猫と嫁入り

三石一枚

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十四話

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「最近は街もめっきり変わっちゃったさ。私が若い頃って言ったら、まだ和装の人しかいなかったものよ。わざわざ洋風を取り入れるのなんて、それこそ金持ちとかしかいなかったもんだ。それを見かける度に、傾いた人がいたもんだって見てたんだけど、それすらすっかり珍しいものではなくなってしまった。時の移ろいは早いものだね。私が年老いてしまうわけよ」

「私も驚きました。街に繰り出してみると、昼間なのに明かりがついているのですもの。夜中ならいざ知らず」

 いつしか雨は、翠雨のような恵みをもたらしき雨ではなく、天より出り地を突き刺すような篠突く雨に変わっていた。途端に、傘から伝わる感触も、やんわりとしたものでなく手応えを感じるほどのものへと変わる。
 照り返すように弾ける雨水が、傘の防御をすり抜けて衣類に染み込む。肌寒さは凡そ足先から伝わり、大腿を通って下腹部あたりまでを刺激した。まとわりついてくる衣の気持ちの悪さは語るまでもない。おばさんと私の二人組は、適当に雨宿りができる店舗を見つけて、駆け込むようにして入りこんだ。
 例え暴雨服を持っていたとしても、これだけ激しく降られれば体を装えない。分厚い灰色の雲の布団を見上げながら、雨が少しでも弱くなるのを待つ。勿論それは神頼みでしかなく、いつ止むとも限らない代物だが、それでも、遠出に見える稲光を視野に入れながら、私たちふたりは特に意味の無い会話を繰り広げていた。退屈しのぎに。

 普通なら今頃、街の道路は芋洗い状態のように人に溢れ返っているのだけれど、こうも雨が降っていれば軒並み人の数も減ってくる。降ってきてすぐのときは蜘蛛の子を散らすように這う這うの体で雨から逃げる人々があったが、それも少し経てば水が打ち鳴る音のみの閑かな空間へと変わる。人っ子いない大通りの真ん中で、悲しげに電灯が街を照らしていた。軽く水面がかった路面に、鮮やかな彩色が灯る。

「止まないね、雨」

「・・・止みませんね、雨」

 白んだ空の慟哭をさえぎってくれる天井が、その水量に小さな悲鳴を上げ続けている。さながら鉄砲雨とでも言えそうだ。勢いが増加しているあたり、すぐに止むようなものでもない事が容易に分かる。
 グシャグシャになってしまった空の輪郭を仰ぎつつ、心許ない晴れの希望を胸にただひたすらに青を待った。

「ねえ、麗かちゃんは雨は好き?」

「雨ですか。私は好きですよ。雰囲気だけ見ると綺麗ですし、溢れた雨水が地面で水鏡になり得る様子なんて素晴らしいじゃないですか」

 私はおばさんの何気ない質問にそう答える。
 雨、と聞くと、条件反射で愛くるしい姿が脳裏に浮かんだ。あの子は大丈夫だろうか。
 猫は犬と比べて風邪になりやすいと聞く。しかもその風邪が原因で、悲哀な事にこの世を去る猫も決して少なくはないらしい。犬などのそう言った話はあまり聞かないけれど、猫に関して見れば、そういった悲しい出来事をよく耳にする。
 勿論環境も影響してるのだろうけれど。私の体感では、野良犬を見ようにも、猫ほど見つけることはあまりないのだから、世に出回った野良犬と野良猫の比率的に、猫の方が多く見かけられるからこその情報の流布なのかもしれない。
 あの件の猫も、幾ら傘を贈呈したとしても、こんな雨を受け続ければ流石に体調の一つや二つは崩れてしまうのではなかろうか。人間は二足で歩くから地面からの返し雨の被害はあまりないが、猫のように普段から体躯が地面とスレスレな動物であったなら、遮蔽物に身を隠そうが跳ね返った水滴が余すことなく身体に被弾するだろう。
 夏前の雨といえど、濡れた身体で風を浴びるのは良くない。言うまでもないが。

「・・・こんな雨は嫌いですけれどね。風情も何も無い」

 と、少しばかり付け加えた。
 梅雨時期独特の粘り気を感じさせる暑さと雨の相性は悪い意味で良すぎた。ひと風吹けばじんわりとした熱風思わせる気色の悪い空気が辺りに満ちるのだから、好きでいられるはずはない。
 体感的には、強い雨こそそれを肌身に感じる気がする。そんな嫌らしい熱気に充てられて、汗なんかをかけばその心地悪さに拍車をかける。
 強い雨は総じて嫌いだ。滝のような雨なんかより、盆から溢れる程度の疎雨が丁度いい。

