先輩の溺愛にはウラがある

七瀬菜々

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13:記憶の照合(3)

 先輩が最初に耳にしたのは、『エチカ・ロアンは貴族の仲間入りをしたくてエリック・ド・モンフォールに近づいた』という根も葉もない噂だった。
 くだらない噂だ。当時の先輩も、その噂のことはまったく信じていなかったらしい。
 なぜなら私の好意は疑いようがなかったし、そもそも私たちの結婚に反対する者の方が多かった。だからこそ先輩は、誰かが嫌がらせで流したのだろうと考えた。どうせすぐに収まる噂だと思っていた先輩は、社交界に顔の広いコレット様に否定を頼んだだけで、特に対処しなかったという。

 状況が変わったのは、それからしばらくたった頃。

 先輩は、シルヴァン様と私が楽しそうに話している場面を偶然目にしたらしい。 
 人に壁を作りがちな兄が、私にはすぐに心を開いた――その事実が、先輩の胸に小さな棘を刺した。その棘は時間とともに膨らみ、噂を信じていなかったはずの先輩の心を、じわじわと揺らし始めた。
 また、ちょうど同じ頃、私の態度がそっけなくなったらしい。おそらく、先輩のコレット様が初恋だという話を聞いた時期のことだろう。日記には、先輩の目を見ることができなくなったと書いていたから。
 
 先輩はそんな私の変化を、噂の裏付けだと受け取ってしまった。

 私が先輩にコレット様との関係を尋ねたのもこの頃だ。
 先輩は、私がコレット様を疑う姿を見て、思ったという。
 ――自分が浮気しているから、俺の浮気を疑うのだ、と。

 そこから先は、日記に書かれていた通りだ。
 顔を合わせれば口論ばかりで、互いに疑い、互いに傷つけ合い、誤解は誤解を呼び、修復の糸口すら見えなくなっていった。
 
「俺には笑わないくせに、兄さんには笑うエチカが許せなかった。そんな折、コレットとのお茶会に行ったはずのエチカが、行きのドレスとは違うドレスで帰ってきたんだ。聞けば、兄さんにもらったと。いつの間にドレスを贈られる仲にまでなっていたんだと思った。それを聞いた俺は一瞬で頭に血が上って、口汚くエチカを罵った。そうしたら、エチカは『そんなに私が気に入らないのなら離婚すればいい』って言うから……だから……」

 先輩はそこで言葉を飲み込んだ。
 沈黙が落ち、部屋の温度がひとつ下がったように感じる。

 ーーーエリック様は私に罰を与えるように、怒りにまかせて私を抱いた

 日記に書かれていた最後の一文が、私の脳裏をよぎった。

「…………俺に組み敷かれた君が、無表情で涙を流す姿を見て、ようやく俺は正気に戻った。でも遅かった。君は深く傷つき、あの夜から一切、誰に対しても笑わなくなった」

 愛想笑いさえ消え、唯一心を許していたルネにすら笑わなくなった──
 そう語る先輩の声は、かすかに震えていた。
 後悔と罪悪感と、どうしようもない愛情が入り混じった、痛々しい震えだった。

「……ごめん、エチカ。謝って済む問題でないのはわかっている。でも……ごめん」

 真剣に謝罪する先輩。
 けれど、私の頭の中は別の方向へ動き始めていた。先輩の言葉の端々に、どうしても違和感がどうしても拭えないのだ。

「……おかしい」

 私は目を閉じ、眉間を押さえながら思考を整理する。
 先輩はそんな私に困惑した様子で尋ねた。

「……な、何がだ?」
「まず、訂正しておきたいのですが、ドレスは借りたもので贈り物ではないです。お茶会でドレスが汚れたので借りたと、日記には書いてありました」
「そう、なのか?」
「先輩、本当に私が贈られたと言ったのですか?」
「……そう言われると、自信はない」

