだ。こんなふうに呼ばれるのは俺だけだ。他の誰にもあげられない。
「キヨ先輩」
呼び返して驚く。俺も先輩のことを言えないくらい、想いを多分に含ませた呼び方をしていた。
自覚するくらいだ、キヨ先輩にはきっと、もっとわかりやすく伝わっただろう。
俺が彼にしていたように、キヨ先輩は俺の冷えた頬を包んだ。至近距離が更に近付いて、身動きをしたら唇が触れそうな距離で、熱に溶けた目で「キスしたい」と請われる。
瞬間的に、耳どころか全身が熱くなった。息を呑んで、先輩の制服の裾を掴む。
どう答えればいいか分からなくて少し考えた後、結局「俺も」という穴に埋まりたいくらい恥ずかしい返事を、小さく返した。
先輩が目を細めて泣き出しそうな顔で、それでも嬉しくてたまらないというように笑う。すり、と額同士をくっつけられて、呼吸の仕方を忘れた。自分の鼓動の音が冗談のように大きく聞こえる。
ほとんど硬直しているのに近かったけれど、ごく間近で先輩が薄い色の睫毛を伏せたから、一瞬見惚れてから、ぎこちなく、倣うように目を瞑る。
直後に、唇に柔らかいものが触れた。
押し当てられているというのともくっついているのとも違う。本当に、ごくささやかに触れただけのその感触は、俺のものではない淡い体温を残してそっと離れた。
それから、先輩が少し震えた吐息を漏らすのを間近に感じる。俺の方は息を詰めたまま、そっと瞼を持ち上げると、じっと俺を見ていた彼と目が合った。
へにゃりと眉を下げて、笑いかけられる。
「すっげえ好きな子とキスするのって、嬉しいのと緊張するのとでぶっ倒れそうになるな」
俺は、すっげえ好き、と形容されるのが俺だという事実にそろそろキャパオーバーしそうです。
言っていることにも同感、だけれど、それを本人に伝えてしまうこの人は、俺をどうするつもりなのか。さっきからずっと、俺の心臓はいろいろ大忙しなのだ。
今は蟻くらいの大きさに縮んでしまったのではという気がしている。
色々いっぱいいっぱいになった末に、ふ、と笑みをこぼしてしまって、不思議そうな顔をされる。
「……先輩といると、心臓が痛くなったり苦しくなったり、縮んでる感じがしたり、ぶっ壊れそうになったりして大変」
彼の手をとって、俺の左胸に宛がう。大きく速い鼓動を感じ取ってか、その指先がひくりと動いた。
「キヨ先輩が理由なら、それが全部嫌じゃない。こんなふうになるのはあんた以外にいなかった。―だから、多分、俺の心臓は俺が気付くよりも前からずっと、あんたの手の中にあったんだと思うんです」
もしかするとやや回りくどく、けれどある意味では直接的な言葉を、先輩は正しく受け止めてくれたらしかった。
いろんなものが入り交じってどういう表情をしたらいいか分からないという顔が、可愛くてたまらない。可愛いと思うのも彼だけだから、それはつまり愛おしいということなのだった。
「……知らなかった。それって、最高に幸せだ」
じっと俺を見詰めて、次には言葉通りの表情をした彼に笑いかける。
滑らかな指で唇をなぞられて、自分から彼の体を引き寄せたら、更に強い力で抱きしめられた。
彼と重なった右胸に鼓動を感じる。俺のものではないのに、強さも速さもほとんど同じで、俺のものみたいに思えた。
とっくに日は沈んでしまって辺りは暗いのに、間近で見た先輩の目には光が浮かんでいる。俺しか映していないようなその眼差しに、身が震う。
「キヨ先輩」
堪らなくなって名前を呼ぶと、その目がまた優しく弧を描いた。俺の一等好きな笑顔だ。
額がくっついて、鼻先が触れ、次いでぎこちなく唇が重なる。
その一瞬前に、掠れた声で「俺の心臓も、ずっと前からハルのだよ」と呟くキヨ先輩はやはり、いとも容易く俺の心臓を操ってみせるのだ。
もうこの先ずっとそのままでいいと、俺は再度目を閉じながら思った。
柔らかい髪を撫でながら、ふと勝手に溜め息がもれた。
なんだ、これ。すごい。
抱き締めてきた先輩の背に軽く腕を回したことはあったけれど、こうやってしっかりと抱き締め返すというのに相応しい行為をしたのは初めてだった。
欠けていたものなどなかったはずなのに物凄く、満たされていく。在るべきものがやっと戻ってきたみたいに思う。よくわからないけれど、そういうふうに表現するしかないような感覚だった。緊張するし心臓が痛いのに、安心して嬉しい。
こんなに触れることが特別な人間は、他にいない。なるほど、恋人同士が互いにくっついていたくなるのも無理はない。この幸福感は抗いがたい。
「……俺の特別が、キヨ先輩でよかった」
心底そう思う。身動いだキヨ先輩が俺の首元から顔をあげた。目の縁が赤い。
何か言おうと口を開いて、少し迷う様子が窺える。
