473 / 714
第2章 水の底
精霊の女王
しおりを挟む「ああ……―――思い出した。」
目が覚めた瞬間、無意識にそう呟いていた。
そうだ。
自分は、あんなにも精霊たちと言葉を交わしていたじゃないか。
彼女たちから様々なことを学んで、彼女たちと様々な感情を共有して、あの場所でたくさんの思い出を積み重ねていたんだ。
実は、ゆっくりと身を起こす。
寝かされていたベッドの周りには、天蓋から薄いカーテンがぐるりとかけられていた。
背景を透過しているカーテンを通して、部屋の様子を確認してみる。
壁全面がガラスでできた、ドーム型の部屋。
ガラスの向こうには深い青が広がっていて、その中を魚が泳いでいるのが見える。
そういえば、自分は誰かに湖の中へと引き込まれたんだったか。
『さあ、行きましょう。』
穏やかなあの声に誘われて。
「ここは……多分、知ってるよな…?」
胸がもやもやしている。
おそらく、自分はここを知っている。
まだ思い出せていないだけだ。
「………はあ。」
少し記憶を探ったが全く頭に引っ掛からなくて、実は重い溜め息をつく。
とりあえず、いつまでもここで寝ていても仕方ないだろう。
そう思って、カーテンを開けると―――
「わっ…!?」
カーテンを開けた瞬間に向こうから何かが跳びかかってきて、実は思わず後ろに尻餅をついた。
跳んできた何かは実の膝の上に乗り、そこから実の胸に向かって前足を伸ばす。
それを見下ろして、実は目をしばたたかせた。
「お前…っ」
そこにいたのは、青みがかった白色をした兎。
その黒くつぶらな目が、こちらをじっと見上げている。
思い出したばかりの記憶の中で、同じ色の兎が跳び跳ねた。
「もしかして……あの時の?」
信じられない気持ちで兎を抱き上げる。
兎は、記憶の中より一回りも二回りも大きくなっていた。
持ち上げた感覚も、昔よりずっしりとしている気がする。
「大きくなったなぁ…。つーか、太ったんじゃないか? 懐かしい。ここにいたのかぁ。」
ちょっと幼い頃に戻った気分がして、思わず笑い声が口をついていた。
静かに兎を下ろすと、兎は膝の上に乗ってそこで丸くなる。
かなり久しぶりに会ったというのに、自分にべったりなのは変わらないらしい。
これには苦笑するしかない。
「相変わらずだな……お前。」
背中をなでてやると、兎は気持ちよさそうに目を細めた。
「ふふ…」
ふと笑い声が聞こえた。
それで、反射的に首を巡らせる。
いつの間にか、ベッドのすぐ側に一人の女性が立っていた。
とても優しげな女性だ。
深い青と淡い青が美しく織り混ざる髪は、緩やかに波打ちながら彼女の腰辺りまで伸びている。
透き通るような青い瞳が、穏やかにこちらを見下ろしていた。
「待ちなさいって言ったのに…。よっぽど嬉しかったのね。」
彼女は、もはや実の膝から動く気のない兎をなでた。
そして、その流れで実の髪もそっとなぞる。
「おかえりなさい。ずっと……待ってたわ。」
実をまっすぐに見つめる彼女の目は、深い慈愛に満ちていた。
「うん…。久しぶり、イルシュ。」
そう言うのが精一杯だった。
その後黙り込んだ実の隣に腰かけたイルシュエーレは、そっと実を抱き締める。
「すごく心配してたのよ。いきなりあんな風にさよならを言われて……もう、二度と会えないのかと思って……」
イルシュエーレの声に切なさが混じる。
それに、実は何も言うことができなかった。
彼女は、この森を統べる精霊の女王。
自身は水に属し、湖の外へ出ることは滅多にない。
知識として、彼女がどんな存在なのかは分かる。
けれど、彼女との思い出がとても薄い。
思い出せたのは彼女が初めて姿を現した時のことと、自分が彼女をイルシュと呼んで、親しく話していたことだけ。
彼女とどんなやり取りをしていたのか。
そして、どんな別れをしたのか。
そういった具体的な思い出は、何一つとして出てこない。
それが、とても悲しくてたまらない。
イルシュエーレや精霊たちは、自分に惜しみない愛情を注いでくれていた。
それなのに、彼女たちのことを全然思い出せないなんて―――
「……ごめん。」
寂しさや悲しさが入り混じった複雑な感情が胸を圧迫して、絞り出した声は微かなものになってしまった。
こちらの声に含まれた異変に気付いたのだろう。
イルシュエーレが体を離し、心配そうに眉を下げてこちらを見つめてくる。
「どうしたの? そんな……悲しそうな顔をして。」
実の頬に手を当てて訊ねるイルシュエーレ。
そんな彼女の瞳を見て、実は言葉につまってしまった。
そこに映る自分の顔は、彼女の言葉どおりとても悲しそうだった。
まるで、泣くのを必死にこらえて、あふれそうな気持ちを全力で抑え込めているかのような表情だ。
今では、こういう表情こそ別の表情で隠すようにしていたはずなのに。
いつの間にこんな顔をしていたのだろう。
どこか他人事のようにそう思っていると、イルシュエーレが目の端に涙を浮かべた。
「そんな表情をするくらい……あなたは、心を追い詰めてしまったのね。」
どうしよう。
