カッターナイフ

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カッターナイフ

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 ピピピ、ピピピ。
 単調な目覚まし音によって、僕は夢の中から引きずり出される。

「ゲホッ――起きなきゃ」

 十一月あきだから部屋も薄ら寒く、息をする度、身体の中が冷たくなる感じがちょっと嫌いだった。
 目をこすり、ベッドから身体を起こして、抱いて寝ていた熊の人形ヌイグルミを、茶色の棚の上へと戻す。

「(十歳にもなって、この熊がいないと一人で寝られないなんて)――誰にも言えないや」

 いつもらったのかも覚えていないこの人形が、僕の安眠まくらだった。
 ボサボサ頭のままベッドを降りて、二階の廊下へと出ると、目ヤニでまだかすむ視界に、ぼんやりと映る。

「おはよう」

 僕を待ってくれていたっぽい、廊下にいた弟へ声をかける。パジャマ姿の弟はニコリと笑うと、僕の後ろに続き、一緒に一階へと降りていく。
 弟と言っても、二卵性ソーセージっとか言うヤツで、年齢としは同じであった。
 ガチャ。

「ゴホッ。おはよう~」

 リビングの温かい空気を飲み込むとホッとする。けど、冷たい空気と温かい空気が身体の中で混じり合う感じは、最初だけちょっとムズムズする。

「――起きたか?」

 今時、朝からしっかりと新聞を読むお父さんと、アイランドキッチンで朝食の準備しているお母さんが順番に口を開く。

「着替えたら、ご飯食べちゃいなさい」

 僕はお気に入りの青のトレーナーに着替えて椅子に座る。二人おやの目を盗みつつ、ホットミルクへ蜂蜜を多めに入れる。
 カラカラ、と木のスプーンでかき回していると、新聞から声が聞こえる。

「体調は大丈夫か?」

 興味があるのか無いのか、って感じのお父さんが聞いてくる。

「さぁ、大丈夫なんじゃない?」

 僕は生返事でテレビを見ながら、ブルーベリージャムを塗ったパンをかじる。ニュースはやっぱりつまんないけど、お天気お姉さんは今日も綺麗だった。

「(あ、髪型がちょっと違う?)――ゲホッ!」

 口から飛び出そうになるパンを前歯の裏で受け止める。薬を飲んで、牛乳を飲み、靴下を履いて玄関へ向かう。弟はもう準備が出来ていた。

「いってきま~す」

 ガチャ。
 ――心地よい秋の風が僕らをお出迎え。
 海をひっくり返したみたいな青空は今日も澄んでいて、隣の家のキンモクセイは白い小さな花を揺らし、ほんのり甘い香りを届けてくれた。
 前にお母さんが――キンモクセイはトイレのホウコウザイの香りがして好きじゃない――って言ってたけど、トイレでこんな良い香りなんてしたことないのに。

「ん~。秋が一番すきかも」

 歩きながら思う。この季節になったら、毎年いつも同じことを弟に言っている気がするなぁ、って。

「お~い」

 声の方に振り返ると、同じクラスの幼馴染おんなのこが後ろから走って来る。

「おはよう」

 僕が軽く返すと、興奮気味に口を開く。

「おはよう! ねぇねぇ、昨日の【ガンバろう】みた?」

 ガンバろうっていうのは、学校でちょっと流行っている、男の子向けの人気アニメだ。

「ゲホッ――もちろん。主人公ガンバかっこよかったよねぇ」

 彼女には年の近いお兄ちゃんが二人いて、そのせいか男の子向けのアニメや漫画が大好きだった。

「もう、めっちゃかっこよかったよね! ――でも私はあのライバルの方が好きかも~」

 ウットリと話す彼女は、楽しそうだった。
 ただし、学校で話すと男子児童クラスメイトにからかわれるから、この話題は僕達三人だけの秘密でもあるんだ。

「でね! ――あっ、咳は大丈夫?」

「ゴホ、ありがと……ん?」

 古びた工場の傍も歩き終えて、学校もあと少しになって弟が、道路の向こう側にある、小さな空き地を指さす。あの辺りは、家を取り壊してから駐車場にもならず、ちぎれた黄色と黒のロープで、もう何年も囲われて放っておかれた場所だ。
 売地、って文字が読めるようになるまで、草が生えたり枯れたりしていたなと、今さら思う。

