206 / 714
第2章 蟻地獄
拒めない……
しおりを挟む人間を落とすのは簡単だ。
過去に負った傷と、それを呼び起こさせるきっかけ。
この二つがあれば、人間はあっという間に自滅する。
傷は、深ければ深いほどいい。
さあ、種は蒔いた。
後は、実が熟すまで見物といこう。
彼は、くすくすと一人で笑った。
◆ ◆ ◆
(はあ……なんでおれは、こんな所にいるんだか。)
北風を浴びながら、拓也はベンチに座って息を吐いていた。
目の前には、つい十日ほど前に見た中庭の風景が。
年が明けて病院も休みが終わり、今日から診察が始まっている。
今日は、怪我の経過観察で病院を訪れた。
医者の話を聞く限りでは、あと数回はここに来ることになりそうだ。
それを思って、拓也は面倒そうな表情をする。
魔法がない世の中とは、何かと不便だ。
たった一つの怪我を治すのに、ここまで時間がかかろうとは。
もちろん治癒魔法だって全能じゃないので、治癒を施した後は安静にしている必要がある。
とはいえ、完治までにここまでの時間は要しない。
一つの傷を癒すのに逐一時間をかけていたら、あっという間に死ぬって。
こんな余裕が認められるのは……それだけ、この世界が平和だということなのだろう。
ここは、魔法に頼らずとも十分に生きていける世界だ。
というか、魔力や魔法が存在しないからこそ、それ以外の技術がこんなにも発展した世界になったのかもしれない。
科学的な技術に限らず、規律や環境もが発展しているこの世界では、人はそう簡単に死なない。
魔法を使ってまで自分の身を守らずとも、十分に生きていけるわけだ。
アズバドルから住処を移した尚希や実が魔法を手放していた理由も、ここである程度生活した今なら理解できる。
アズバドルに嫌気が差して逃げてきた人々にとっては、ここはまさに理想の環境と言えるのだろう。
(理想の環境、か……)
頭上を仰いで、長く深く息を吐く。
閉じていた目を開くと、そこには抜けるような青空が。
それをぼんやりと見つめる拓也の表情に、暗いものが浮かんだ。
(おれがいるべき場所は、ここじゃないのにな……)
途端に、どす黒い感情が胸腔を満たしていく。
自分が求めるものは、こんな平穏ではない。
平穏など、自分には一番必要のないものじゃないか。
だって、自分はずっと―――復讐のためだけに生きてきたのだから。
「………っ」
拓也は、唇を強く噛み締めた。
目を固く閉じ、頭を振る。
黒く渦巻く感情を振り払うように。
そして、脳裏に押し寄せるものから逃れるように。
「よし、帰ろう。」
ここにいても、埒が明かない。
ベンチから勢いをつけて立ち上がり、帰るために体の向きを変えた。
「あ…」
そこで体が、石のように固まってしまった。
自分が立ったのとほぼ同時に、今まさに向かおうとしていた自動ドアが開いたからだ。
そこから現れたのは、車椅子に乗ったあの女性。
「―――っ!!」
呼吸が詰まって、胸が大きく脈打った。
彼女は通りがかった看護師に声をかけられ、看護師に向かって和やかな笑みを浮かべながら短いやり取りを交わす。
看護師が苦笑しながら通り過ぎていくのを見送り、ゆっくりと自動ドアをくぐって中庭へ。
途端に―――彼女の表情が、穏やかな笑顔から疲弊しきった表情に変わった。
まるで、何かを思い詰めたように。
その瞳はひどく複雑で深い何かに満たされ、そして大きく揺れている。
見てはいけないものを見てしまった。
直感でそう思ったものの、目は彼女の表情の一つ一つを捉えようとする。
そして、注意深く観察すればするほどに……悩ましげな彼女の姿は、脳裏に閉じ込めていたはずの記憶を強く揺さぶった。
(ああ、やっぱり……)
体の芯が冷えていく感覚がして、拓也は唇を噛み締めた。
(やっぱり……会いに来なければよかった。)
目の前の景色を拒絶したがる脳が、視界に霞をかける。
地面が揺れる錯覚がして、よろけた足がベンチにぶつかってしまった。
ガタンッと大きな音が鳴り、拓也と女性が硬直したように固まる。