「おばさんもね、雨は好きなんだ。落ち着くというか、安らぐというか。勿論、強くない雨の方が好ましいのだけれど、特に選り好みしない、そんなくらいにね」

「落ち着くのは私にも分かります。疲れた日なんて、一日中見てたいくらいです」

「はは、分かる分かる。地面に打ち続けられる様がなんだか心地いいんだ。ぼうっと眺めるだけでも、何でもかんでも忘れられる気がしてさ」

 おばさんはそんなことを言いながら、水色にすっかり染まった世界を見つめる。微笑みを携えた表情なのに、横目に見える彼女はどこか浮かないものを感じる。まるでさも、沈んでいるかのように。

「そういえば、花道の兄さんの体調はどうですか?  あれから一週間経ってしまいましたし、お変わりは?」

「ないよ。元気って言うと語弊が産まれるけれど、とかく、体調はいい方さ。今日は雨だから、一日中寝てるだろうね」

「雨だから・・・?  晴れや曇りだったなら、どうなるんです?」  

「実は体調が良くて天気もいい日は、近場を散歩しているんだよ。だから、一概に動けないほど悪い状況ではないってこと。それでも、あの子の病気が良くなる訳では無いのだけれどね」

「へえ。寝込みきってしまうより、ずっといい事です。状況が状況なんだから、ずっと伏せた状態だと気持ちまで病んできてしまいますからね。その点は前向きな兄さんらしいや」

 いいことを聞いた気がする。要は、晴れの日であるならば花道の兄さんと会う事ができるやもしれない、そんな情報だ。
 私としては、元気に二足歩行する彼を見たい。なんと言っても前回の再会があのようであるから、今の私にとっての花道の兄さんは四肢すら動かせず、石像の如く横たわる様でしか思い浮かべないからだ。
 昔の記憶が鮮明である分、今の状況は昔なじみの私からすると酷く切ない。幼少時代の元気だった頃を思う度に感傷を深く感じるのは至極当然だろう。兎にも角にも、願うことならば意識のある彼と面と向かってお話なんかもしてみたかった。
 とまあ、ほんのちょっと心が明るくなる題ではあったけれど、そもそも私は気安く外を出歩けるほど自由ではないし、なんなら許嫁の存在がありながらほかの男性に現を抜かすなどはご法度な事だった。何たる事。
 普段の私なら両親の裏をかいてでも会いに行こうとしただろうけれど、自身で決めた以上、そういう訳にも行かない。決意が揺らぐという事は、決した自分を否定する事に相違ない。漸く自分自身で定めた道を行こうとするその鼻っ柱で取るべき行動でないことくらいは区別できる。

 この場合の決意とは、結納にとり、前向きに進もうと考えた事である。
 今ここで花道の兄さんの話題に擦り寄って、会いたさにかまけて身を投げ出そうものなら、全てにおいて悪手となる。
 いつもなら感情優先で倫理すら立てずに突っ走る私と考えると、幾分か成長出来ているのではないだろうか。

「・・・ほんとはね、麗かちゃん。私はあなたに一つだけ謝りたいことがあったのよ。ずっと胸中に渦巻いてて消えてくれなかった、一つだけ後悔があるの」

 おばさんはそうぽつりと呟く。杯から溢れる水滴のように、ぽつりと。

「・・・私にですか?  ・・・私には、そのような覚えがないのですけれど」

「人は気付かぬうちに過ちを犯すってね。・・・あなたは確かに痛くも痒くもなかった事だろうけれど、言った私からすれば、ちょっと意地悪なことを言ってしまったなって反省してたの」

「意地悪なこと・・・?」

 おばさんに限って、私に意地悪を言うことなんてあっただろうか?自宅内であるなら毎日のごとく嫌味があるけれど。
 きょとんとしてるであろう私を見つめて、彼女は控えめに笑う。眉を下げて、申し訳なさげな顔で。

「あなたに先週言っちゃったじゃない。上京した花道の事をね。まるであなたに恩着せがましく、恰も擦り付けるように、あなたに大人の勝手な思考を押し付けてしまったかもしれない。大人の考えである私としてはね、幸せなんてものは日常にだってあるし、どんな時でも感じているものだと思うの。ただ、それに気がついてないだけ。だから、結婚した先にでも、もちろん幸せはあると思ってああ言ったのよ。言った後で、もしかしたらあなたに花道の事を重く思わせてしまったかもしれないって思い返してね。あくまであなたに言ってあげたかったのは、幸せというものを気づいていきながら暮らしなさいってこと。もし花道の事に罪悪感を感じてしまったなら、それは思い詰めなくて構わないわ。あなたはあなたらしく、麗かちゃんとして幸福な営みをしていきなさい」