「(けど、こんな風に何かを教えてくれるのは珍しいな)――ごめん。先に行っててくれる?」

 彼女の返事も待たず、二人して走り出そうとする。

「え? あ、うん。わかった」

 大きなダンプカーが小さな地響きを立てて通過したのを目で追ってから、急いで横切る。
 家二つほどの広さ空き地は、ネコジャラシと秋の草が生え放題だった。足を踏み入ると、コオロギとかバッタが、ぴょんぴょん、と驚き飛び出る。
 僕は小さなヨモギを靴で揺らしながら、弟が指差した辺りをしゃがんで調べる、と――。

「? ……これって」

 なんだろう?
 二人してじっくりと、雑草の隙間に落ちていたモノに注目する。
 ――それは、黒いけど光沢があって、触った感じはプラスチックみたいにスベスベしていた。手乗りサイズで、長細い形をしていて、太陽の光を受けると、たまに意味ありげに輝く感じに、ちょっとドキドキした。
 にしても、ずっと外で置いておかれてた割りに、ほとんど汚れていなかったのも不思議な感じがした。目をこらすと表面に金色で、文字だか模様だかよくわからない意匠デザインが描かれていて、真ん中には小さな丸いくぼみがあった。

「なんか……」

 半開きになりかけていた口を、忙しげに動かす。

「珍しそうだね!」

 きっと僕は目を限界まで見開いて、弟を見て頷く。

「ぃよし」

 壊れないようにそっと掴んで、ポケットにしまう。お父さんやお母さんに家出見られたら怒られるかもだろうけど、綺麗な小石や欠けて落ちた車のパーツを持ち帰っちゃうのは、僕だけじゃないはずだ。
 立ち上がってようやく、登校時間が無いことを思い出し、大急ぎで学校へと走っていった。




「――おい、お前のせいで負けただろ」

 ……最悪だ。昼休みが終わる直前、僕は人気ひとけのない中庭の隅にいた。
 高学年と合同で行った縦割りの野球試合に負けたせいで、六年生達に詰め寄られるハメにあった。
 なんでこんな酷い目に遭わないといけないんだろう。――ドン、っと肩を押されて、近くにあった白い百葉箱に背中をぶつける。痛い。

「何とか言えよ」

 し、試合には負けたけど、僕は打席に二回立っただけで(確かに打てなかったけど)、負けたってのは僕だけのせいじゃないと思うんだ。

「(けど、怖くてそんなこと言えない)――ゲホッ」

「ゲホじゃねーだろ」

 パァン。
 頭が大きく右に揺れて、叩かれた所がジンジンと熱くなる。怖くてみじめで涙がにじむ。――けど、樹の陰に隠れている弟を見ると、立ち向かわないといけないと思うのに、思うだけで……。

「お前、ほんとムカつくわぁ」

 一番大きな六年生が、僕の服の襟首を強く引っ張った、その時だった。

「――んせいっ、あっち!」

「こらぁ! お前らぁ、何してる!」

「やっべ。五年のスギヤマだ!」

 南校舎の方から、聞き覚えのある声がしたかと思うと、六年生達は土を蹴り上げてバラバラの方向に駆け出していった。五年生の先生は顔を真っ赤にして、その内の運が悪かった一人を追いかけていった。

「ハァハァ――大丈夫?」

 今朝の幼馴染が、スカートを揺らして、肩を上下させながら走り寄ってくれる。きっと、六年生達に連れて行かれる僕を見かけて、先生を呼んでくれたんだ。

「――う、ぅっ」

 けど、突っ立ったままで半べその僕は、唇を上手く動かせなかった。

「帰ってくるのが遅いなぁと思って、探してたら、友達が教えてくれて――」

 僕は、

「ッ!」

 ダッタッタ!

「あっ」

 こみ上げてくる咳を無理に飲み込みつつ、気がつけば明後日あさっての方へと走り逃げていた。何度も何度も瞬きをして、涙をなかったことにしようとしながら。
 ――だって、いくら六年生三人に囲まれたからって、女の子に助けてもらうなんて、格好悪すぎるよ。みじめで胸がキュッてなる中、校舎隅の飼育小屋の陰に隠れて、嘔吐えずきながら何度も咳をする。

「ゴホ。オエッ」

 後からついて来てくれた弟は、口を閉じたまま、かける言葉を探しているみたいだった。

「ケホ――うん。もう、大丈夫」

 あぁ、今日は本当になんてツイてないんだろう、全て運のせいにしながら、コソコソと見えないナニかから隠れるようにして、教室へ戻った。
 ――下校の時も散々だった。
 昼の事で、ボーっとしていたのかな。垣根を越えて伸びている木の枝に気付かず、お気に入りのトレーナーに穴を空けてしまった。
 帰った後も、ランドセルの底にあった学校便りをずっと出し忘れていたっぽくて、お母さんにこっぴどく怒られた。

