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4.監禁以前(3)
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「殿下」
「サラ……?」
ハニーブロンドから手をのけて、努めて静かな声を出す。きょとんと見上げる目に困惑が滲んだ。
飼い主の不機嫌に付き合わされる愛犬のようなその表情に、つきんとサラージュの胸が痛む。
本当にこんな裏切りのような真似をする必要があるのかと、忠義者の自分が問いかける。彼のこの甘えは信頼だ。それを仇で返すつもりか。
そんなふうに攻め立てる自分自身を胸の内でどうどうと宥め、言い聞かせる。
(嫌われてしまうかもしれないわね。本当に婚約破棄することになるかも。……それでも、必要なことだもの)
アレクシスは次代の王であり、サラージュはそれを支えるもの。そのように末永く、彼の隣でそれを為すものだと思っていた。そこに二心はない。
だが、サラージュの替えはいくらでもいる。
初恋の君、辺境伯令嬢――そんな肩書は王太子妃の絶対条件ではないし、これから妃が増えていく可能性だってある。そもそも支えるのが妃だけであるはずもない。
だが、現時点で彼への影響が強く、その上で不興を買った時に切り捨てても不和程度で済むなんて都合のいい人間は、サラージュ以外に存在しないだろう。
彼の不安定さが民を傷つけることがあってはならない。彼自身の柔らかな心が有象無象に食い荒らされることは避けなければならない。
成長痛が必要な今、その痛みを与えることができるのはサラージュだけだ。
気合を入れなおし、母譲りの美しい顔に用意してあった表情を刷く。
悩ましく潜めた柳眉も、そっと頬に添えた繊手も、わずかに逸らしたワインレッドの瞳も、絶妙な角度で伏せて影を落とす月白の睫毛も……散々、鏡の前で練習した通りに配置する。そして、ため息を一匙。一連の仕草をわざとらしくないように滑らかに骨に伝播させ、そして情感を伴って皮膚の上に乗せる。
見るからに困り果てて惑う顔に、ほんの少しの疲れと失望を紅のように差せば、【度重なる婚約者の甘えたに疲弊した少女】の顔の出来上がり。
多少わざとらしいかもしれないが、王のお墨付きであることを恥じらいも戸惑いもなく押し通させてもらおう。
「あまり、わたくしに甘えられても困ってしまいますわ」
「どうしたのだ、サラ。いつもなら」
「申し訳ございません、殿下。わたくし――あまりに頼りない方と添い遂げる自信がありませんの」
「サ、サラ……そんな」
狙い通り、アレクシスは目に見えて狼狽えた。ぴょこんとサラージュの膝から飛び起きると、あたふたと手どころか耳も尾も忙しなく動かして少女の周りを回り始める。
稀にするような喧嘩ならば、この動き回る姿にほだされて「仕方がない人」と受け入れてくれるはずの婚約者がまるで表情を動かさない。それを確認するや否や、アレクシスの顔が青ざめた。
サラージュは良心を痛めながらも王が用意した台本を脳内でなぞる。ここからが肝心だ。
「許婚と申しましても、本決まりではありませんし……殿下がそのような情けないお姿でわたくしに縋ることを続けられるのならば、婚約を破棄することも視野に入れさせていただきますわ」
「――婚約を?」
「ええ。幸いわたくしたちの婚約は重い政略は絡んでおりませんもの。お互いそう傷にもなりません。……昨今、恋愛結婚が流行っておりますし、今ならば新しい相手探しにも苦労はないでしょう」
つらつらと唇から言葉が流れ出す。幸い棒読みにはならなかったが、いささか無理があったようにも思えた。
ばれないように小さく息をついて、視線をアレクシスへと戻す。
見開かれたライトグリーンの瞳が、瞬き一つなくこちらを見ていた。
思わず背筋を冷たいものが走る。
「あたらしい……、サラは、別の男がよいのか。我ではなく」
低い声だった。平素聞いたこともないような獣の唸りにも似たそれに、サラージュは眉をひそめる。
「……殿下?」
「ならぬ」
目の前にいるのは、本当に幼いころから共にいたあの愛らしい婚約者なのか。
そんな疑念を籠めて呟いた声をかき消すように、緑の目をした獣が吠えた。
「ならぬならぬならぬ!! そなたは我のモノだ。我のつがいだ。我の運命だ――他の雄になぞ、触れさせてなるものか!!!!」
悋気の炎に焼かれ悶えるように肌を掻きむしりながらアレクシスが叫ぶ。血が滲んだその手がぐおんと伸びて、乱雑にサラージュの肩を掴んだ。
熱い手が柔肌に食い込む。理性の欠片も感じられない力の入れようだ。
こんな触れ方を今までされたことはなかった。甘えることはあれど、触れ方はこの世で何よりも繊細な宝石に触れるような心遣いに満ちていた。
けれど、今は。
ぐるぐると深淵がうずまいているようにすら見えるその目に、正気はない。
「――ッ! 殿下、落ち着いて!! レクシア!」
幼少期の呼び方が張った声とともに飛び出す。
どうか冷静になってほしい。そんな願いも空しく、少女の細い体は青年の筋肉質な腕の中に掻き抱かれる。
耳元で、奈落のような重たらしい声が囁いた。
「我から離れることなど、許さぬ」
