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第三章 アッシュフォード男爵夫人
35:来世に期待(2)
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満月の夜、教会の馬車がヴィルヘルムの屋敷にやってきた。
エレノア子爵夫人は騎士と共に、魔女とその関係者を馬車に押し込んだ。
聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせてくる異端たちにも、夫人は微笑みを絶やすことなく毅然とした態度で接し、彼らを審問官に引き渡した。
「奥様、大丈夫ですか?」
「ありがとう。大丈夫よ。そう心配しないで」
彼らの言葉に心優しい夫人が傷ついていないかと心配する侍女たち。
しかし夫人は、彼女たちにも笑顔で返す。
だって、
「あなたは羽虫の声に耳を傾けたことがあるの?」
ただ単に耳障りなだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
彼らの言葉はあくまでもそういった類の雑音でしかない。
夫人はそう言って、やっぱり笑った。
***
なぜ、こうなってしまったのだろう。
どうして、まるで犯罪者のように枷をつけられ、安っぽい馬車に押し込まれなければならないのだろう。
ブランチェット伯爵には今の状況が何ひとつ理解できない。
だから、険しい山道を走る馬車の中、彼は必死に考えた。
どうすればこの状況を切り抜けられるかということだけを、必死に。
眼前の妻はもう、娘が異端審問にかけられるという事実が受け入れられずに壊れ気味で使い物にはならない。
ベアトリーチェは魔女として縄でしばられ、今は荷馬車に乗せられている。
金を積めば教会は見逃してくれるだろうか。
けれど、先ほど異端審問官は教皇が第一皇子派から抜けたと言っていた。
ダニエルの策略に乗った結果、こうなっているということを考えれば今は金を積んでも難しいかもしれない。
「やはりベアトリーチェに魅了されていた被害者として振る舞うべきか……」
もしここで、娘を庇えば自分も同じ異端として扱われる。
ベアトリーチェには悪いが、それが一番現実的だろう。
父から受け継いだ莫大な財産も、今の地位も何もかも、全て手放したくはないから。
「これは仕方のないことだ」
ブランチェット伯爵がそんな最低すぎる結論を導き出した時だった。急に馬車が大きく揺れた。
夫人が恐怖のあまり、単語になっていない言葉を叫ぶ。
伯爵は大きな石でも踏んだのかと、ギュッと目を閉じた。
すると、何故だろう。急に水の音が聞こえた。
水辺を通っていなかったはずなのに、おかしい。
不思議に思った彼が恐る恐る目を開けると、そこには大きな滝壺があった。
「ひっ………!」
あまりの壮大さに、その恐ろしさに、伯爵は尻餅をついたまま後退りする。
鬱蒼としげる森の中、カラスの鳴き声や風が草花を揺らす音さえも全てが不気味に聞こえた。
「こ、ここはどこだ!?」
「輪廻の滝ですよ」
誰に問いかけたわけではないのに、答えが返ってきた。
どこかで聞いたことのある声だ。伯爵はゆっくりと、声のする方を見た。
そこには外套のフードを目深に被った女と、赤目の男がいた。
「ごきげんよう、ブランチェット伯爵様」
「き、貴様はっ!」
アッシュフォード男爵家の執事だ。
男爵家に滞在中、ずっと胡散臭い笑みを浮かべて、こちらの要望を一切飲まなかったあの男だ。
伯爵は彼につかみかかろうと立ち上がった。
しかし手を拘束されているため、バランスが取れず横に倒れてしまう。
赤目の執事はそんな彼を鼻で笑った。
「とても良い光景です。気分がいい」
「貴様、何がしたいのだ!」
「少しばかり、あなたにお聞きしたいことがあったのですよ」
「……何?」
「十数年前、あなたはヴィルヘルムの街で人を轢きましたね?」