「ゴホ。なんだろう。まるで――」

 夕方、リビングで落ち込んでいた僕は、ポケットへ手を入れる。

「この……」

 黒い小さな箱みたいなものを拾ってから、悪いことが立て続けに起こっているように思えてならなかった。
 最初は神秘的に見えた金色の文字や模様なんかも、だんだんと不気味に見えてきた。

「(捨てる?)――どう、しよう」

 弟の方をチラ見する。
 僕とソレを交互に見つつ、手をグーパーしながら、眉毛を八時二十分の方向へと下げた。

「(偶然って思いたいけど、やっぱりちょっと気持ち悪いよ)――あっ、そうだ」

 ハッ、と反り返る。ずっと持ったままは不安だけど、ゴミ箱に捨てるのは弟に悪いから、庭にある物置にしまってしまおうと、思いつく。追い立てられるみたいに、玄関の扉を開ける。
 ガチャ。
 頬をなでる涼しくて穏やかな風は、だけど、逆に僕の不安をかき立てた。ほんのり温かい秋の日差しヒカリも、僕にだけ当たっていないような気がした。
 裏に回って、錆びかけた物置の扉をがんばって開ける。真っ暗な中に、風が入り込むと、舞い上がった埃が光に当たってキラキラと光った。
 僕は使われなくなった鉢植えやまとまった雑誌、冬用のタイヤなんかを避けて、隅の方へそっと置く。

「これでよしっ、と……そうだっ。今日は友達と自転車で遠くの公園へ遊びに行く約束をしてたんだった」

 逃げるように物置を後にした僕は、出かける支度をする。弟は自転車に乗れないから、バイバイをしてから家を飛び出る。
 ……――それから友達と目いっぱい遊んだ。
 夕飯の時にはお母さんの機嫌も直っていて、お父さんもいつも通り帰ってきた。夜は怖い夢でもと心配だったけど、取り越し苦労ってやつだった。うなされることもなく、いつもの朝を迎えられた。
 それから三日間は、本当にいつも通りに過ごせた。六年生に絡まれた次の日も、難癖をつけられることもなくて、幼馴染の子とも、普通に仲直りができた(そもそも気にしていなかったみたい)。
 ――そして。

「週末っだぁ~」

 お昼過ぎ、リビングの真ん中に陣取る。
 土曜日きよう日曜日あしたは一時間だけゲームが出来る最高の日だ。誕生日に買ってもらったゲーム機はいつも大事にしてるから、新品同様だった。

「今日こそ最後までいくぞ」

 携帯やタブレットでゲームをしている友達も多いけど、僕はやっぱり大きな画面でするのが好きだ。お父さんが子供の時は、ほとんどがそうだったらしい。
 窓のカーテンが風で優しく揺れる中、弟がいつも通りとなりからのぞき込む。僕は手に汗を握り、没頭していた。

「よぅし。回復薬もかなり残ってる。ついについにラスボスを倒せそ――」

「これ、お前のか?」

 お父さんの急な声が、網戸越しに外から聞こえてびっくりする。確か物置の整理をするとか言って……あっ!
 カラカラカラと網戸を開かれる。

「え、えと。な――! うっ」

 うめくみたいな声が、二つの意味で口からこぼれた。一つはゲーム画面に浮かんだ真っ赤なの文字のせいで、もう一つは……。

「危うく踏みつけそうになったぞ」

 興味なさげなお父さんは、タオルで汗を拭きつつ、手に持っているモノを差し伸ばしてくる。
 ドックン。

「ゲホ、ゴホ――あ、えっ、と」

 心臓が痛いくらいに脈打つ。

「ほれ」

 上手な断りの言葉を思いつく前に手渡されてしまった。汗がべっとりとしている僕のこの手に、あの黒い小さな箱が手渡された――。
 お父さんは不思議そうな顔で麦茶を飲みつつ、首筋をかく。

「何かの玩具か?」

「これ、これは、えとぉ」

 空気の塊が喉につっかえたみたいに、上手く話せない。

「それ、西洋のヒツギみたいに見えるな」

「え? ひ、?」

「羊じゃなくて、棺だよ。――亡くなった人が入る箱。棺桶かんおけだな」

 お父さんの声が、なぜか遠く聞こえる。

「亡くなった人が入る、ハコ? ――ゲホッ、ゴホ」

 背筋に冷たい何かが触れたみたいな気がして、弟を見てしまう。

「……」

 弟もその言葉に驚いてか、お父さんの方をじっと見ていた。
 ――怖い物だという疑問は、どんどん確信へと変わっていった。けどもし、捨ててしまったりしたら、もっと恐ろしいことが起こるかもしれない。例えば、僕だけじゃなくて、触ってしまったお父さんも巻き込む、とか?