藻掻き、メイドや侍従を振り返る。狼狽した彼らの顔、悲鳴――それを最後に、サラージュの意識は暗転した。
「サラ……?」
ハニーブロンドから手をのけて、努めて静かな声を出す。きょとんと見上げる目に困惑が滲んだ。
飼い主の不機嫌に付き合わされる愛犬のようなその表情に、つきんとサラージュの胸が痛む。
本当にこんな裏切りのような真似をする必要があるのかと、忠義者の自分が問いかける。彼のこの甘えは信頼だ。それを仇で返すつもりか。
そんなふうに攻め立てる自分自身を胸の内でどうどうと宥め、言い聞かせる。
(嫌われてしまうかもしれないわね。本当に婚約破棄することになるかも。……それでも、必要なことだもの)
アレクシスは次代の王であり、サラージュはそれを支えるもの。そのように末永く、彼の隣でそれを為すものだと思っていた。そこに二心はない。
だが、サラージュの替えはいくらでもいる。
初恋の君、辺境伯令嬢――そんな肩書は王太子妃の絶対条件ではないし、これから妃が増えていく可能性だってある。そもそも支えるのが妃だけであるはずもない。
だが、現時点で彼への影響が強く、その上で不興を買った時に切り捨てても不和程度で済むなんて都合のいい人間は、サラージュ以外に存在しないだろう。
彼の不安定さが民を傷つけることがあってはならない。彼自身の柔らかな心が有象無象に食い荒らされることは避けなければならない。
成長痛が必要な今、その痛みを与えることができるのはサラージュだけだ。
気合を入れなおし、母譲りの美しい顔に用意してあった表情を刷く。
悩ましく潜めた柳眉も、そっと頬に添えた繊手も、わずかに逸らしたワインレッドの瞳も、絶妙な角度で伏せて影を落とす月白の睫毛も……散々、鏡の前で練習した通りに配置する。そして、ため息を一匙。一連の仕草をわざとらしくないように滑らかに骨に伝播させ、そして情感を伴って皮膚の上に乗せる。
見るからに困り果てて惑う顔に、ほんの少しの疲れと失望を紅のように差せば、【度重なる婚約者の甘えたに疲弊した少女】の顔の出来上がり。
多少わざとらしいかもしれないが、王のお墨付きであることを恥じらいも戸惑いもなく押し通させてもらおう。
「あまり、わたくしに甘えられても困ってしまいますわ」
「どうしたのだ、サラ。いつもなら」
「申し訳ございません、殿下。わたくし――あまりに頼りない方と添い遂げる自信がありませんの」
「サ、サラ……そんな」
狙い通り、アレクシスは目に見えて狼狽えた。ぴょこんとサラージュの膝から飛び起きると、あたふたと手どころか耳も尾も忙しなく動かして少女の周りを回り始める。
稀にするような喧嘩ならば、この動き回る姿にほだされて「仕方がない人」と受け入れてくれるはずの婚約者がまるで表情を動かさない。それを確認するや否や、アレクシスの顔が青ざめた。
サラージュは良心を痛めながらも王が用意した台本を脳内でなぞる。ここからが肝心だ。
「許婚と申しましても、本決まりではありませんし……殿下がそのような情けないお姿でわたくしに縋ることを続けられるのならば、婚約を破棄することも視野に入れさせていただきますわ」
「――婚約を?」
「ええ。幸いわたくしたちの婚約は重い政略は絡んでおりませんもの。お互いそう傷にもなりません。……昨今、恋愛結婚が流行っておりますし、今ならば新しい相手探しにも苦労はないでしょう」
つらつらと唇から言葉が流れ出す。幸い棒読みにはならなかったが、いささか無理があったようにも思えた。
ばれないように小さく息をついて、視線をアレクシスへと戻す。
見開かれたライトグリーンの瞳が、瞬き一つなくこちらを見ていた。
思わず背筋を冷たいものが走る。
「あたらしい……、サラは、別の男がよいのか。我ではなく」
低い声だった。平素聞いたこともないような獣の唸りにも似たそれに、サラージュは眉をひそめる。
「……殿下?」
「ならぬ」
目の前にいるのは、本当に幼いころから共にいたあの愛らしい婚約者なのか。
そんな疑念を籠めて呟いた声をかき消すように、緑の目をした獣が吠えた。
「ならぬならぬならぬ!! そなたは我のモノだ。我のつがいだ。我の運命だ――他の雄になぞ、触れさせてなるものか!!!!」
悋気の炎に焼かれ悶えるように肌を掻きむしりながらアレクシスが叫ぶ。血が滲んだその手がぐおんと伸びて、乱雑にサラージュの肩を掴んだ。
熱い手が柔肌に食い込む。理性の欠片も感じられない力の入れようだ。
こんな触れ方を今までされたことはなかった。甘えることはあれど、触れ方はこの世で何よりも繊細な宝石に触れるような心遣いに満ちていた。
けれど、今は。
ぐるぐると深淵がうずまいているようにすら見えるその目に、正気はない。
「――ッ! 殿下、落ち着いて!! レクシア!」
幼少期の呼び方が張った声とともに飛び出す。
どうか冷静になってほしい。そんな願いも空しく、少女の細い体は青年の筋肉質な腕の中に掻き抱かれる。
耳元で、奈落のような重たらしい声が囁いた。
「我から離れることなど、許さぬ」
藻掻き、メイドや侍従を振り返る。狼狽した彼らの顔、悲鳴――それを最後に、サラージュの意識は暗転した。
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