「・・・ああ、あの事ですね」

 彼女の言っていることは、相葉家で花道の兄さんとの再会を喫した時に言っていたことなのだろう。
 花道の兄さんが上京をした理由の一つに、幼少時代からの病弱体質をどうにかしてやりたいのだと言っていたとか。今でこそ私に平凡的な健康能力はあれど、しかしまだ幼い頃は確かに風邪ひとつで死にそうになったものだった。大袈裟に聞こえるかもしれないが、それくらいには病気に対しての抵抗力というものが疎かったのだ。
 だけれど、私からすれば彼の行動の源力に私のことを思っていてくれたこと自体が嬉しかった。罪悪感がない訳では無いのだけれど、それでも、なんだかんだと気にかけてくれるところはやはり彼らしい。
 それにその話を聞けたからこそ、私の中で揺るがすべきじゃない決意が生まれたのだ。きっとあの会話がなければ、前と変わらず、どうしようもないことを云々かんぬんと恨みつらみを言うことしか出来ない私だったろうから。

 ・・・伝えるべきなら今しかないだろう。本能的にそう思った。
 私がこれ以上先を目指すためにも、清算せなばならないものがある。
 否、思いとでも言うべきか。
 立花麗かが選んだ道の上で、最も邪魔になる感情を捨てねばならない。
 許嫁殿との生活を受け入れるとするならば、きっといつかは腹を決めねばならない日が来ると思っていた。
 それが、今日だっただけのこと。

「おばさんが思ってるような事は私の中にはありません。逆に感謝したいくらいですよ」

「感謝?」

 一呼吸を置いて次の言葉を探る。
  永らく降り続ける雨は、爆ぜる水滴の音を持ってして、それ以外をまるで静止させたかと思うようなほどの無音な世界を造りあげる。
 今になって言い淀む口に難儀する。・・・ここから先、私が前に進むために通過せねばならない、ある種の決別であるというのに。
 途端に締め付けられるような痛みを覚えた心臓に鞭をうち、少しずつ、少しずつ言葉を繋ぐ。
 ポツリ、ポツリと。

「花道の兄さんと会わせてくれて、そのうえであの話までしてくれた。だからこそ、私には確固たる決断が下せたんだと思います。・・・花道の兄さんが次に目が覚めた時には、あの人には元気な私を見せてあげたい。悩み一つとしてない、きれいさっぱりな私を。おばさんの言うことが正しければ、何よりそれが彼への恩返しになるから」

「麗かちゃん・・・」

 ポツリ、ポツリと。

「・・・私は、この許嫁の件を前向きに捉えて進もうと思っています。だからこそ、彼とは会うことも、話すことすらもきっと今より楽なものにはならなくなるでしょう。結納をすれば、もはや会うことすら許されなくなる。・・・おばさんから、私の言伝を彼に伝えて貰えませんか。かなり意地悪なことを言いますが、私の決意をより強くするためと思って」

「言伝?  ・・・分かったよ」

 ポツリ、ポツリと。
 生暖かな雨が、頬を滑る。
 
「こんな事を彼の母であるおばさんに言うのも、少しばかり照れてしまいますが。私ももう、花道の兄さんとは会えなくなる日がそこまで近づいてきてますから。・・・幼い頃から見てきた花道の兄さんの背中に、ずっと憧れを持ってました。身を置く先が決まってる生娘の口からは出すに阻かれる事なんですけれど、ずっと花道の兄さんの横にいれたら・・・と。きっと私は、花道の兄さんが」

 ・・・雨は止まなかった。
 きっと私の声もおばさんには届いていないはずだ。視線の先が霞むほど、まだ降っているのだから。
 慣れない暖かな雫が頬から零れていく頃、おばさんは優しく私の頭を撫でる。

「・・・伝えとく。・・・あなたは本当に立派な女性になったって」

 震える肩はきっと寒さからだ。
 視界が不鮮明なのも、雨が拒むからだ。
 今日は雨だから、止めどなく水が溢れてくる。
 病弱だから息が整わない。おばさんの手のひらが、私の背をさすってくれる。

 言ってしまえばどうということはない。これでいい。
 最も私の近くにいながら、最も遠い存在となる、そんな彼だからこそ、伝えねばならない思いもあったということだ。

 これで、立花麗かは救われる。
 言えずに腐って死んでいくはずだった胸中を打ち明けられたのだから、間違いはない。

 花道の兄さんは嫌いだ。
 いつの間にか心に住んでいて、離れなくなった。翠雨のように心を満たすその存在が私には酷く、耐えられなかった。

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