「? どうした? ゲームの時間が無くなるぞ」

 そう言ったお父さんはカーテンを揺らしながら、いなくなった。大好きなゲームが、初めてひどくどうでもいいもののように思えた。
 ――やがて夜になり、不安を抱えたまま、寝る時間となった。いつもは気持ちいい鈴虫の合唱ですら、まるで僕を真っ暗闇な夜へ誘う、歌みたいに聴こえた。僕は慌てて窓を閉める。
 恥ずかしいけど、今日はお母さんに一緒に寝てもらうように頼もうかな。机の上に置いた柩モドキを出来るだけ見ないようにして、ベッドを降りようとした時だった。

「ゲホ。ゴホッ、ゴホ。オッ、ゴオ」

 なん、だ? 咳が、止まら、なぃ。

「ゴホッ! ゲオ、おえっ」

 十分くらいかして、酸っぱい臭いが喉の奥からこみ上げてくる。喉がヒリヒリする中、ベッドにすらのぼれない。苦しさをまぎわせるために、カーペットの上で、引っつかんだ熊の人形を抱きしめて丸くなる。

「ヒュー、ヒュー」

 背中の中が痛い。呼吸いきが、難しい?
 ドタドタドタ。
 扉が勢いよく開く音と共に、お父さんとお母さんの慌てた声が聞こえてくる。

「大丈夫かっ?」

「薬、持ってきたわよ!」

 ゼェゼェ、っと息苦しくて余裕なんてないはずが――熊の人形が無いと寝られないのがバレちゃった――なんてどうでもいい事を思ってしまった。
 ……お父さんに、赤ちゃんの時みたいに抱きかかえられる風に身体を起こしてもらって、薬を口に入れて飲もうとする。

「――ゴボァ! ゲホ、エオ!」

 ビチャ。飲み、こめない。喉の下? の感覚が変で、痛い、痛ひぃ。

「おい、救急車!」

「わかってる! あなたは保険証とか着替えの準備してっ」

 救急車、乗れるんだ? やったぁ。
 嬉しすぎて、一瞬ちょっとだけ痛みと苦しさが減る。曲がった視界を意味なく動かすと、扉の隙間からパジャマ姿の弟が見えた。

「……」

 あれ、僕を睨んで、る? 怒ってる、の? なんで――。
 だんだんと、身体の内側が、骨みたいな棘で突き刺されるみたいな、痛みが、次々に起こ、る。
 ……。

「――大丈、ですか?」

「ぇ?」

 えっ、誰? いつの間にか白いヘルメットを被ったおじさんが三人いて、その一人が心配そうに、

「――おなま――ぐあ――すか?」

 ヒューヒュー、という音がうるさくて、よく聞こえないよぉ。
 おじさん達はお父さん達と話をしてる感じで、白い板? みたいなのに僕を乗せて立ち上がった。
 ――もう苦し過ぎて、頭も身体もあんまり動かない。けど最後に、弟が血相を変えて、身振り手振りで、必死に指を差しているのモノに気付く。

「(え? アレ、もってく、の?)――ぁ、ぁ」

 僕は田舎のおじいちゃんみたいに震える指で、机の上に置いてあった、黒い柩モドキを指してしまう。
 お母さんが気づいてくれて、机に近づく――あ、また意識、が。
 


 ピー、ピー。
 嗅ぎ馴れない、何とも言えないツンとした匂いが、鼻に入りこんでくる。
 見慣れない、白くて綺麗な天井は、なぜか薄気味悪くて怖かった。目だけを右と左へ三回以上ふってから、病院のベッドで寝かされているのに気づいた。
 腕には点滴の管がいくつも刺してあり、口には戦闘機パイロットが付けるマスクみたいなのが、くっついていた。

「――ッ」

 けど、苦しい。
 まるで鼻と口をラップで巻かれて、無理に呼吸いきをさせられているみたいだ。お父さん達はいないけど、お医者さんと話をしているのかな?
 苦しいのと痛いのをまぎらわせるために、両手の指をほんの少し動かした時、どちらも何かに触った。

