vaccana。

三石一枚

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第十五話 生還者。

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 朝を知る喜びを得るためには、まず目覚まし時計の炸裂を聞かねばならない。遮光を開き、目元をこすり、睡眠と覚醒の狭間をうろつき、これに克己しなければならない。鳥のうるささや、日差しのまぶしさに、一憂しなければならない。そうしてやっと出てくる溜息こそが、朝を知る喜びである。この煩わしさこそが、明朝の幸福である。つまるところ、朝を迎えた際の幸福とは、日の出を知った落胆を指すのである。
 息とともに、起きたくない、と出る。髪を乱雑にかきむしりながら、面倒だ、とする。上体を揺らして、台風なりなんなり、槍でも降って休校しろと願う。怠慢気に蝕まれてトゲトゲしい思想を並べるのである。端末の鳴らす鐘の音には顔をゆがめ舌打ちを鳴らし、わずかにでも世界の滅亡を願う深いよどみが胸中に発生する。この様は聖人も悪人も変わらないものじゃなかろうか。


 しかしやはり心のどこか、そういったとげをつけた表層でなく、その淀んだ外殻の内側に、朝を知れた喜びというのは必ずあるものである。
 今朝もきっと生き残れた、とする、安堵がある。うすうすその幸せには気づいてはいるが、如何せん、平和になれすぎてしまっている。翌日を奪われるかもしれんという、不安や憂慮がない。無いから朝を迎えるという至高の幸福を十分に感じいられず、その結果、ずるずると日々を重ねてやがてはこの当たり前に甘んずる。甘んずれば、感謝は薄れる。薄れた結果が先般述べた悪態につながるのである。


 この述懐に寄らば悪態をつくというのは徳の至らん結果のように思われるだろうけれど、しかしあたしはこの述懐をしたうえで、朝に悪態をつく、というのは、至極健全な証である、とも訳したい。なぜならば口をついて出る悪態を鑑みた場合、平穏の内を生き、生命存続を脅かされない日々に在る、その証左でもある。
 例えば戦場の内で目覚めたものと考えなさい。いたるところから火が上がり、硝煙が柱を作り、鉛玉や鉄片が様々な方角から飛来する所であったなら、もはや朝如きに悪態をつく暇はない。先般語ったことに準ずれば、その場合悪態よりまず先に感謝が出てしかるべきである。神仏のご尊顔を思い描き、生き延ばして呉れたことに感涙を浮かべるべきである。当然だが我らが日本国においては、現在紛争も戦争も起こってないから(今のところは、と付け加えておく)これらの心配がない。落命の可能性が限りなく薄い、というのは、ひいては朝を迎える、という至極身近で且つ最大の至福を十全に味わえないのである。
 これに倣うと朝に悪態が出る、というのは、日々生存をする中で、不満足がないということになる。不満足な事柄がないということは、つまるところつつくべき対象がない、ないから退屈紛らわせに些末なものをつつく。目下、朝が気に入らない、それだから朝に悪態をつく。専らこの流れをくむ、そう、想像できるわけである。この流れに不健全はない。かえって健康なのである。少なくとも、文化的な生活圏内で寝起を楽しむ余裕が、きちんととれている最もな証拠になるだろう。
 そんな平和な世界でも、心が妙にささくれ立つ、あたしを含めた現代の若者たちというのも些か不遜なものだけれども。


 本題。
 さて、今朝方あたしの方もやっとこさ、文化的な生活圏内という世間に戻れたところである。三日ぶりに我が家の寝室で起床した。意識を取り戻しざまに一丁欠伸をする。
 起き抜けに「だっる」とこぼしながら、上体を起こし、二度か三度、波間に揺れるイソギンチャクのように、ゆうらゆらと、その場で揺蕩いだ。そうして、はぅ、と胸部が膨らむくらい息を大きく吸い込むなり、背筋を伸ばした。背骨の空気が抜けて、ボキボキと不穏な音が鳴る。鼻で呼吸をすると、嗅ぎなれた自分の体臭と、部屋の芳香が肺に満つる。額に汗が浮く。引っ付く髪の毛がうっとおしい。暑苦しい朝が来た。希望と呼ぶには些か希みの足らぬ朝が。
 あたしは肩の力を抜いて、今一つ大きなため息を吐いた。軒先につり下がった風鈴が、カーテンの向こう側でしきりに鳴いている。鳥がリズムを整えて、リードボーカルは蝉が担当をしている。大自然の路上ライブか。行く末の解散理由はなにも音楽性の違いだけではあるまい。