言葉を探しているわけではなくて、言いたいことがたくさんあってどれを言ったらいいのか分からないのと、上手く伝えられそうにないからこそ言い淀んでいる。表情だけでそれが分かることが嬉しかった。
俺は今までずっと、ちゃんとこの人のことを見てきたのだということが分かるから。
「―っ、ハル」
最終的に、彼はどんな言葉よりも俺を呼ぶことを選んだらしい。
宝物の名前みたいだ、といつかと同じことを思う。自分で言うのはむず痒いが、彼にとっては単なる比喩ではないだろうということを理解したうえで聞くそれは、たった二音だけだというのにキヨ先輩の感情を奔流のように伝えてきた。
人の声が、ただの音声であるはずのものが、特別な響きを持ちうるということを、俺はこれまでにも彼に教えられた。
それはとても綺麗で愛おしくて、俺の心臓をぎりぎりと締め上げる。この声を聞くことが出来るのは、俺だけだ。こんなふうに呼ばれるのは俺だけだ。他の誰にもあげられない。
「キヨ先輩」
呼び返して驚く。俺も先輩のことを言えないくらい、想いを多分に含ませた呼び方をしていた。
自覚するくらいだ、キヨ先輩にはきっと、もっとわかりやすく伝わっただろう。
俺が彼にしていたように、キヨ先輩は俺の冷えた頬を包んだ。至近距離が更に近付いて、身動きをしたら唇が触れそうな距離で、熱に溶けた目で「キスしたい」と請われる。
瞬間的に、耳どころか全身が熱くなった。息を呑んで、先輩の制服の裾を掴む。
どう答えればいいか分からなくて少し考えた後、結局「俺も」という穴に埋まりたいくらい恥ずかしい返事を、小さく返した。
先輩が目を細めて泣き出しそうな顔で、それでも嬉しくてたまらないというように笑う。すり、と額同士をくっつけられて、呼吸の仕方を忘れた。自分の鼓動の音が冗談のように大きく聞こえる。
ほとんど硬直しているのに近かったけれど、ごく間近で先輩が薄い色の睫毛を伏せたから、一瞬見惚れてから、ぎこちなく、倣うように目を瞑る。
直後に、唇に柔らかいものが触れた。
押し当てられているというのともくっついているのとも違う。本当に、ごくささやかに触れただけのその感触は、俺のものではない淡い体温を残してそっと離れた。
それから、先輩が少し震えた吐息を漏らすのを間近に感じる。俺の方は息を詰めたまま、そっと瞼を持ち上げると、じっと俺を見ていた彼と目が合った。
へにゃりと眉を下げて、笑いかけられる。
「すっげえ好きな子とキスするのって、嬉しいのと緊張するのとでぶっ倒れそうになるな」
俺は、すっげえ好き、と形容されるのが俺だという事実にそろそろキャパオーバーしそうです。
言っていることにも同感、だけれど、それを本人に伝えてしまうこの人は、俺をどうするつもりなのか。さっきからずっと、俺の心臓はいろいろ大忙しなのだ。
今は蟻くらいの大きさに縮んでしまったのではという気がしている。
色々いっぱいいっぱいになった末に、ふ、と笑みをこぼしてしまって、不思議そうな顔をされる。
「……先輩といると、心臓が痛くなったり苦しくなったり、縮んでる感じがしたり、ぶっ壊れそうになったりして大変」
彼の手をとって、俺の左胸に宛がう。大きく速い鼓動を感じ取ってか、その指先がひくりと動いた。
「キヨ先輩が理由なら、それが全部嫌じゃない。こんなふうになるのはあんた以外にいなかった。―だから、多分、俺の心臓は俺が気付くよりも前からずっと、あんたの手の中にあったんだと思うんです」
もしかするとやや回りくどく、けれどある意味では直接的な言葉を、先輩は正しく受け止めてくれたらしかった。
いろんなものが入り交じってどういう表情をしたらいいか分からないという顔が、可愛くてたまらない。可愛いと思うのも彼だけだから、それはつまり愛おしいということなのだった。
「……知らなかった。それって、最高に幸せだ」
じっと俺を見詰めて、次には言葉通りの表情をした彼に笑いかける。
滑らかな指で唇をなぞられて、自分から彼の体を引き寄せたら、更に強い力で抱きしめられた。
彼と重なった右胸に鼓動を感じる。俺のものではないのに、強さも速さもほとんど同じで、俺のものみたいに思えた。
とっくに日は沈んでしまって辺りは暗いのに、間近で見た先輩の目には光が浮かんでいる。俺しか映していないようなその眼差しに、身が震う。
「キヨ先輩」
堪らなくなって名前を呼ぶと、その目がまた優しく弧を描いた。俺の一等好きな笑顔だ。
額がくっついて、鼻先が触れ、次いでぎこちなく唇が重なる。
その一瞬前に、掠れた声で「俺の心臓も、ずっと前からハルのだよ」と呟くキヨ先輩はやはり、いとも容易く俺の心臓を操ってみせるのだ。
もうこの先ずっとそのままでいいと、俺は再度目を閉じながら思った。
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