猫と嫁入り

三石一枚

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十五話

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 透明の水風船が葉の穂先から滑落する様を光景として目に焼き付けたなら、それは雨が既に止んでしまったことを示唆する。
 湿った風は未だに吹けども、逆をいえば人の肌を刺激するものはその涼風以外にないと言うことだ。人はその水滴を見ても、きっと恐怖はしない。分厚い雨雲を目に写した時のような、あからさま怪訝な表情はしない。不安めいた眉のひそめ方はしない。
 認識で言うならば、雨が『降った』と思う程度だろう。既に、雨は上空を通った後だ、と。ずぶ濡れの土塊も冷えた空気も、全てが雨後の軌跡の表れだ。過去なのだ。進行していた前は過ぎていき、終わった今がある。降り続いたのはあくまで過去に過ぎない。
  
 過ぎ去った事を引きずる人間はいるけれど、それを遡行しようにももはやどうする事も出来ないのが世の常。過去に起きたものを、現在で改変することなどできない。
 できるとするなら精々口伝による歴史の歪曲程度だ。ただしそれはあくまで人による認識を歪ませただけで、起きた事柄そのものに干渉できるほど便利なものではない。無かったと否定は出来ても、現実に起きてしまった事を、口先だけで否定しても起きてなかったことになんてできやしないのだ。
 仮定として何かしら大きな災害があったとして、残った傷跡は残るべくして残るし、それに巻き込まれた人は乗り越えた先の人生でも心の奥底に小さな引っ掛かりを覚えながら生きていくだろう。
 今更にそんな災害はなかった、などと吐いたところで、実際に受けた傷跡は、人の心は癒えるものか。なんてもはや言うまでもないだろう。言葉の持つ魔力などたかが知れている。
  
 なるべくしてなった。あるべくしてそうなった。それ以外はどうもならなかった。その当時は。
 思い返せばきっと、その時にとった行動なんかよりずっといい方法が思い浮かんだり、そもそもその事態を回避する方法も容易に考えついたりするだろう。思考をまとめられる時間があるからこそ、そういう考えに到れるし、なぜ当時にそれが思い浮かばなかったのだろうと嘆く。嘆いたところで変わらないが、凡そ懺悔の意味合いで自らを責め立てる。
 そういう完璧主義者というか、どうにもならなかった出来事を悔やむ人ほど、その先ずっと記憶を引きずって歩く人が多い。
 失敗したいつかの記憶を、首飾りのように、足枷のように、手錠のように、肌身離さず身につけているのだ。不幸を飾って生きていくように。
 過去は容易に精算する事は適わない。だからこそ忘れ去ることが出来ずにそのままでいる人もいるのだろう。かく言う私もそれに近い。気持ちなどは痛いほどわかる。

 しかし、それでもここにある自分はもっと誇るべきではなかろうか。
 過ぎ去った事を引きずる点はあまり賞賛に値しないのだが、兎にも角にも、そこにあった現実を『過去』にできているということがこの話の肝だ。
 『過去がある』という事は、実に当たり前なことを言うのだけれど、『今を生きている』事を指す。

 何が言いたいかと言うと、その人がその出来事が起きた時に留まらず、今の今まで歩いてこれているということだ。

 前向きに進む、というのも、全体的に見れば何も良い事ばかりではない。
 今ある現状を過去にして、次の景色を迎えに行く事に他ならない。世の中は真っ白な空間をただただポツポツと歩いているだけではないのだ。
 前後左右、様々に世界が構成されており、周囲には木が立ち、草が生い茂り、水たまりが存在して道がある。雨が降れば周りがざわつき、雪が降れば凍てつく風が地を駆ける。
 それらが全て同じ配置な訳では無い。一歩踏みしめるたびに、一足先に行くたびに、眼前の景色も、周囲の環境も、踏みしめる大地の音ですらが変化していく。
 三十分も歩けば、背後に過去の景色があり、周りには今たっている場所の景色がある。歩き始めた三十分前の景色は、既に過去となってしまうわけだ。

 過去の方がまだ好みな状況だったと言う人もいれば、今が最高であると宣う人も居るだろう。感性は人それぞれに存在するのだから仕方がない。だけれど、善し悪し抜きに讃えられるべきは、この歩行を自らの意思で貫いた所だ。
 勿論、三十分前の場所には戻れない。人生は進むだけで巻き戻しが効かない針時計のようなものなのだから、逆走するなどという野暮な事は決して出来やしない。
 下流を進む水の流れが、上流へ向かうことは無いように、流れ出した方向を著しく変えることなどは決して出来やしない。
 しかしそれでも、その人が歩いてきたのは確かだ。幾ら遡行が無理であろうが、時間に流されただけで生きてきていようが、今を生きていられるなら、ただそれだけでもいい。過ぎ去った景色があり、今眼前に迎えた景色がある。そして自らの足で地に立っているという、それこそが讃えられるべきものだと思う。前に進むということは、きっとそういうものなのだ。

 仕上げとして語るならば、立花麗かが、もとい私がとった決意というものは、前へ進むということは現状を過去にして、その先の、結納を果たした後の事を見据えて生きていくという決意だ。
 良くも悪くも、私には花道の兄さんの影響を受けすぎていた。気づかないほど胸の内の深いところに、彼の姿の楔が打ち込まれていた。
 正直な話をすれば、きっと私は花道の兄さんの事を諦めきれないでいるのだろう。
 たとえどれほど痩せほそろうが、大病を患おうが、再開した時に再認識をしたけれど、やはり彼は彼だ。痛々しく横たわる姿を見ても、どこか心が落ち着いてしまう私がいる。
 言うまでもないけれど、否定しておくべきは病に倒れた彼を見ての落ち着きではない。あくまで、彼の姿をこの目で視認することが出来たがゆえの安心である。
 弱りきった彼を見据えるのは、確かに心が痛くなる。動機が激しくなったのも事実だし、視線がぐらついたのも確かだ。
 記憶の片隅で笑う彼の幼い顔が揺らぐ。どうしたって、現状の彼との示しがつかなくなり、得体の知れない感情に締め付けられるようでもあった。
 だけれどやはり彼は彼だった。情緒が狂いそうになりながらも感じる心底から湧く甘い感情は、久しくも、先に行く彼の背中を追い回していた時のあの心躍るような記憶をも引っ張り出していた。その手を握り、駆けた原っぱにでも連れてってやりたくなるくらいに。
 適わないと知りながらも、能わないと知りながらも、しかし私は、まだどこかで彼の目覚めを信じていた節があった。

 ・・・だけれども、そうも言ってられない現実もある。
 永らく、停滞していたように思える時間。彼が帰ってきて、目が覚めて、私と鉢あって初めて動き出すであろう時間というものは、ただの勘違いだった。勝手にそう私が思っていただけだった。そういうものだと、甚だしい解釈違いをしていただけだった。停滞するわけが無い。私が時間が止まってしまっていると錯覚しているだけだった。無情にも、現実では現を抜かしている私を放置して着々と進んでいるのだ。
 許嫁の決定から凡そ今日で二週間目。デートなる連れ添いも相まって、両家の雰囲気は着実に婚姻する事を前提に固まり出している。
 私が完璧に把握してなかっただけだけれど、事態はすぐにでも立花家と向こう側の公式的な縁付けに着手しようとする動きすら垣間見える。私がどう思っていようと、時は巻き戻せないし、進むしかない。いい加減そろそろ、私自身夢から覚める時が来たように思える。

 前に進むということは、またひとつ過去を作ることに相違ない。私が花道の兄さんの事を想っていた事も、水泡の如く過去となり得る。そして今、縁付けなされた相手方との営みを送る今を生きる。
 立花麗かの人物が送る人生という道は、そういう場面に差し掛かろうとしていた。
 いつまでもうつつは抜かしていられない。一人待ちぼうけで立ち止まっていても、周りがそうはさせてはくれない状況になる。そういう時期になりつつあるのだから。もう迎え入れるべきだ。そのために、おばさんに対してまでああも見栄をきった。決意と称して、私の生きるべき道を打ち明けた。

 心残りはあるけれど、振り返ることは良くはない。過去はあくまで過ぎ去っていった時間だ。今を懸命に生きる私に、精算を施せる余裕などはない。
 雨のあがった小路地。栄えた街を後にして、その歩みは一歩一歩、立花家の方へと進ませる。
 未だに緩みを見せる地盤に足を取られながら、少しずつ少しずつ、歩むしかない。
 片手には傘。片手には白粉の缶。鼻に抜けるツンとした空気を目一杯吸い込んで、少し息を止める。気を緩ませればまた雨が降りそうだ。目じりに溜まる暖かな水たまりを感じつつ、降らせないように空を仰ぐ。

 今日はやけに空が覚束無い。相も変わらず水分を見せる空に、ふとあの存在が脳裏をよぎる。
 あれだけの雨だったのだ。気になるけれど、しかし、今日は寄るのはやめておこう。少し寄る気になれない。
 私もまたひとつ、大人な思考をしてきたということだろうか。
 やる行動一つ一つ、達成出来る範囲のくせに気分次第でやらないなどと言うのは、あまりに大人に似通う思考な気がしてならない。
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