 汗でべたついた皮膚が着衣に引っ掛かり大変不快である。二の腕の表皮を鼻に近づけて数度嗅ぐ。変なにおいはしちゃいないが、鼻頭に触れた感触はあまり良いものじゃあない。昨日は、自分の部屋にたどり着くなり真っ逆さまに倒れ伏したために、風呂を喫する暇もなかった。
 ケータイも充電にありつけずに横たわっている。確かに、朦朧とした意識の中でケータイだけはと充電器を差した覚えがあるのだが、これは妙である。さらにはくだんの充電器はなぜだか小説のケツにぶっ刺さっていた。差し込む口を違えたか。一夜限りの過ちを犯したらしい。
 空腹のケータイは点灯するなり充電の催促通知を鳴らした。飯を切らされた犬のようにせがみ、だが次の瞬間には忠実に、届いた通知を表示する。健気な子である。
 通知が数十件と、毎日設定にしていた目覚ましが、幾度目かのスヌーズを発していた。ダレた手つきでシステム通知をスワイプした後、もっとも直近のメッセージを開いた。フロム、良丹らにとある。
 『今日もガッコやすむんか???』
 一日毎に、彼女からのメッセージが届いていた。電子メールの封を切って開くと、定型文じゃない、その日ごとに考えたのであろう多少拙い文章と励ましの文句が文面に飾られていた。
 矢張りあいつはいいやつだ。
 「学校……か」
 端末を乱暴に投げ捨てて目をつむった。耳の粘膜に夏の虫の鳴き声がねっとりと染みつく。一つ大きく息を吸い込むと、肺の底に熱気をまとった空気が滞留する。
 その空気を吐き出せば少し、気分も落ち着いた。胸のふくらみが減るごとに、心拍数が定まっていく。頬を滑る汗一つの感触を吟味し、どうすべきか逡巡考えて、以下のような答えを出す。
 「……行くか」
 時間は七時を回って少し経つ頃合い。時間的には少しヤバめではある。
 それだが、間に合わないというわけでもない。
 『行く』
 そう返信して立ち上がると、ちょうどぐわりと大きな風が吹いて締め切ったカーテンの裾を大きくもち上げていった。


 「おはよ。大葉さん」
 リビングによると、大葉さんはちょうど朝飯を作っている最中だった。
 野菜をさばく手を止めて振り返り
 「おはよ、若菜」
 と返す。
 「おなか減ってない? すぐご飯できるよ」
 と彼女は言うなり、視線をあたしの顔から足下へと滑らせた。
 「学校いくの?」
 と眉を曲げて聞いてくる。あたしはその時、制服を小脇に抱えていた。
 「まあね」
 あたしはなんだかイタズラのバレた子供のような気持ちが滲んできて、ついと彼女から視線を逸らした。
 「今日くらい休んじゃえよ。昨日の今日じゃん。帰ってきたの」
 と大葉さんはすこし困惑気な声でいう。
 保護者の「休んじゃえ」、という言葉は金言だ。それのみで学校を公然と休むことのできる魔法の言葉である。本来のあたしなら、この言葉を恭しく頂戴し、その甘言を笠に着て怠惰を過ごそうと穴倉に帰る所ではあるのだけれど、
 「行きたい」 
 と答えた。
 そうして、大葉さんが見てるのも構わず着替えを始める。自身の匂いがこもった寝間着を脱ぎ捨てて、柔軟剤の香りのする純白のブラウスにそでを通す。パリッと乾いた制服で身を包むと、なんだか懐かしい香りが鼻の奥の膜に届いてくる気がする。
 「体はもう大丈夫? 私は休んだ方がいいと思うけれど」
 「今んとこは支障はないかな。なんか胃の中が空っぽなはずなんだけど、妙な満腹感があるってくらい」
 「胃が萎んじゃってるんだろ。朝飯は要らない? 粥飯とかもできるけど」
 「んー。ごめんけど、たぶん入んないや」
 漂う朝餉の香りを嗅いでも、腹の虫一つ鳴かないのだ。あたしの身体はそのあたり正直なもので、飲食物の香りを嗅げば、胃に空きがあるぞと言わんばかりにぐぅと鳴く。わかりやすいことに、それが鳴かないときは決まって胃が空いていないときである。
 「……そ。ならいいけどさ」
 大葉さんは愈々、料理の手をすっかりと止めた。茶色の染料で染め上げた前髪を揺らして、その細い毛先の束の隙間からじっとこちらを覗いている。
 「……なによ」
 その視線がどうにも恨めしそうなものだったから、あたしも前髪を垂らして同じように線の薄い壁を張り、それ越しに彼女に問うたら
 「べっつに?」
 と素気ない返答をされた。
 「なんか、久々だな、この感じって思っただけ」
 そうして大葉さんは、はにかむように笑うのだった。


