vaccana。

三石一枚

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第六話 奇人。

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 バイト先が近くにある、というのはラッキーなことだったかもしれない。
 あるいは現場が近くにあるからバイト先がそこにあるのか、どっちかはわからない。運命論というものが色濃く残る世界線であった場合、この現場とバイト先の近さにおいては因果が生じている可能性があるのかもしれないけれど、如何せん現代においては運命論というものは廃れてしかるべき考えとなっている。廃線に喫している。
 喫するといえばもう一つ、あげておきたい運命論にかこつけた奇跡がある。
 彼女が喫煙者であったという点である。いまだ紙煙草を嗜好されているちょっと珍し気なお方であるらしい。
 煙草を吸われること自体は奇跡と呼ぶには神秘性に乏しいが、あたしがここで上げた奇跡という点はもっと違うところにある。
 バイト先の当店、窓際の席に喫煙席が確保されている、という点である。昨今喫煙者に対する規制が強い中、加えて飲食店においては全席禁煙すら辞さない場所が多い中、わずかながらにも喫煙スペースが許されている、というのはなるほど神秘性を語らずにはいられないだろう。
 彼女を当店に呼べというお達しだ。居ぬはずの神があたしに囁く。
 この女性すらリピーターにしてやれと。


 「喫煙席があるってのはうれしいことだね」
 と至極嬉しそうに席に着く彼女である。あたしは彼女の体面に座った。
 「昔なんか病院内でも所かまわず煙草を吸っていた時代があったらしいんだが、今じゃああり得ない話さ。愚か、路上ですら吸うことは禁止されつつある。ごみを荒らすカラス、残飯をほしいままにする野良猫、歩きたばこの喫煙者、この三すくみは、今や肩を並べる小悪党の代表格だとワタシは感じている。ただ煙を吸うという行動を、どこで行うかってだけで四足や鳥類と同等レベルに見られるもんだとね。だからこういう喫煙者にやさしい場所を見るだけで心が潤うわけだ。愛煙家は捨てられてない、って気分になる」
 彼女はそそくさとテーブルの上に一式を並べた。ジッポ、くしゃくしゃの紙煙草、ポケット灰皿。
 「あ、」と彼女は指ほど細い筒を手にしながら
 「……いい? ……煙草」と申し訳なさそうにいう。
 「どうぞ。あたしは気にしませんよ」と手元の金属灰皿を渡した。
 困り眉に下からの申し出というのが、肩身の狭い愛煙家魂が如実に表れている気がした。
 この場合、ダメというなら彼女はどのような顔をするのだろうか。
 気にはなるけれど、あまりにも気の毒で、そんな茶目っ気は行えなかった。


 「吸血鬼はいるよ。存在する。間違いはない」
 と彼女が言うのは、あたしが入海君の事件を告白したその直後だった。
 斯々然々かくかくしかじか是々云々これこれうんぬんと洗いざらいを述べた。隠しだてなく、隠し事を明かした。隠されるべき物事を明示し、その出来事の暗さを語った。
 とはいえ、あたしはこの事件の事柄すべてに得心がいっているわけではない。得心が行くとするならば、この吸血鬼とやらの、それこそ最近までただの噂話でしか上らなかった化け物の存在を、鵜吞みにしなければならなくなる。認めざるを得なくなる。その心情を、おそらく彼女は一早くに察した。
 察したが故の、先のセリフである。
 彼女は冷えた珈琲に口付けて
 「この存在をワタシが否定しようものなら、二つ名に吸血鬼狩りなどという名乗り口上は要らない」とした。
 「……そりゃそうでしょうけど」言わんとすることはわかる。だけれどあたしは
 「信じきれません」と述べた。なんせ現実から突飛しすぎている。そもろん、吸血鬼狩りとはなんなのか、それすらあたしにはとんとわからない。
 「信じる信じないは君の都合だよ」とは彼女の言葉である。
 「そして君の都合通りにゃ世の中は動いてくれない」と二の太刀まで重ねてくる。冷淡で、だけれどどことなくあたしの心情を察している様子でもある。吸血鬼を信じないあたしが、正常であるとでも言いたげな。
「最近この町に越してきたわけだが、越した理由の一つに、吸血鬼騒動を追跡するというものがあってね、まあ百パーセント、君が垣間見たその出来事は吸血鬼によるものとみていい」
 「ワタシは運がいいね、君と出会えるなんて」と彼女は声と煙を同時に発した。
 「……ここ最近の傷害事件も、吸血鬼が関連する事件である、というんですか」
 「そうだよ」
 身を焦がした灰が金皿の底に落ちる。
 「まずもって君も受け入れるべきだ。この町はすでに吸血鬼の温床だ。人の形を真似した化け物どもがはびこっている。社会に浸透してんだよ」
 「そんな……」とあたしは食い下がる。
 「だとするなら、なんで今まで吸血鬼とやらは矢面に立たなかったんですか。この町に跋扈ばっこしているというのなら、今に至るまでそういった事件が目立っててもおかしくはないはずですよね。でもここ最近ですよ、意味深な傷害事件が増え始めたのも」
 「その謎の解明のためにワタシは越してきてんのさ。君の言う通り、この町でこの手の傷害事件が目立ち始めたのはここ最近。それこそ少量程度の件数なら大事にならなかったかもしれないが、如何せん立件数が多すぎる。何かがこの町に起きているということだけは確かさ。その調査をワタシは請け負っている」
 「……だいぶ機密的な話だと思うんですけれど、それ、あたしも聞いてよかったんですか?」背筋に滞留する悪寒を振り切るためにそう聞いた。
 なんたってあたしは一般人。彼女の語るそれら情報は素人目に、いや素人耳にしても多分聞いちゃならんことだというのはわかる。
 彼女は「くふっ」と嗤い
 「確かに伝える相手は選ぶべき話だよ。話だからこそ、君、選ばれてんだぜ」
 という。
 「脅すわけじゃあないが君も内情を知る一人だ。片足をワタシら側に突っ込んでる。君は運が悪かったんだよ。吸血鬼を認めた時から君の命運は決まってた。何ならその前からすでに、かもね」
 そんなあまりにも無慈悲なことを容易く口にする彼女に、あたしは絶句する以外にどんなリアクションを取ればよかったのだろうか。