「? これ、って」

 左手の指の近くに、熊の人形があった。ゴワゴワした毛ざわりで、なぜかひどく安心できた。ちょっとずつ、がんばって引き寄せて、抱き締める。
 逆に、右手の方は、ツルツル? した触感かんじで、何だろうと、ジーンとした頭で小さく悩んだ。
「(! まさか)棺、モドキ? ――ぅ」

 ゴホッ、喉を灼くような咳が出る。
 ――そう、だ。コレのせいで、僕はきっと、こんなに、こんなに苦しい目に、ってるんだ。
 必死いかりの想いで、鈍い指先を必死に動かそうとする。いつもの半分も思い通りに動かなかったけど、それでも何とかがんばって、爪先で掴むっ。

「(こん、のっ)フゥ、フゥ」

 せめてベッドからだけでも投げ落とそうと、力を込めたその時だった。
 カチリ。
 スイッチを押した様な軽い音が、小さく響く。なん、だろう? 痺れながらも頑張って、プルプルと震えつつ、必死に持ちあげると――。

「?」

 中央のくぼんだ所を押したらしく、長さ十センチメートルほどの銀色の短いが、伸び出ていた。

「(これって、カッターナイフだったの?)ゴホッ……ぇ?」

 いつの、いつの間にか傍に弟が立っていた。普段の人懐っこい表情じゃなくて、寂しそうな、何かを思いつめた感じで、瞬きもせずに僕を覗き込んでいた。
 けど、弟のそんな深刻な表情よりも、傍に誰かがいてくれる安心感で、思わず気を緩める。

「今、まで、どこに――へっ?」

 うつむく弟の手が、伸びたかと思うと、カッターナイフを握る僕の手首を上から掴む。浮いた手が、ググッと少しずつ僕の方へと下がりはじめる。

「――なん、で?」

 おかしい。こんなの絶対におかしい。だって、だってだってだって。
 だって弟は、らしくって、こんな風に何かをすることなんて、出来なかったはずなのに。
 ううん。もし出来たとしても、あんなにずっと一緒で仲良しだった僕に……ボクに、今になって急に、どうして――?

「! ……ほん、とは」

                        怒ってたの?

 ――同じ時に産まれるはずだったのに、きみだけ亡くなって、ぼくだけが産まれて。

「そう、なんだ、ね?」

 カッターナイフを握った僕の手が、どんどん近づいてくる。
 見上げる蛍光灯の光が、ヒカリが眩しい。
 弟は――そう。ヒカリは、なぜか涙で目元をにじませていた。その眼のさらに奥を見て、思い返す。

「……むか、昔、酔ったお父さん達が――ゴホッ――一回だけ話してた。弟には、ヒカリって、名付けようと、決めていた、んだよ?」

 どうしてか僕も涙が出来てきた。
 怖いからじゃない、悔しいから。大切な弟がこんなに苦しんでいたのに、全然気づいてあげられず、今まで何も出来なかったみたに、家で、学校で、外で、過ごしてきたことに。
 ヒカリは何度も強く瞼を閉じて開いた。そのたびに、いっぱいの涙がこぼれた。
 ――けど僕の手は離さずに、何かを必死に口を動かしていた。僕はほとんど動かない顔を、わずかにでも、精一杯に縦へ動かす。意味もわからないままに。

「ごめん、ね、ヒカリ。バカな、兄ちゃん、で――」

 喉に、栓をされたみたいに、苦しい。胸も頭も重くなって、左手が、しびれる。もう、何の、感覚も、な――。


 * * *


「……ヒ」

 ――?

「アサヒ? アサヒ!」

「――お、お父、さん?」

 頭の中がジンジンする中、鉛みたいに重い瞼を押し上げるとそこには、顔をグシャグシャにしている、お父さんとお母さんの顔が近くにあった。

「なに? どうし――」

「「アサヒ!」」

 二人が覆いかぶさって来る。痛い。
 あのぉ、僕、病人なんですけどぉ――。

「……あれ?」

 不思議だ。さっきからそんなに時間が経っていないみたいなのに、痛みもしんどさも嘘みたいに消えていて、簡単に身体を動かすことができた。

「ア、アサヒ。だ、大丈夫なのか?」

 お父さんのこんな表情かおは、中々お目にかかれないかも。

「――うん。大丈夫みたい」

 部屋を見ると、白衣を着たお医者さんや看護師さん達が、色々な機械や帳面を眺めていた。けど、何が何やらって感じで慌てふためいていた。
 何だか少し不安になってきたから、本当に大丈夫かな? と下を見ると。