執事はにっこりと、相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべて、伯爵の前にしゃがみ込む。
伯爵は何のことだかわからない、と返した。
「そうですか。覚えておいでではないのですか。残念です」
では、思い出させてあげなくては。
執事はそういうと、フードの女から鞭を受け取った。
そして彼の腕を鞭で打った。
汚い叫び声が、夜の樹海に響く。
「き、貴様!何を……」
「もう一度聞きます。人を轢き殺した覚えはありませんか?」
「し、知らん!」
「そうですか。ではもう一度」
「ぐぁ!?」
そうやって、執事は同じ問答を何度も繰り返した。
そして鞭を打って九回目。
伯爵はついに認めた。その昔、ヴィルヘルムの街で人を轢いたことを。
「ああ、そうだ。確かに轢いた。けど、だから何だっていうんだよ!たかが平民一人を轢いたくらいで!」
「……」
「なんだ?お前はその平民の関係者か?もしかして復讐のつもりか?今更そんな理由で、私にこんな仕打ちをして許されると思っているのか!?」
まるで反省が見えない。性根が腐り切っている。
これはもう無理だ。期待できない。
執事はその禍々しい真紅の瞳を細め、もう一度鞭を打った。
「……く、くそう」
「10回です」
「は?」
「あなたは今、10回鞭を打たれましたが、どうですか?自分が馬鹿だということを理解できましたか?」
「は?何の話だよ」
「そうですか。ならば仕方がありませんね」
執事はそう言うと、伯爵のシャツの後ろ襟を掴んで滝壺の方へと引きずっていく。
伯爵は首が締まり、苦しそうにジタバタもがく。
だが執事はそんなこと、気にも留めない。
「うちの可愛い猪娘がね、教えてくれたんです。『10回くらい鞭打って、それでも自分が馬鹿であることが理解できないようなら今世は期待できない』って」
「はあ!?」
「僕は今、10回鞭を打ちました。けれど、あなたはご自分が馬鹿であることを理解できないようだ」
ならば仕方がない。残念だが、今世はもう無理だ。
執事は滝壺の端にブランチェット伯爵を立たせた。
「お、おい。やめろ……やめてくれ……」
「来世に期待してください。さようなら」
執事は彼の敵の背中を思い切り蹴飛ばした。
エレノア子爵夫人は騎士と共に、魔女とその関係者を馬車に押し込んだ。
聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせてくる異端たちにも、夫人は微笑みを絶やすことなく毅然とした態度で接し、彼らを審問官に引き渡した。
「奥様、大丈夫ですか?」
「ありがとう。大丈夫よ。そう心配しないで」
彼らの言葉に心優しい夫人が傷ついていないかと心配する侍女たち。
しかし夫人は、彼女たちにも笑顔で返す。
だって、
「あなたは羽虫の声に耳を傾けたことがあるの?」
ただ単に耳障りなだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
彼らの言葉はあくまでもそういった類の雑音でしかない。
夫人はそう言って、やっぱり笑った。
***
なぜ、こうなってしまったのだろう。
どうして、まるで犯罪者のように枷をつけられ、安っぽい馬車に押し込まれなければならないのだろう。
ブランチェット伯爵には今の状況が何ひとつ理解できない。
だから、険しい山道を走る馬車の中、彼は必死に考えた。
どうすればこの状況を切り抜けられるかということだけを、必死に。
眼前の妻はもう、娘が異端審問にかけられるという事実が受け入れられずに壊れ気味で使い物にはならない。
ベアトリーチェは魔女として縄でしばられ、今は荷馬車に乗せられている。
金を積めば教会は見逃してくれるだろうか。
けれど、先ほど異端審問官は教皇が第一皇子派から抜けたと言っていた。
ダニエルの策略に乗った結果、こうなっているということを考えれば今は金を積んでも難しいかもしれない。
「やはりベアトリーチェに魅了されていた被害者として振る舞うべきか……」