 着替える途中に、リビングの窓を一瞬見遣った。透明な壁の向こうには蒸し蒸しとした環境がある。夏入り直前の空は雲一つとない。さえぎるものの一切ない青い天井からは億万の光の矢が地上に降り注いでいる。
 「晴れちゃあいるけれど、夕方からは大雨が降るっぽいよ」
 とは大葉さんの言葉である。
 「うそでしょ。この天気で。雲一つないじゃん」
 「南西の方角からでっかい雲が散歩しに来るんだそうな」
 はた迷惑な散歩である。
 「もう日焼け止めは塗った?」と聞かれたからスカートの裾を調えながら
 「まだ」と答える。
 あたしにとって日差しというものはハブに対するマングース、ゴキブリにおけるアシダカグモである。相容れぬ上に一方的な苦手が付く。予防せず炎天下を歩けば、尋常じゃない速さで皮膚が焼けるわ、ひどいときは火傷を負う憂き目を見る。そのほか雪の積もった冬の晴なども照り返しの影響で地獄を見るのだが、まあそれはおいといて。
 薬品の封を開けて愈々皮膚に塗布する時分、徐に大葉さんは掌をこちらに差し向けてきて
 「貸してみ、日焼け止め」
 と言うのである。寸分手の止まったあたしに
 「塗っちゃる」
 と続ける。
 「……時間ないんだけども」
 と時間を理由にやんわりと断った。
 仮令たとい時間に余裕があったとしてもくすぐったがりのあたしが他人の手にゆだねるなど許しはしないのだが。
 しかしなぜだか大葉さんは拒否に応じず
 「いいから貸しな。学校送ってやるから。まだ時間は問題ないだろ」
 と頑とする。料簡がわからない。が、そうまで縋ってこられると、断る理由を発するに窮する。
 口をとがらせながら薬品を手渡すと、大葉さんは満足そうな顔をして
 「さて、どっから塗る?」
 とさわやかに笑った。
 「……何でそんなにしたり顔なのさ」
 大葉さんが幼げな表情をするときは、極まってよからぬことを考えている合図である。自然、あたしの眉間にゃシワが寄った。
 「いいから身体を貸せ」
 と言いながら、大葉さんは傍らのチェアに座った。そうして、大葉さんのすぐ対面に空席が設けられる。
 観念して彼女の対面に腰を下ろした。
 「……お願い」
 心の内は、拷問を受ける義兵の心そのものである。
 あたしはこれから受けるであろう表皮の刺激に耐えるべく、口の中で最も効率の良いかみ合わせの場所をひそかに探した。