冷や汗を浮かべる拓也が見つめる中、女性がゆっくりと顔を上げる。
そして、その瞳が拓也を映すと、彼女の表情が嬉しそうに和らいだ。
それは―――母親のような、優しくて慈愛に満ちた笑顔。
車椅子を動かして、拓也に近付く女性。
一方の拓也は、その場から一ミリも動かない。
この時の拓也は、動揺する己の心を抑えるので精一杯だった。
ここから今すぐに逃げて、彼女と会ったことをなかったことにしてしまいたい。
そんな衝動が、自分の中を暴れ回っていた。
「どうしたの?」
「あの……えっと、これを……」
自分の前で車椅子を止めた彼女に狼狽えながらも、拓也は手に持っていた紙袋を差し出す。
女性は不思議そうな表情でそれを受け取り、中身を確認。
―――と、次の瞬間にその顔がパッと上がって拓也に向く。
よほど驚いたのか、目がまんまるになっていた。
「まあ…。これ、わざわざ返しに来てくれたの?」
「いや……おれも、病院に来たついでなんで。あまり気にしないでください。ここに来たのも、会えたら返そうってくらいの軽い気持ちだったし。」
なんだか急に気恥ずかしくなって、拓也はそれをごまかすように言葉を重ねる。
彼女は、紙袋の中から以前貸した膝かけを取り出した。
柔らかい膝かけの感触を楽しむように手を這わせ、大切そうにそれを抱く。
そして―――心底幸せそうに笑った。
「!?」
拓也は、大きく目を見開く。
(……違う。)
反射的に、今見たものを否定する。
違う。
彼女は関係ない。
分かっているのに、これまで見た彼女の表情が、自分の奥底に沈めたはずの記憶を問答無用で呼び起こしていく。
そして―――自分の心を、深い闇の中へと突き落としていく。
「ねえ。これから、時間はあるかしら?」
膝かけに顔をうずめて微笑み、女性は拓也にそう訊ねた。
「え? ………あります、けど……」
動揺していた拓也は、頭で考えるよりも先に、馬鹿正直にそう答えてしまう。
拓也の答えを聞いた女性は顔を上げて、その手を優しく握った。
「少し、お話しましょう?」
わくわくとした嬉しそうな笑顔で、女性はそう言ってくる。
(だめだ……)
彼女にばれないように自分の動揺を必死に抑える一方で、喉がありもしない唾を嚥下する。
彼女の誘いに頷いてはいけない。
自分の身を滅ぼすだけだ。
そう思うのに……
こんな風に笑いかけられては、拒むことなんて―――
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
コミカライズ企画進行中です!!
2巻2月9日電子版解禁です!!
紙は9日に配送開始、12日発売!
【書籍版 大ヒット御礼!オリコン18位&2巻出版!】
皆様の熱狂的な応援のおかげで、書籍版『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』が、コミカライズ決定いたしました!現在企画進行中!!そしてオリコン週間ライトノベルランキング18位、そしてアルファポリス様の書店売上ランキングでトップ10入りを記録しました!
12日には、楽天koboにおいてファンタジー5位となりました!皆様のおかげです!
本当に、本当にありがとうございます!
皆様の応援が、最高の形で「続刊(2巻)」へと繋がりました。
市丸きすけ先生による、素晴らしい書影も必見です!
【作品紹介】
欲望に取りつかれた権力者が企んだ「スキル強奪」のための勇者召喚。
だが、その儀式に巻き込まれたのは、どこにでもいる普通のサラリーマン――白河小次郎、45歳。
彼に与えられたのは、派手な攻撃魔法ではない。
【鑑定】【いんたーねっと?】【異世界売買】【テイマー】…etc.
その一つ一つが、世界の理すら書き換えかねない、規格外の「便利スキル」だった。
欲望者から逃げ切るか、それとも、サラリーマンとして培った「知識」と、チート級のスキルを武器に、反撃の狼煙を上げるか。
気のいいおっさんの、優しくて、ずる賢い、まったり異世界サバイバルが、今、始まる!