 「さて、君の知り合いが件のバケモンに襲われていることはわかった。入海君とやらは今はまだ存命しているのは確かだろうけれど、それがいつ奪命に及ぶかは分かったもんじゃあない。早急に打つ手を講じるべきだろうね」
 「入海君を助けていただけるんですか?」
 「ここまで話を聞いて無視できるほどできた人間じゃないさ。ワタシも、真っ赤な血が流れているからね。とはいえ、まずもって君は自分の安全を確保したほうが良い」
 「あたしの?」
 「話によらば君、顔が割れているだろう。クラスメイトにのみじゃなく、吸血鬼にも」
 再恋寺さんの言葉で、吸血鬼とやらと、入海君とで視線を交わした瞬間を思い出した。深淵を観察すれば、その闇もまたこちらを覗いているとは哲学者の語った口だが、それよろしくあたしは吸血鬼を認めたその代償として、吸血鬼に認められることになった。彼女の言う通り、おそらくあたしの顔は割れている。
 「奴ら吸血鬼は、人の天敵であると同時に人を天敵だと認めている。だから、君のように自分の正体を知ってしまったものにどう手段をとってくるかはわからないよ。せっかく人の社会になじめているのに、君のような奴はいるだけで平穏を脅かす種火になりかねない。どうにかやって、潰しに来るさ」
 「あ、あたしが狙われるってことですか……?」
 「とはいえ、君の保護ももちろんさせてもらう。ワタシにとっちゃ吸血鬼狩りの片手間の仕事だ。訳はない。君のおかげで、割と早くこの事件の根幹に到達できそうだしね。ささやかなお礼ってやつだよ。君はなんも心配しなくていい。ワタシが愚図を潰せばそれで終わる。それで君も元の平穏だよ。今の予定ではね」
 「なんだか随分殺意高いっすね……」
 潰すってのがどれほどのものを指すかはわかんないけれど、その吸血鬼とやらは外見をのみ観ると人と同じというじゃないか。彼女曰く社会にもなじんでいるともしている。
 「潰すっていったって、具体的にどんな風にするんですか? さすがに殺したりなんてことはしないんでしょう?」
 「うんにゃ、殺すよ」
 彼女は喫煙の隙にニベもなく返す。……あたしはさすがに固まった。
 「殺すって……」
 「ここだけの話だが、君に最初疑いをかけていた時だって、例えば君が事件に与するものだって断定できてりゃ、あの場で潰す準備までできていた。言ったろ」
 ――ひどい目合わすと――彼女はまるで日常的な会話を喫するように、当たり前のようにそういう。
 あたしの額から、何か冷たいものがつるりと滑って鼻の表面をくすぐる。あの時の鬼気迫る勢いってそういう……。
 「で、ででででも、あたしが見た感じ吸血鬼ってのもタダの人間なんじゃ」
 「勘違いしちゃいけないよ出里ちゃん。確かに奴らは外の皮はあくまで人だが、内側はどす黒い化け物だ。血を食らい、人の命を何とも思わない冒涜者だ。そして人ではない以上、法でも裁けない無法者だ。間違っても奴らを擁護しちゃいけない」
 ……彼女は舌の先を鋭くする。なぜだかあたしが身を縮こませる具合になる。
「まずもってワタシは吸血鬼が嫌いだ。奴らがいるだけで面白くない。絶滅すべきだと思っている。たまたま人と同じ色の血を流し、たまたま人と同じ形を持ち、たまたま人同等の知能を持った二足の卑しい獣だ。人の社会に損を振りまく害獣だ。だから例外はなく一切を潰し切らねばならん」
 彼女は震える手でコーヒーを干し、氷だけが残るグラスをテーブルに添える。
 「そもそも、化け物風情が、人様になりきって悦に浸っていると考えるとイラつかないかい。自分の枠を弁えず、人の域でイキリ散らす傲岸不遜のクソ愚かども。もとは吸血鬼じゃなくモノホンの人間だった奴らが大半だが、手足の生えたオタマジャクシを蛙と呼び変えるように、そしてその蛙がもう二度とオタマジャクシには戻れないのと同じように、人を逸して吸血鬼に『墜ちた』こぼれ野郎どもは、それだけで人と呼ぶに値はしない。だのに今でも人同様の生活に甘んじていると考えると吐き気がする。であるからして」
 殺す。
 彼女は煙を上げてスタンバイしている煙草を、なまめかしい手つきで拾い上げると、ゆっくり、丁寧に、灰をすりつぶしていくように金皿に圧した。
 橙が弾け、白い血が吹く。短い断末魔が鳴る。誰にも聞かれないくらい、小さな断末魔が、じゅぅっと。
 「そんな不遜どもを鏖《みなごろ》すのが私の役目だ。そこに一介の情も挟まない」
 丁寧に、
 慈悲を断ち、
 慈愛をもって、
 種を滅す。
 二度もこの悲劇の、幕が開かぬように。
 それが吸血鬼狩りの仕事である、と。


 「……すこし、怖がらせちゃったかな?」
 んなはは、と気の抜けた笑いを上げる彼女だけれど、今更、おもてを柔和に作ろうと一度与えられた畏怖は血中をめぐる毒のように容易に抜けるものではない。
 「だ……だいぶ」
 と言葉を添えて肩を震わせるくらいしか反応のしようがなかった。
 「それだけワタシがマジだってことを知ってくれれば、幸いだよ。なにも遊びでこんなことをやっているわけじゃあないからね。ちゃんと意味がある。とにかく君は、今は自分の無事と友達の無事を祈っていりゃいい。ワタシの手の届かないところだけ手伝ってもらうけれど、何、危険な作業じゃないから安心なさい」
 彼女は煙草の寝床から新人を一本抜いて加えた。
 かすかにオイルの匂いが薫る小物を用いてそれを灼く。
 「さて、」と一息をつき、彼女は言う。
「君に任せたい仕事だが、とりあえず校内での彼の様子を監視してくれたまえ。ワタシが学校内に潜入するのはさすがにまずいからね。無理な接触もしなくていいから、ただ具合が悪そうだとか、そういうところに心を配っておいてくれや」
 「とりあえずって……。随分悠長な気がするんですけど」
 「悠長にするしかないんだよ。下手に気取られりゃ逃すことになる。しつこいようだが奴らは人を天敵とみている。とくに犯行現場を見たものがいるとなりゃどう動くかはわかったもんじゃない。けれど、経験則だが入海君にはまだ余裕が残っている。おそらく近日を以てで殺されるってことはないだろうからさ。まあただ」
 「人格が著しく変わりつつあったなら教えてほしい」と彼女は付け加えた。
 「人格が変わる?」
 「そ。この変化はワタシらでいうところの指標さ。顔色を診て病院にかかるかどうか、みたいなもんだと思ってくれていい。ただ、変わりつつあるならあるだけその人間は手遅れに近い状態かもしれん。最悪な状態でいうと、もはや学校に来なくなるだろうね」
 「来なくなることが手遅れ、てことですか」
 「おん。手遅れの状態ってのも種類があるが、どれもまずもって登校なんて不可能だ。だから来ないイコール手遅れと仮定してくれていい」
 ジジ、と煙草が火に焼かれて小さく鳴いた。
 まだ橙のフィルターに達するまでは、長い猶予がありそうだ。


 「これ、ワタシの連絡先」
 と再恋寺さんは数字の羅列をメモに認《したた》めた。
 「個人の電話番号だ。急ぎの用事かあるいは、寂しいときなんかにかけてきなよ。忙しくなけりゃ話し相手くらいになってやるさ」
 「あ、ありがとうございます」
 セリフが一々気障きざだ。顔がイイのが余計腹立つ。
 あたしがその用紙を手ずから頂戴しようとすると、彼女の手がそっとあたしの手の甲を包み込んできた。
 「出里ちゃん。君も気を付けなよ」
 彼女は言う。一層、慈愛を込めた声色で。だもんであたしは彼女の顔をおもむろに伺った。
 「いつもと違う体調不良が来たときも、相談なさい」
 ――ワタシは君の味方だ――彼女の澄んだ瞳の奥に、呆けた顔のあたしが映る。
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