「……えっ?」

 左手が抱きかかえていた熊の人形が、どういうわけか縦に引き裂かれていた。まるで小さな包丁とかナイフで刺し切ったみたいに鋭く裂けていて、中から赤黒い綿が飛び出していた。

「なんで、どうして?」

 一番に不思議に思ったのは、お気に入りの人形のはずがこんな事になったのに、なぜか悲しさを全く感じなかったからだった。
 母さんだけが僕の驚きに気づいたみたいで、

「あら? こんな人形なんてあったかしら?」

「まぁまぁ。もうそんな事いいじゃないか」

 そう言ってお父さんが、僕とお母さんを、痛いくらいに抱きしめる。
 お医者さんも、僕の脈だのお腹だのに触ってから、姿勢を戻して腕組みをする。

「脈拍も誘導心電図も正常で、呼吸器系も異常が認められない。一体これは――」

 今度はお父さん達がお医者さんへ向き直り、再発はどうとか、後遺症がとか、色々な質問をぶつけ出す。
 僕の中の大切な疑問は、周りの大人達にいとも簡単にかき消されそうだった。

「(そうだ。ヒカリとさっきのカッターナイフは?)どこに」

 見当たらない。カッターナイフは床に落ちちゃったのかな? 探すためにベッドから降りようとするけど、すぐに止められて、念のためにと寝かしつけられる。

「お、お母さん。あのね」

「うん、うん。本当によかった。良かったわぁ……」

 そう言って涙をぬぐいつつ、僕の頭を抱きしめてくる。
 いや、そうじゃなくって――。

「違うんだ。ヒカリのおかげなんだよ!」

 ちょっと喉が痛んだけど、ハッキリと言えた。

「えっ、ヒカリ?」

「何のことだ?」

 え? という感じの母さんと父さんへ、震える唇で説明しようとする、けど。

「皆さん、とりあえず今日は寝かせてあげてください」

 お医者さんの一言で、僕は枕に頭を押し付けないといけなくなった。何とか思いを伝えようと考えていると、うつらうつらしてきてしまった。疲れたというか、とても不思議な、まるで温かくて柔らかい、透明な毛布にくるまれたみたいな感じで、ボク、は――。



 チュン、チュン。
 スズメの鳴き声が届くのとほぼ同じに、いや、それよりもほんの少し早く、眩しい明かりがカーテンの隙間をぬって、まぶた越しに僕へ伝える。
 光の束みたいに力強く、けど優しいそれはもちろん。

「……朝日ヒカリ、だ」

 目が微かに痛む中、大きく伸びをしつつ、ベッドから飛び降りる。
 まず、床を中心にあちこちを探した。まるで夢から抜け落ちた幻を追うみたいに。

「――どこにも、ない。か」

 けど、何となくわかっていた。きっと見つからないだろうって。
 カッターナイフだけじゃない。どこを探しても、どれだけ念じても、大声で叫んだって。

「――ヒカリは、もう、姿を見せてはくれないんだ」

 肩は震えているのに、不思議と身体の芯が温かい。胸に手を置きながら、時計を見る。

「今は、六時半か」

 よし。看護師さんに連絡して、お母さん達を呼んでもらおう。
 なぜかわからないけど、すごく学校に行きたい気分なんだ。勉強でも遊びでもいいから、一生懸命に頑張りたい気分なんだ!

「ナースコールは、これだね」

 力強く押してから待っている間、僕は窓の方へと歩み寄って、カーテンを思いっきり開ける。
 シャァッ。
 町がどんどん白く輝いていく。眩しいほどの光の洪水が、世界まちを満たしていく。

「ヒカリ……」

 そう言う僕のには、小さなさざ波がいくつも立っていた。こぼれないようにと、うえを見ながら、窓枠に手をかけた。

「いつか、いつかきっと、ね」

 震える手を、握りしめることで無理やり止める。

「――会え、る。かなぁ」

 お腹の中がヒクヒクする。肩が震えて、目が熱い。
 ヒカリ。ありがとう。ごめん。
 けど、ありがとう。ありが、とぅ。
 ……ガチャ。
 扉が開いてお母さんとお父さんが入って来る。欠伸あくびでごまかす僕は、ちょっとした話をしてから、荷物をまとめて、病室を出ていくことになった。
 やがて一番最後にこの病室を出ることとなった僕は、一回だけ振り返って、明るくなった室内へつぶやいた。

「ありがとう、ヒカリ。ありがとう――」

 カッターナイフ。
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