もしここで、娘を庇えば自分も同じ異端として扱われる。
ベアトリーチェには悪いが、それが一番現実的だろう。
父から受け継いだ莫大な財産も、今の地位も何もかも、全て手放したくはないから。
「これは仕方のないことだ」
ブランチェット伯爵がそんな最低すぎる結論を導き出した時だった。急に馬車が大きく揺れた。
夫人が恐怖のあまり、単語になっていない言葉を叫ぶ。
伯爵は大きな石でも踏んだのかと、ギュッと目を閉じた。
すると、何故だろう。急に水の音が聞こえた。
水辺を通っていなかったはずなのに、おかしい。
不思議に思った彼が恐る恐る目を開けると、そこには大きな滝壺があった。
「ひっ………!」
あまりの壮大さに、その恐ろしさに、伯爵は尻餅をついたまま後退りする。
鬱蒼としげる森の中、カラスの鳴き声や風が草花を揺らす音さえも全てが不気味に聞こえた。
「こ、ここはどこだ!?」
「輪廻の滝ですよ」
誰に問いかけたわけではないのに、答えが返ってきた。
どこかで聞いたことのある声だ。伯爵はゆっくりと、声のする方を見た。
そこには外套のフードを目深に被った女と、赤目の男がいた。
「ごきげんよう、ブランチェット伯爵様」
「き、貴様はっ!」
アッシュフォード男爵家の執事だ。
男爵家に滞在中、ずっと胡散臭い笑みを浮かべて、こちらの要望を一切飲まなかったあの男だ。
伯爵は彼につかみかかろうと立ち上がった。
しかし手を拘束されているため、バランスが取れず横に倒れてしまう。
赤目の執事はそんな彼を鼻で笑った。
「とても良い光景です。気分がいい」
「貴様、何がしたいのだ!」
「少しばかり、あなたにお聞きしたいことがあったのですよ」
「……何?」
「十数年前、あなたはヴィルヘルムの街で人を轢きましたね?」
執事はにっこりと、相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべて、伯爵の前にしゃがみ込む。
伯爵は何のことだかわからない、と返した。
「そうですか。覚えておいでではないのですか。残念です」
では、思い出させてあげなくては。
執事はそういうと、フードの女から鞭を受け取った。
そして彼の腕を鞭で打った。
汚い叫び声が、夜の樹海に響く。
「き、貴様!何を……」
「もう一度聞きます。人を轢き殺した覚えはありませんか?」
「し、知らん!」
「そうですか。ではもう一度」
「ぐぁ!?」
そうやって、執事は同じ問答を何度も繰り返した。
そして鞭を打って九回目。
伯爵はついに認めた。その昔、ヴィルヘルムの街で人を轢いたことを。
「ああ、そうだ。確かに轢いた。けど、だから何だっていうんだよ!たかが平民一人を轢いたくらいで!」
「……」
「なんだ?お前はその平民の関係者か?もしかして復讐のつもりか?今更そんな理由で、私にこんな仕打ちをして許されると思っているのか!?」
まるで反省が見えない。性根が腐り切っている。
これはもう無理だ。期待できない。
執事はその禍々しい真紅の瞳を細め、もう一度鞭を打った。
「……く、くそう」
「10回です」
「は?」
「あなたは今、10回鞭を打たれましたが、どうですか?自分が馬鹿だということを理解できましたか?」
「は?何の話だよ」
「そうですか。ならば仕方がありませんね」
執事はそう言うと、伯爵のシャツの後ろ襟を掴んで滝壺の方へと引きずっていく。
伯爵は首が締まり、苦しそうにジタバタもがく。
だが執事はそんなこと、気にも留めない。
「うちの可愛い猪娘がね、教えてくれたんです。『10回くらい鞭打って、それでも自分が馬鹿であることが理解できないようなら今世は期待できない』って」
「はあ!?」
「僕は今、10回鞭を打ちました。けれど、あなたはご自分が馬鹿であることを理解できないようだ」
ならば仕方がない。残念だが、今世はもう無理だ。
執事は滝壺の端にブランチェット伯爵を立たせた。
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