【書誌情報】
タイトル: 『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』
著者: よっしぃ
イラスト: 市丸きすけ 先生
出版社: アルファポリス
ご購入はこちらから:
Amazon: https://www.amazon.co.jp/dp/4434364235/
楽天ブックス: https://books.rakuten.co.jp/rb/18361791/
【作者より、感謝を込めて】
この日を迎えられたのは、長年にわたり、Webで私の拙い物語を応援し続けてくださった、読者の皆様のおかげです。
そして、この物語を見つけ出し、最高の形で世に送り出してくださる、担当編集者様、イラストレーターの市丸きすけ先生、全ての関係者の皆様に、心からの感謝を。
本当に、ありがとうございます。
【これまでの主な実績】
アルファポリス ファンタジー部門 1位獲得
小説家になろう 異世界転移/転移ジャンル(日間) 5位獲得
アルファポリス 第16回ファンタジー小説大賞 奨励賞受賞
復活の大カクヨムチャレンジカップ 9位入賞
オリコンランキングライトノベル 週間BOOKランキング 18位(2025年9月29日付)
【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……
buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。
みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……
ユーヤのお気楽異世界転移
暇野無学
ファンタジー
死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。
ペーパードライバーが車ごと異世界転移する話
ぐだな
ファンタジー
車を買ったその日に事故にあった島屋健斗(シマヤ)は、どういう訳か車ごと異世界へ転移してしまう。
異世界には剣と魔法があるけれど、信号機もガソリンも無い!危険な魔境のど真ん中に放り出された島屋は、とりあえずカーナビに頼るしかないのだった。
「目的地を設定しました。ルート案内に従って走行してください」
異世界仕様となった車(中古車)とペーパードライバーの運命はいかに…
底辺から始まった俺の異世界冒険物語!
ちかっぱ雪比呂
ファンタジー
40歳の真島光流(ましまみつる)は、ある日突然、他数人とともに異世界に召喚された。
しかし、彼自身は勇者召喚に巻き込まれた一般人にすぎず、ステータスも低かったため、利用価値がないと判断され、追放されてしまう。
おまけに、道を歩いているとチンピラに身ぐるみを剥がされる始末。いきなり異世界で路頭に迷う彼だったが、路上生活をしているらしき男、シオンと出会ったことで、少しだけ道が開けた。
漁れる残飯、眠れる舗道、そして裏ギルドで受けられる雑用仕事など――生きていく方法を、教えてくれたのだ。
この世界では『ミーツ』と名乗ることにし、安い賃金ながらも洗濯などの雑用をこなしていくうちに、金が貯まり余裕も生まれてきた。その頃、ミーツは気付く。自分の使っている魔法が、非常識なほどチートなことに――
[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。
クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。
貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ?
魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。
ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。
私の生活を邪魔をするなら潰すわよ?
1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
流血シーンあり。
魔法・魔物あり。
ざぁま薄め。
恋愛要素あり。
【しっかり書き換え版】『異世界でたった1人の日本人』~ 異世界で日本の神の加護を持つたった1人の男~
石のやっさん
ファンタジー
12/17 13時20分 HOT男性部門1位 ファンタジー日間 1位 でした。
ありがとうございます
主人公の神代理人(かみしろ りひと)はクラスの異世界転移に巻き込まれた。
転移前に白い空間にて女神イシュタスがジョブやスキルを与えていたのだが、理人の番が来た時にイシュタスの顔色が変わる。「貴方神臭いわね」そう言うと理人にだけジョブやスキルも与えずに異世界に転移をさせた。
ジョブやスキルの無い事から早々と城から追い出される事が決まった、理人の前に天照の分体、眷属のアマ=テラス事『テラスちゃん』が現れた。
『異世界の女神は誘拐犯なんだ』とリヒトに話し、神社の宮司の孫の理人に異世界でも生きられるように日本人ならではの力を授けてくれた。
ここから『異世界でたった1人の日本人、理人の物語』がスタートする
「『異世界でたった1人の日本人』 私達を蔑ろにしチート貰ったのだから返して貰いますね」が好評だったのですが...昔に書いて小説らしくないのでしっかり書き始めました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる