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第3章 人の咎
初めて殺意を向けられた時
しおりを挟む「!?」
思わぬ事態に、無意識のうちに飛び起きていた。
「何!?」
慌ててドアを開けると、部屋の隅でうずくまっている男性が目に入る。
その体は見るからに震えていて、まるで何かに怯えているようだった。
「………っ。だから、忠告したのに。」
舌打ちをしても、もう遅い。
彼は狂い始めてしまった。
あとは岩が坂道を転がり落ちるように、あっという間に狂っていくだけだ。
「やめろ……こっちに来るな!! ぼくは……ぼくは何もしてない!! なのに……なんで!?」
男性は激しく首を振るが、この家には俺と彼以外に誰もいない。
彼が見ているのは幻覚だ。
しかも、この様子を見るに、強い恐怖に結びつくようなものを見ているのだろう。
……可哀想に。
少しだけそう思った。
せめて、うっとりするような甘い幻影に魅せられたのなら、まだ幸せだっただろうに。
今でも、言葉は通じるだろうか…?
そう思いながら一歩踏み出すと、床が軋んだ音を立てた。
それに、男性が異常な速度で振り向く。
「………っ」
思わず、一歩退いてしまった。
男性はゆらりと立ち上がり、ふらつきながらこちらに近付いてきた。
そして、彼は俺の前で情けなくくずおれる。
「助けて…っ」
立ち尽くす俺の肩に、すがりついてきた男性の手が痛いほどに食い込んだ。
「助けてって……そんなこと言われても……」
これは聖域の力によるもの。
俺がどうこうできる問題じゃない。
人間が拒まれ、排斥される場所。
それが、この場所の本来の姿だから。
では、この状況をどうしたものか。
少し考え、俺は彼の頭に手を置いた。
次に、無言で魔力を指先に集める。
ここは、大人しく眠ってもらうのが吉。
彼としても、幻覚を見なくて済むので都合がいいだろう。
「………、………」
ふいに、男性の口が何かを呟いた。
次の瞬間―――
ダンッ
視界が一気に回った。
何かにぶつかる音と共に、頭に衝撃が走って星が飛ぶ。
「え…?」
気付けば、俺は男性に押し倒されていた。
「―――そうか……」
男性は、血走った目でぶつぶつと言葉を連ねる。
「全部……お前の仕業か……」
「はあっ!?」
何故そうなるのだ。
素っ頓狂な声をあげる俺に構わず、男性はうわ言のように口を動かすだけ。
「そうだ……こんな所に、人がいるわけない。しかも、こんな子供が一人でなんて……」
「ちょっ……苦し…っ」
息が苦しくなってきて暴れるが、男性は首に押しつけた手だけで、俺の動きを完璧に封じていた。
大人と子供では、力の差がありすぎる。
「正体を現したらどうだ? 子供の姿なら、手加減してもらえると思っているのか?」
「何……言っ……て…っ」
「お前は何者だ?」
「離……せ…っ」
息がつまる。
その時、視界の端に白いものが映った。
あの兎だ。
兎は俺の首にかかる男性の手に飛びつくと、そこに思い切り歯を立てた。
「つっ…」
深く食い込んだ兎の歯から広がる激痛に、男性が俺の首から手を離す。
一気に喉に新鮮な空気が流れ込んできて、俺は喘ぐように呼吸を繰り返した。
男性が、噛まれていない方の手で兎の首根っこを掴む。
苦しんで口を開けた兎を手から引き離し、あろうことか、彼はそのまま兎を壁に叩きつけてしまった。
「あっ…!?」
とっさに兎の元へ駆け寄ろうと身を起こしたが、その瞬間に男性に肩を掴まれて、再び床に押しつけられてしまう。
「いった……」
強か頭を打って、身動きが取れなくなる。
「……てやる…」
男性が、激しく体を揺さぶってくる。
「化け物め。殺してやる……殺してやる殺してやる殺してやるっ!!」
「………っ」
全身がすくんだ。
生まれて初めてぶつけられた、純粋で強い殺意。
それは、俺から抵抗する意志も力も奪っていってしまった。
茫然とした俺は、ただ殺意に飲まれたように男性を見上げるしかなかった。
無言で手を振り上げる男性が、ふと蜃気楼のように揺れる。
掲げられた手には―――どこから持ち出したのか、鈍く光る包丁が握られていた。
「―――っ!!」
それが何であるかを理解した瞬間に、今まで味わったことのないほどの恐怖が突き上げた。
それは呆けていた脳を強く揺り動かし、脳内にけたたましく警鐘を鳴らす。
これが、命を狙われるということ。
今まさに、自分は殺されようとしている。
照明に照らされて不気味に光る、あの刃で。
降り下ろされる刃が、スローモーションに映って―――
「うわああっ!! 離せえーっ!!」
その瞬間、理性は完全に瓦解した。
訳も分からずにもがいた。
そして―――
―――バァンッ
外で、何かが爆発するような音がした。
同時に、大きな爆発音が俺と男性の間で弾ける。
「ぐあっ!?」
呻き声をあげた男性が、一瞬で俺の上から吹っ飛んだ。
彼の体がダイニングテーブルにぶつかり、テーブルが倒れて、その上に乗っていた花瓶や食器が床で砕ける。
「はあっ……はあっ……」
大きく息をしながら、俺はなんとか起き上がった。
男性は動かない。
今ので気絶したのか、それとも死んだのか。
そんなことは分からなかった。
その時の俺は完全に混乱していて、まともに状況を把握できるような状態ではなかったのだ。
「大丈夫!?」
精霊が慌てて寄ってくる。
だが、その言葉は理解できる言語として頭に入ってこない。
『殺してやる……』
木霊のように、その言葉だけが脳裏に響いていた。
「あ…」
初めての感情に、ついていけない。
本当に殺されると思った。
ものすごく怖かった。
怖い……怖い怖い怖い―――
「うっ…」
思考がそれで埋め尽くされて、頭が痛かった。
吐き気で胃がムカムカする。
涙がぽろぽろと零れた。
「―――っ!? だっ……だめ!」
何かを察知した精霊が慌てる。
「落ち着いて! 力を暴走させちゃだめ!! 森が荒れちゃう!!」
「いっ…!!」
精霊が服を揺さぶったことで、右腕に刺すような痛みが走った。
痛みにつられて腕を見下ろすと、そこにはべったりと広がる赤い色が。
「―――……」
ざっと、血の気が引いていった。
(…………え?)
袖がばっさりと裂け、肌に深い切り傷が走っていた。
たくさんの血があふれて、服が吸い込みきれなかった血がぽたぽたと床へと落ちていく。
よく見ると、そこら中に血痕が小さな点として飛び散っている。
そして、倒れた男性の側には血に濡れた包丁が落ちていた。
「あ……あ……」
痛みは感じなかった。
痛みよりも、自分の体から血が流れていることに、いっそ気絶してしまいたいほど驚いたのだ。
それは、覚悟していたよりも遥かに壮絶な光景で―――
「うっ…」
「だめ!!」
精霊が声を荒げるも、それは無意味な行為でしかなかった。
「うわあああぁぁぁっ!!」
心の底から叫んだ。
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