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ストーブリーグ

特に教える事は何も無し

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キャンプは順調だった。


ブルペンではジェイク・キムラが早くも156kmをマークした。


「ほぅ…メジャーリーガーとはいえ、この時期にしては随分と早い仕上がりだな」


「いえいえ、そんな事ないですよ」


「それにしても、日本語が上手いよな~。ジェイクの場合通訳が必要無いから助かるよ」


「ありがとうございます。高峰コーチ、今日の練習終わったらちょっと外出してもいいですか?」


「ん?外出って…そりゃ、少しの時間なら構わないが何しに行くんだ?」


キムラは満面の笑みを浮かべている。


「聞いてくださいよ、高峰コーチ!実はここから少し離れたゲームショップで、アニメキャラのサイン会があるんですよ!ちゃんとSNSでチェックしてるんですよ、ボク!」


「へ?アニメキャラ…?」


キムラは親日家と同時にかなりのアニヲタだった。


「ハイ!もう、それがすっごくカワイイんですよ~っ!」

幸せそうな笑顔だ。


「ま、まぁたまには息抜きしないとな…」


「ハイっ!!」


こんな純新無垢な笑顔を見せられたら、何も言えない。



もう一方では、ローテーションの一角を担う北乃がナックルカーブに次ぐ新しい変化球に取り組んでいた。


「違う、そうじゃなくもう少しリリースの瞬間を遅くしてみて」


「はい」

水卜に変化球を教わっている。


「いい、握り方はこう」


「こう、ですよね」



「うん、それで少し抜く感じで投げてみて」



「こうかな…」


ビュッ…


「あー、そう!その感じ!その感覚を忘れないでね」


「ハイ!」


一体何の変化球をマスターしようというのか。



野手の方では、トーマス総合打撃コーチが身振り手振りで若手を指導している。

その横ではコーチ兼任の畑中がトーマスの通訳係として大忙しだ。


あまり知られていないが、畑中は帰国子女で英語は堪能だ。


外野では、櫻井ヘッドコーチと松浦外野守備コーチが基本動作を丁寧にやるよう指導している。

何事も基本を疎かにしてはいけないという教えを選手達に説いた。


大和内野守備コーチは筧と鬼束の二遊間コンビに連携プレイの練習を指導している。


鬼束は去年初のゴールデングラブ賞を獲得したお陰で守備に自信が付いてきた。



「おい、マコト!」


「あ、ハイ!」


榊はバッテリーコーチの室田を探していた。


「マコト!お前今ヒマか?」


「えっ、いや~…ヒマと言われればヒマかもしれないですね」


「どうせ、ヒマなんだろっ!」


「は、はぁ…ヒマっす」


何やら企んでいるみたいだ。


「お前、今日いくら持ってきている?」


「へ?」


「いや、いくら持ってきてんだよ!」


「いくらって…サイフの中にいくらあったかなぁ」


「まぁいい…悪いけどよ、少しばかり貸してくれないかな?」


まただ…


「今ですか?今はさすがにユニフォーム姿ですし、サイフ持ってないんですが」


「後でいいよ!じゃ、悪いけど頼む!」


そう言うとブルペンへ向かった。



「そうだ、思い出した!」


「思い出したって、何をですか?」


側にいた若手選手が尋ねた。


「昔あの人に1万貸してたままだ!」


「えっ…監督にですか?」


「そうだよ!サイフ忘れた~、とか言ってオレが1万貸したんだよな…って言っても、あの人は忘れてるだろうな」


現役時代にチームメイトからも借金をしていたとは。




「櫻井コーチ」


「ん?」


唐澤が櫻井の下へ。


「あの…現役時代のお話を伺ってもよろしいですか?」


「ボクの現役時代?」


櫻井はキョトンとしている。


「ハイ!櫻井コーチの現役時代をお聞きしたいんです」


かつて天才と呼ばれたスラッガーと、現在進行形の天才スラッガーが対峙する。


「ボクなんかの話を聞いたところで何も得るものは無いよ」


穏やかな笑みを浮かべた。


「そ、そんな事はないです!伝説のスラッガーでもある櫻井コーチの現役時代を知りたいんです!」


「知ってどうするの?」


「それは、現役時代どんな気分で打席に立っていたとか、技術だけじゃなくメンタルな部分も知りたいと思って」


「唐澤君…」


「はい…」


静かな口調でこう答えた。


「今のキミには必要の無い事だ」


「ど、どういう事ですか?」


意外な一言に唐澤は動揺した。


「いや、そのままさ…ボクの現役時代の話なんて、キミには全く必要無い」


「な、何故ですか?」


「キミはね…もうボクを越えているからさ」


「え…」


ボクを越えている…


櫻井よりも天才だと言うのだろうか。
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