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第二章 マリーナフカの棺とハルの妖精
20:手を取る(1)
しおりを挟む視察から4日後の早朝。まだ陽も昇り切っていない時間。久しぶりに部屋を出たアイシャは両手を広げて大きく息を吸い込んだ。
そして心配そうに見つめる使用人たちに、笑顔で挨拶をする。
もう大丈夫だと、心配をかけたと笑顔で謝る彼女を見て、すれ違う使用人たちも安堵の笑みを浮かべた。
*
朝と昼のちょうど間くらいの時間。仮眠をとっていたイアンは休憩を終えて部屋の外に出たのだが、そこでいるはずのない人物に遭遇した。
「アイシャ……?」
自分はまだ寝ぼけているのだろうか。それとも会いたくて幻覚を見たのだろうか。
「本物?」
「おはようございます、男爵様。本物のアイシャです」
「……えーっと、ここがどこだかわかってる?」
「わかってます。砦です」
アイシャはイアンの目を真っ直ぐに見据えて答えた。
そう、ここは砦だ。今まさに戦争が起きている場所。
それなのに何故アイシャはこんなところにいるのか、イアンには理解できない。
「わかってるならどうして……。テオ、どういうことだ?」
イアンはアイシャの後ろで苦笑いを浮かべるテオを睨んだ。だが睨まれてもどうしようもない。
何故ならテオドールもどうして自分がここにいるのか、説明できないからだ。
「テオは私が連れてきました」
「そうです。朝っぱらから奥様に叩き起こされて連れて来られました。正直に申し上げますと、大変いい迷惑です」
「うるさいですよ、テオ」
「アイシャ、急にどうしたんだ?無理しなくても……」
「お話があって参りました。少しいいですか?お時間は取らせません」
「あ、ああ……」
困惑するイアンはどうしたものかと悩んでいると、行き交う兵士がジロジロとこちらを見ていることに気づいた。ヒソヒソと話す声も聞こえる。
アレが例の奥様?
貴族がこんなところに何をしにきたのか。
どうせ何の役にも立たない。
邪魔なだけだ。
そんな嘲りの声。しかしこれは仕方のないこと。何故なら、ここには炊事、洗濯、掃除の全てを他人にお世話されてきた貴族の女ができる仕事などないからだ。
イアンは彼らから隠すようにアイシャを部屋に招き入れる。
しかし、アイシャは部屋に入る前、すうっと深呼吸すると行き交う兵たちに笑いかけた。完璧な貴婦人としての微笑み方で。
「ルーデウス。靴の紐が解けていますよ」
「……えっ!?」
ルーデウスと呼ばれた男は驚きのあまり声が裏返る。
当たり前だ。アイシャと会ったのは今が初めてで、言葉を交わしたことなど一度もないのだから。
「マーシャルも、服のボタンが取れかけています。縫いましょうか?」
「め、滅相もございません!自分でします!」
アイシャは彼の隣の男にも声をかけた。マーシャルと呼ばれた男は思わず身震いした。
周りの兵士たちも皆、同様に驚きが隠せていない。廊下がざわつき始めた。
何故この人はただの平民の名前を知っているのだろう。自分たちの名前は彼女の人生において、取るに足らないものであるはずなのに。
そんな感情からくる困惑と、名前を知っていてもらえたことに対する喜び。それから理解できないものに対する警戒。彼らの表情からはさまざまなことが読み取れる。
けれどアイシャはあえて、そんな彼らの心情を一つ一つ汲み取ることはせず、ただ穏やかに微笑みかけた。
「お勤めご苦労様です。お騒がせしてごめんなさいね。男爵様に急ぎの用事があり、参りましたの。すぐに退散いたしますのでお気になさらず」
正式な挨拶はまた、皆がいる時に。
そう言って凛と背筋を伸ばし、少し顎を引いて皆を見据えるアイシャ。その堂々とした態度は、決して傲慢ではないが、けれど無駄に謙ってもいない。
それは社交界で見せるような貴婦人としての振る舞いとも、屋敷で見せるいつもの可愛らしいアイシャとも違う。
領主夫人としてのアイシャだ。
領民を前に、父のように無駄に権力を振りかざして横柄な態度を取る必要はない。
かと言って、ベアトリーチェのように無駄に親しみやすい雰囲気を出してすり寄る必要もない。
相手を尊重しつつも、あくまで領主としてきちんと線を引く。
(これで良いのかしら、叔母さま)
叔母に教えられた振る舞い方だ。
アイシャが領民に認めてくださいと懇願する必要はない。だが、それと同時に民がアイシャを領主と認めざるを得ない状況は作らねばならない。
子爵夫人はここに来る前、アイシャにそう教えた。
「アイシャ……?」
イアンはそんないつもとは違うアイシャの姿にただただ困惑した。
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