 私は静かに目を開け、先輩を見つめた。
 先輩は、何かを思い出そうとしているのに掴めないような表情をしていた。
 眉間に皺を寄せ、かすかに唇を噛みしめている。
 
「そもそも、先輩は噂の真偽を確かめましたか?噂の出所を確かめたりはしましたか?」
「し、していない」
「それはどうしてですか?」
「ただの噂だと信じていなかった……から?」
「そう。先輩はただの噂だと軽くあしらっていたはずです。それなのになぜ信じるに至ったのか」

 そこまで言って、私は一度言葉を切った。
 私たちに会話が足りていなかったのは事実だ。
 誤解の生まれやすい状況だったのも事実。
 おかしなところは何もない。

 普通ならば。

「私の知る先輩は慎重で、曖昧な噂に振り回されるような人ではなかったはずです。疑わしいことがあれば徹底的に調べ、事実を突き止める人でした。そんな先輩が、決定的な場面を見たわけでもないのに噂と曖昧な記憶だけで私を疑い、責め、壊してしまった……」

 これは、ただのすれ違いや感情の行き違いでは説明がつかない。
 まるで、先輩の思考がどこかで歪められていたかのようだ。
 私はゆっくりと息を吸い、先輩を見つめた。

「私、この状況、どうにも既視感があるんです。記憶が戻ったとかそういうことじゃない。ただ、昔こういう思い込みを加速させるような、視野を狭くするような……そんな事例を、どこかで……」

 そこまで言って、私の頭には記憶の奥底に沈んでいた光景が、ふっと浮かび上がった。
 そう、あれは確か、ハイネ先生の授業だ。
 精神干渉魔法についての講義で治癒魔法師のライセンスがない者は使ってはいけない、と厳しく言われた時。
 その時、教科書の片隅に書いてあった

 ――過去にあった、精神干渉魔法を使った悪質な事件例

「それだぁ!!」

 私は机を叩き、勢いよく立ち上がった。
 先輩がびくりと肩を跳ねさせる。

「先輩!精神干渉魔法をかけられていたのではありませんか!?」
「お、俺が?」
「そうです!だっておかしいじゃないですか!真偽も不確かな噂話を信じて、冷静な判断ができなくなって、それで取り乱すなんて!そんなの先輩らしくないです!」
「いやいや、俺がそんなこと……。大体誰にかけられたと言うんだ」

 精神干渉魔法は関係性が構築できていない相手にはかけられない。相手が自分に心を開いていないと、その隙間に入っていけないからだ。

「俺自身は治癒魔法師のライセンスも持っているから、精神干渉魔法も使えるが、俺と近しい人間の中にそのライセンスを持っている人はいない」
「先輩、それは違いますよ。ライセンスがないと使えないのではありません。ライセンスがないと使のです」

 それはつまり、使用自体は誰にでも可能と言うこと。

「高度な魔力制御が必要とはなりますが、術式さえ知っていれば、魔法師なら誰でも使えます。ライセンス保持者でない者が使うと、重い罪に問われるというだけで」
「……確かに」

 先輩は小さく頷いた。
 私は朝食のトレイを近くのチェストへ移し、代わりに紙とペンを机の上に広げた。
 状況を整理するために、視覚化した方がいい。
 
「先輩、このモンフォール公爵家で魔法が使える人間はいますか?」
「父と祖母、大叔父、あとは再従兄弟と……コレットだ。だが、俺が心を開いているという点で言えば候補は大叔父と再従兄弟は除外していい。祖母も今は魔法を使えるだけの体力はないから省いても良いだろう」
「ということは、容疑者は二人か……」
「容疑者って……」
「動機は、やはり私たちを別れさせることでしょうか」
「まあ、そうだろうな。俺は周りの反対を押し切って強引に結婚したから……」

 先輩は苦く笑い、ぽつりと後悔を漏らした。
 本当なら、もっと時間をかけて周囲を説得し、私が孤立しないように配慮すべきだった。そんな思いが滲んでいた。
 だが、今の私にはそんなこと、割とどうでもいい。
 重要なのは、誰が精神干渉魔法を使ったか、だ。

「そう考えると、怪しいのはコレット様ですよね……」
「状況的に、怪しいのは父上か」

 同時に言葉が重なった。
 私たちは顔を見合わせ、わずかに目を瞬かせた。
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