自分は、彼女になんと答えればいいのだろう。
どうにかしてごまかしたいのに、自分よりもイルシュエーレの方がよっぽど悲しそうな顔をしているように見えてしまって……
「思い……出せないんだ。」
気付けば、ぽつりとそう零していた。
イルシュエーレの顔を直視できなくなって、深くうつむいてしまう。
「人の世界に戻って……色々あった。そのせいなのかな? ……よく、思い出せないんだよ。イルシュやみんなのことは分かるのに……分かるのに、思い出せなくて…。……ははっ、結構ショックなんだ。」
実は自嘲的に笑う。
「全部思い出したつもりでいたのに、まだ完璧に思い出してなかったなんてさ…。しかも、忘れてることにも気付いてなかったなんて…。こんなに……大事な思い出のはずなのに……」
断片を思い出しただけでも、こんなに胸が温かくなるのだ。
それだけで、彼女たちとの記憶が自分にとってどれほど大事だったかが分かる。
それなのに、どうしてもはっきりと思い出せない。
その事実が胸を締めつけて、呼吸を苦しくさせる。
「ごめん……イルシュ……」
「………」
イルシュエーレは、何も言わなかった。
落ちる沈黙が、ひどく重苦しくて居心地が悪い。
「………っ」
実は、握った手に力を込める。
そうしないと、この苦しさに耐えられそうになかった。
ルシュエーレの細い手が実の拳を包んだのは、その時のこと。
彼女は黙したまま、実の手を握った両手を自分の額に持っていく。
「!?」
実は目を見開いた。
頭の中に、これまでの記憶が駆け巡る。
意識してもいないのに、今まで経験したことが走馬灯のように脳裏にひらめいた。
その感覚が告げる。
イルシュエーレが、自分の記憶を見ているのだ。
「ちょっ……何して―――」
抗議の声は、途中で途切れてしまった。
イルシュエーレが、ぽろぽろと大粒の涙を流し始めたのだ。
想像もしていなかった反応に、実は紡ぐべき言葉を見失ってしまう。
「こんな……つらいことばかり…っ」
涙声で、イルシュエーレはその言葉だけを絞り出す。
それ以上は感情に負けて話せないのか、涙声は小さな嗚咽に変わってしまった。
「えっ…と…」
まさかの展開に、実は戸惑いを隠せずに狼狽える。
こちらの過去にショックを受け、涙を流すイルシュエーレ。
こんな反応をされるとは思っていなかったので、少しばかり頭が混乱していた。
「あの……泣かないで……」
控えめに声をかけてみても、イルシュエーレの目から零れる涙は止まらない。
とにかく、このままでは気まずさばかりが募ってしまう。
どうにかしてイルシュエーレに泣きやんでもらいたい実は、慌てて口を開いた。
「だ、大丈夫だよ。過去のことだし、俺はあまり気にしてない―――」
その言葉を遮るように、イルシュエーレがきつく抱き締めてきた。
耳の間近ですすり泣く声がして、流れ落ちてくる涙が肩口を濡らす。
「……いいの。」
嗚咽の合間に、小さな声が鼓膜を揺らす。
「我慢しなくていいの。こんな思い……もう、二度とさせないわ。」
「………」
何も言えなかった。
彼女にとって、こちらの記憶がどれほどショックなものだったのかは知る由もない。
それでも、彼女がこちらの過去を自分のことのように感じていることだけはひしひしと伝わってきた。
「イルシュ……」
突き放すことも、一緒に涙を流すこともできない状況。
戸惑う実はどうすればいいのか分からないまま、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
コミカライズ企画進行中です!!
2巻2月9日電子版解禁です!!
紙は9日に配送開始、12日発売!
【書籍版 大ヒット御礼!オリコン18位&2巻出版!】
皆様の熱狂的な応援のおかげで、書籍版『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』が、コミカライズ決定いたしました!現在企画進行中!!そしてオリコン週間ライトノベルランキング18位、そしてアルファポリス様の書店売上ランキングでトップ10入りを記録しました!
12日には、楽天koboにおいてファンタジー5位となりました!皆様のおかげです!
本当に、本当にありがとうございます!
皆様の応援が、最高の形で「続刊(2巻)」へと繋がりました。
市丸きすけ先生による、素晴らしい書影も必見です!
【作品紹介】
欲望に取りつかれた権力者が企んだ「スキル強奪」のための勇者召喚。
だが、その儀式に巻き込まれたのは、どこにでもいる普通のサラリーマン――白河小次郎、45歳。
彼に与えられたのは、派手な攻撃魔法ではない。
【鑑定】【いんたーねっと?】【異世界売買】【テイマー】…etc.
その一つ一つが、世界の理すら書き換えかねない、規格外の「便利スキル」だった。
欲望者から逃げ切るか、それとも、サラリーマンとして培った「知識」と、チート級のスキルを武器に、反撃の狼煙を上げるか。
気のいいおっさんの、優しくて、ずる賢い、まったり異世界サバイバルが、今、始まる!