 思えば、大葉さんにこのように薬品を塗布される、というのは、今日のみのことじゃない。彼女の、胸元ほどまでしか背丈がなかった時分、良く塗ってくれていたものだ。
 足周り、腕と、塗っていくこの作業が妙に慣れた手つきなのは、往年の義務のためかもしれない。
 くすぐったがりの性分はどうにも、改善のしようはないのだろうけれども、こうして触れられることに関してはまあまあ、悪い気はしないと思った。人の体温は妙に落ち着く。心地の悪さ良さの委細はある。あるけれども、触れられる、というこの感触そのものは嫌いじゃない。
 「次は首。髪をどかしな」
 と告げられ、あたし愈々来るかと、奥歯をかみ合わせた。
 首にまとわりつく髪の一切をヘアゴムで縛り上げ、後頭部で一束にした。どこかの少女のように、対ではない。一つの尻尾が出来上がる。
 大葉さんと視線が同じ高さで向き合った。あたしは心中で般若心経の出だしをそらんじ(出だし以外とんと理解らん)、身体に訪れた様々な感覚から遠のこうと必死である。かさぶたが皮膚を引っ張る感触、薬液にまみれた手指が肌を滑る感覚、もうたくさんだ。肺からにじみ出る空気が声帯を震わせて大気に押し出される。
 指先はそわつくし、眉だって勝手に顰まる。表情のみ、菩薩様のように無表情を貫き、なんともない体裁を何とか整えた。
 「……くすぐったいだろ」薄目で彼女を確認すると、壁に落書きを決め込んだ近所のガキのような顔をしている。
 「……いやっ。全ッッ然? 普ッ通だっけど?」
 「鏡見る? 自分がどんな顔してるか見てみ?」
 「いらないいらないいらない。 さっさとこれをおわらせて」
 どうしてこうも親をする奴は子をくすぐるのが好きなんだ。
 あたしは子を産んだとしてもこんな目にはあわせんぞ絶対。


 「子供のころさ。それこそ、あんたを引き取った頃とか、こうして日焼け止め塗ってやってたよなあ」
 「……あったね、よく」
 大葉さんもあたしと同じようなことを想起していたようだった。その当時のたしは今ほど我儘でもなく、より従順で、まじめで一途な人間だったろう。
 ではいつ、日課だったはずの、この薬品を塗ってもらう作業をやめたんだったか。
 中学上がってすぐくらい、それまでは自由な服装で登校が許されたはずだったけれども、女子群が黒色のセーラー服に服装を統一せられ、その黒い波の内にあたしも入らざるを得なくなったその時節、確かその時期に、あたしは人に触られるという行為に妙なこっぱずかしさを覚え、それまで大葉さんに恃んでいたこの儀式を自らの手で行うようになった、そんな覚えがある。そのころからあたしは我儘で不真面目で聞かん坊で、従順で一途だった性格をかなぐり捨てて徐々に大葉さんにも口答えをするようになった、そのはずだ。
 「くすぐったがりは変わんないなあ。今も無理?」
 「……」無言であるのは返答に困ったのと、痛痒を受け入れんように意識を背けているためである。むっつりと口を閉じて我在らずと押し黙った。
 「ねぇったら」
 途端、うなじのあたりに数匹のナメクジがうぞろうぞろとのたくる様な感覚の波が寄ってきて、せき止めていた咽喉がこじ開けられ反射的に
 「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理」と雪崩のように声が出た。
 「あっははは! まじ変わんないじゃん!」
 「人の身体で遊ぶんじゃねーよ! ホンットいい性格してんな!」
 いい性格と言ったけれども、勿論褒めちゃあいない。
 逆に色声でもだして気まずくさせてやるのが対処として正解だったか。


 大葉さんはひとしきり笑ったのち、直ちに冷静になり、「はぁ」と一つ身近な溜息を吐いた。
 そうして、あたしの首筋の、かさぶた、二点の穴ぼこの開いた範囲を優しくくすぐる。
 「……あんたも、大きくなったなあ」
 と、大葉さんは、栓の開いた瓶から、少しずつ炭酸が抜けていくみたいな感じでぽそりとつぶやいた。
 「……急にどしたん?」
 「いや、さ。こうして久々に塗ってやったけど、あのころとは塗る面積が増えたっていうか。子供んときとかあんたすごい細かったし」
 「……そいつはあたしが太ったって言いたいのかね」
 「そうじゃなくてさあ。ちゃんと肉付きが女の子になったねって話」
 「言い方がキショすぎるでしょ」
 「成長するんだなあ。やっぱ」
 「成長するでしょう。生きてるんだし」
 「こうやって親離れってのが来るんだろうね」
 「……まじでどしたん? 大葉さん?」
 「あんだけ小さかったあんたが、いっぱしに大人になってってるんだなって、実感しちゃってさ。いつかはあんたも、好きな人ができて、その人と一緒に暮らしたいっつってこの家から出ていく日がきっとくる。……しかもそれって、今からそう遠くはない未来なんだ。きっと。なんだか、不思議な感じがして」
 「感傷に浸り過ぎだって。つかあたしにそんな人いないし」
 「いなくたってできるんだよ。いつかは」
 「……まあ、いつかはさもあろうさ」
 いつになく湿っぽい話をする。その様子が、どうにも面白くて、少しばかり意地悪をしてやりたくなった。
 「何々? もしかしてあたしが出ていくことを想像したら寂しくなっちゃった?」
 と、これみよがしに雪辱の仕返しをしたろうと意地悪気に聞くと
 「……まあ、さみしかったよ」
 と、これまた素直な返答が来る。
 さみしかった、という過去形の言葉が、あたしの耳膜に空回った。
 「あんたがいなかった、この三日間」
 ぽそりと出たその言葉に、彼女の感情の揺れが察され、同時にふつふつと罪悪感がとめどなくあふれてきて、あたしは口を閉じた。


 「恥ずかしい話だが、孤独ってのに挫折しそうになった」
 「この家にあんたがいない孤独ってやつかな。私もあんたと一緒になる前は長い事独り暮らししてたけど、なんか、そんなのと比べ物にならない思いがしたな」
 「この孤独ってのは、普通の孤独じゃあないんだ。そりゃああんたが独り立ちしたらそれなりに寂しくなるんだろうけど、幸せになるために家を出るだとか、一緒になりたい男がいるって言って出てくんなら、おめでたいことだから私も応援はするし、そんな寂しさなんてのはあまり気にはなりゃしない。けれどもさ」
 「毛色が違うんだよ。今回のは。あんたがダメな意味でいなくなるんじゃないかって私はこの三日間、気が気じゃなかった」
 「あの孤独は、異常だ。一人で生活していたさみしさとは、到底比べ物にならない、深海のような怖さを感じた。一人で家にいる寂寞。夜中にあんたの部屋から物音の一つもしない清閑。あんたに『行ってらっしゃい』も『おかえり』も、『ただいま』も言われない空虚。ご飯も独りで食べてた。……茶碗一つ多めに出しちゃったりして、さ。何もかもが静かになるんだ。視界の端でちまちま動く人影が見なくなった、それだけで。こんな闇が、もしかしたらずっと続くことになっちゃうんじゃないかって、怖くって怖くって」
 「……空白ができるんだ。私の中に」
 「まっさらな心に二度とふさがることのない虫食いができる。何をしてもその空白分の幸せが埋まらない。あんたがもしこのまま、私のもとに帰ってきてくれなかったなら、空白は二度と、閉じないままだった」


 大葉さんは、ただうつむき、塗りかけの首筋を、絶えずすりすりとさせながら、ぼやくように、そう、吐露し続けた。
 叱られている。あたしはそう、受け取った。叱られて、然るべきことをした、勿論その自覚はあった。しかしそうやってつらつらと、心境を語られるとあたしも、彼女のまるでとがってない叱責の言葉の節々に、親不孝なことをしたあたしにはもったいないくらいの情が感じられて、年特有の反抗的な気持ちも、それに類する激高もまるで沸かず、ただただ、彼女の深い思いを黙って受ける他、仕様がなかった。


 それから、首筋に這っていた両の腕がするりと滑落するや、あたしの背面、背筋のあたりでキビッと組まれ、引き寄せられた。
 あたしは、大葉さんの力に飲まれ、抵抗もせずそのまま身体を預けた。
 「私はマジで心配だったんだぞ。あんたの元気な姿を、もう見れなくなるんじゃないかって、不安で不安で」
 「……」
 「頼むから、私の見えないところで身体を無為にしないで。自分の身体はもっと大事にしてあげて。私の生きる意味を、奪わないで」
 「……大葉さん」
 「……戻ってきてよかった」
 あたしは、彼女の丸まった背中を抱き返し、その背をさする。
 「……ほんとごめん。大葉さん」
 それ以外、あたしが大葉さんに掛けるべき感謝の言葉は、きっとない。
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