猫と嫁入り

三石一枚

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四話

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「麗か。花道のお兄さんを覚えているかい」

 私は母から唐突にそう聞かれた。両の手は白粉のせいで真っ白になってしまっている。
 白粉の粉末が鼻腔をくすぐる度にくしゃみが出そうになるけれど、それを堪える忍耐力が要求された。炸裂されれば辺り一帯は灰を被った焦土のような景色となる。
 父も母もそれを黙って見ているわけが無い。
 髪の毛を櫛で梳かし、念入りに姿を見繕う。今日も今日とて、許嫁殿との同伴が待っていたのだ。
 最近の調子はずっとこうだ。恐らく両家とも息子娘の仲を持とうと画策しているのだろう。顔を合わせる頻度は以前より多くなっていた。
 その度に顔中に化粧を施したり、身なり佇まいをぴしりとするのだから大忙しである。夫婦になるということは、毎日顔をつきあわせることになるという事だ。別にこんな段階を踏まずとも、慣れていくとは思うのだが。
 何れにせよ納得行かぬ私は半ば不貞腐れて母にその身を委ねる。どうせ逃げられぬのだから。首輪をつけられた愛玩犬の気分だ。

「忘れはしませんよ。相葉の家の一人息子さんですね。確か四つ上の」

 相葉花道。懐かしい名前だ。
 私は新品となった着物の袖に腕を通しながらその名を反芻する。幼い時によく遊んだ中で、あの頃のことを今でさえ鮮明に覚えている。背が高く、とにかく私の事を気にかけていてくれた人だ。
 性格がよく、少しばかり口に陰険さがあったが、根がとても誠実な人だった。近所だったからか、それこそ顔をつきあわす日は多かった気がする。
 正直、幼少時代にいい思い出はなかった。
 理由は色々とあるのだが、中でも今でこそ健康体な私ではあるが、当時の私は病気がちで學校をよく休んでいた。
 それこそ、風邪などの微々たるものから、厄介なものまでだ。家で黙って寝込んでいると、勝手口から花道の兄さんが見舞いと称してりんごや柿などの果実類をよく持ってきてくれていた。
 父に見つかればゲンコツをもらって追い返されるため、花道の兄さんはこの行為を義賊にちなんで「五右衛門見舞い」とか言っていた。よくわからないがそういうことだろう。
 父は父で花道の兄さんのことはきっとよく思ってはいない。
 花道の兄さんの家は決して裕福なんかじゃなく、我らが立花家が迎え入れるほどの人間とみなしていなかった。
 そのためその扱いは酷く、度々彼の事をどこぞの野良猫と罵ってあった。酷い話である。

 ともあれ、私個人としては花道の兄さんは気に入っていた。
 立花家の私を卑下せずに対等に扱ってくれる気のいい兄貴だったからだ。懐いてしまったあとはひっつき持っ付きで遊んでいたこともある。
 彼は今の私と同じ歳かそれくらいの時に東京の方へと行ってしまった。その後からは手紙はおろかとんと連絡が取れなくなってしまったのだ。
 今どうしているのだろうか。歳はきっと十八のはずだ。

「今ね、花道の兄さんが帰ってきてるらしいの。こっちの方にね。今は本家にいるはずよ」

「こちらに?」

「ええ。それこそ最近の話ね」

 意外な話である。東京へ行った人間がこんな辺境な場所に帰ってくるなんて。
 東京に行った理由がなんとも伺いしれないけれど、顔見知りが帰ってきたとなると少しばかり嬉しくも感じる。
 なんとも水臭い話だ。帰ってきたのなら、私に知らせてくれてもよかったでは無いか。それとも向こうで女房でもこさえてきたか。それはそれで寂しくもあるけれど、涙を飲んで祝福してやりたくもある。

「母上。許嫁殿との同伴あとに彼の家を寄ってみても宜しいでしょうか」

「ならん」

 希望を抱いた私の声を野太い声が遮った。父である。鏡越しに眉間にシワを寄せた乱暴者が凄まじい怒気を放ちながら睨んできていた。私はさっと視線を下げる。

「一週間前の粗暴。忘れたか。お前のせいで相手方が立花家との一線を破綻としかねんのだぞ。嫁入り前の生娘が他の男児にうつつを抜かすな」

 一週間前の粗暴といえばあの件だ。
 謎の黒猫との邂逅を果たしたあの日。帰宅後に信じられない量の戒めを叩き込まれたあの日から、早いことにもう一週間が経っていた。実に時の流れは早い。
 あれから一度も猫と会ってはいないが、空が笑顔でない日には毎々あの猫のことを思い出していたくらい、その存在に興味が行っている。
 しかし父はその一件のことでまだ虫の居所が悪いらしく、度々その話題を釣っては私に酷く当たり散らしていた。さすがに手を上げられるまではないが、憔悴する位にはグチグチと意見を食らうのだ。
 飯の時にしろそう出ない時にしろ、思い出したかのように陰険な物言いをするその小物さ加減には殆愛想がつきる。
  反対に母は水に流してくれたらしく、そこまでひどい仕打ちはしてこない。水に流したというか、それ以上の言及はする必要が無いと、私が言うのも変だけれど、正常な判断を下したのだろう。
 そればかりか、行き過ぎる父を宥めてくれる立場となった。

「いいじゃないですかお父さん。彼とは麗かも昔からの付き合いです。顔を見せるくらいなら失礼にならないと思いますし」

「相葉の方は昔からこの立花家に気に入ってもらおうと擦り寄っていたでは無いか。あの小僧がいい例だ。人の娘にちょっかい出せばいつかは手を貸してくれると思っている」

「それはありません父上。花道の兄さんはそこらの卑しいものたちとは違います。真の意味で気を使ってくれた優しい方だ。私達が『立花家』と知っていても面倒を見てくれていた、そう言うべきではありませんか!」

 思考が脳髄を回り、喉元で押し止めようとしたはずの言葉が、思わぬ形で零れてしまった。
 ・・・これでは完全に父親への啖呵である。叱責の一つや二つが飛んできてもおかしくはない。

「・・・何が言いたい麗か」

 何が言いたい、そう問われて口まで出かけた言葉を私は飲み込んだ。その言葉を吐くことは、父の神経をさらに逆撫でするどころか、叱責はおろか何が飛んでくるか分からない。話をこじらせるだけの力がある暴言である。
 立花家には、そんな禁句が存在した。

「麗かも、もうやめなさい。あまり着付けに時間をかけてはなりませんよ。先方を待たせては失礼に当たります」

 母がそう言い、私の肩をぽんとたたく。両の手を添えるように、そっとだ。
 私は、はたっと気を取り戻して少し俯く。頭に血が登りすぎてしまっている。どうして私はこうも過剰反応してしまったのか。父の口の悪さなど、今更こうも邪険に扱うものでもないのに。
 私はその合図を切っ掛けに立ち上がる。母のそれは、言い合いはよして、そろそろ行こう、という意味を示唆した行動だった。

「麗か。再度言うがうつつを抜かすな。お前はあくまで立花家の者だ。立花家の名に恥じない生き方をしろ。お前の周囲への態度次第で、立花家の影響力が上がると思え。お前がへらへらと軟派な行動を示せば、いずれ立花家の看板を汚すことになる」

「・・・随意に」

 私は父の言葉を半ば皮肉げに返して、母と共に玄関の戸を開けた。
 空高くからさす陽の光は、そろそろ夏がやってくるであろうという兆しを告げる。

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