【書誌情報】
タイトル: 『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』
著者: よっしぃ
イラスト: 市丸きすけ 先生
出版社: アルファポリス
ご購入はこちらから:
Amazon: https://www.amazon.co.jp/dp/4434364235/
楽天ブックス: https://books.rakuten.co.jp/rb/18361791/
【作者より、感謝を込めて】
この日を迎えられたのは、長年にわたり、Webで私の拙い物語を応援し続けてくださった、読者の皆様のおかげです。
そして、この物語を見つけ出し、最高の形で世に送り出してくださる、担当編集者様、イラストレーターの市丸きすけ先生、全ての関係者の皆様に、心からの感謝を。
本当に、ありがとうございます。
【これまでの主な実績】
アルファポリス ファンタジー部門 1位獲得
小説家になろう 異世界転移/転移ジャンル(日間) 5位獲得
アルファポリス 第16回ファンタジー小説大賞 奨励賞受賞
復活の大カクヨムチャレンジカップ 9位入賞
オリコンランキングライトノベル 週間BOOKランキング 18位(2025年9月29日付)
【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……
buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。
みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……
【しっかり書き換え版】『異世界でたった1人の日本人』~ 異世界で日本の神の加護を持つたった1人の男~
石のやっさん
ファンタジー
12/17 13時20分 HOT男性部門1位 ファンタジー日間 1位 でした。
ありがとうございます
主人公の神代理人(かみしろ りひと)はクラスの異世界転移に巻き込まれた。
転移前に白い空間にて女神イシュタスがジョブやスキルを与えていたのだが、理人の番が来た時にイシュタスの顔色が変わる。「貴方神臭いわね」そう言うと理人にだけジョブやスキルも与えずに異世界に転移をさせた。
ジョブやスキルの無い事から早々と城から追い出される事が決まった、理人の前に天照の分体、眷属のアマ=テラス事『テラスちゃん』が現れた。
『異世界の女神は誘拐犯なんだ』とリヒトに話し、神社の宮司の孫の理人に異世界でも生きられるように日本人ならではの力を授けてくれた。
ここから『異世界でたった1人の日本人、理人の物語』がスタートする
「『異世界でたった1人の日本人』 私達を蔑ろにしチート貰ったのだから返して貰いますね」が好評だったのですが...昔に書いて小説らしくないのでしっかり書き始めました。
[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。
クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。
貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ?
魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。
ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。
私の生活を邪魔をするなら潰すわよ?
1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
流血シーンあり。
魔法・魔物あり。
ざぁま薄め。
恋愛要素あり。
底辺から始まった俺の異世界冒険物語!
ちかっぱ雪比呂
ファンタジー
40歳の真島光流(ましまみつる)は、ある日突然、他数人とともに異世界に召喚された。
しかし、彼自身は勇者召喚に巻き込まれた一般人にすぎず、ステータスも低かったため、利用価値がないと判断され、追放されてしまう。
おまけに、道を歩いているとチンピラに身ぐるみを剥がされる始末。いきなり異世界で路頭に迷う彼だったが、路上生活をしているらしき男、シオンと出会ったことで、少しだけ道が開けた。
漁れる残飯、眠れる舗道、そして裏ギルドで受けられる雑用仕事など――生きていく方法を、教えてくれたのだ。
この世界では『ミーツ』と名乗ることにし、安い賃金ながらも洗濯などの雑用をこなしていくうちに、金が貯まり余裕も生まれてきた。その頃、ミーツは気付く。自分の使っている魔法が、非常識なほどチートなことに――
最遅で最強のレベルアップ~経験値1000分の1の大器晩成型探索者は勤続10年目10度目のレベルアップで覚醒しました!~
ある中管理職
ファンタジー
勤続10年目10度目のレベルアップ。
人よりも貰える経験値が極端に少なく、年に1回程度しかレベルアップしない32歳の主人公宮下要は10年掛かりようやくレベル10に到達した。
すると、ハズレスキル【大器晩成】が覚醒。
なんと1回のレベルアップのステータス上昇が通常の1000倍に。
チートスキル【ステータス上昇1000】を得た宮下はこれをきっかけに、今まで出会う事すら想像してこなかったモンスターを討伐。
探索者としての知名度や地位を一気に上げ、勤めていた店は討伐したレアモンスターの肉と素材の販売で大繁盛。
万年Fランクの【永遠の新米おじさん】と言われた宮下の成り上がり劇が今幕を開ける。
ペーパードライバーが車ごと異世界転移する話
ぐだな
ファンタジー
車を買ったその日に事故にあった島屋健斗(シマヤ)は、どういう訳か車ごと異世界へ転移してしまう。
異世界には剣と魔法があるけれど、信号機もガソリンも無い!危険な魔境のど真ん中に放り出された島屋は、とりあえずカーナビに頼るしかないのだった。
「目的地を設定しました。ルート案内に従って走行してください」
異世界仕様となった車(中古車)とペーパードライバーの運命はいかに…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる