左遷された筆頭家老、城下の酒蔵で再起を図る~戦国の地方都市を支配した“酒”と経済と女たち~

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「佐竹様、ちょっと来てくれないか。あんたの目で見て欲しいものがある」

朝の掃除を終えた頃、沙夜が桶を両手で抱えたまま、私を呼んだ。裏手の水場に続く細道を先に立って歩いていく。

「どうした、また蔵の板が抜けたのか」

「ちがう。今度は水だよ、水。ここの井戸がどうもおかしい。源十が言うには“味が薄い”って」

「味が薄い、だと?」

「信じがたいけど、そう言うんだから見てくれ」

私は手桶を受け取り、そのまま井戸の縁に腰を下ろして水をすくった。唇をつけると、確かに……何かが物足りない。

「まるで、芯がない」

「でしょ。これじゃ良い酒はできないって、あの人がすごい剣幕でさ。どうする?」

「近隣に水源は?」

「三町先の農家に、小さな湧き水がある。昔は鶴屋もそこで仕込んでたって」

「それなら話は早い。明日、俺が直接出向こう」

「えっ、あんたが?」

「言葉を尽くす必要がある。お前では、煙たがられるだけだ」

「ひどいねぇ。でも……まあ、否定はしない」

「源十には言っておけ。水を替える。だが、湧き水を譲ってもらえなければ、この蔵は終わりだ」

「わかってる。……ねえ、佐竹様」

「なんだ」

「いま、楽しい?」

「……聞くな」

「ふふっ、なんだそりゃ」

翌朝、私は粗末な裃を身に纏い、一人で町を抜けた。馬は使えぬ。あえて歩くことで、顔を売るつもりだった。人々の視線が背に突き刺さる。城を追われた男が、何をしに歩いているのかとでも言いたげな顔つきだった。

「……口は出せど、手は貸さぬ。これぞ城下の流儀か」

農家の門を叩いたのは、日が真上に差す頃だった。

「どちら様で?」

「佐竹と申す。蔵の者だ。ご当主に一目、お願いできぬか」

「……蔵? まさか、あの潰れた……?」

「構わぬ。要件はひとつ、湧き水の件だ」

戸口に出てきたのは、四十過ぎの男だった。肌は日に焼け、農民としての年季がそのまま刻まれている。

「おお、あんたが佐竹様か。話は聞いてます。だがな、うちの水は干天続きで細くなってましてな」

「承知の上で伺った。だが、あの水でなければ、酒ができぬ」

「そりゃ……まあ。けどなあ、うちも家族が多くて。水をやるにも限りがあってな」

「代金は支払う。城からの補助は得られぬが、今ある手持ちで済むだけのことはする」

「……金の問題じゃないんです、佐竹様。こっちはな、あんた方に裏切られた口でしてな」

「裏切り?」

「昔、鶴屋が大火で蔵を焼いたとき、こっちにも飛び火が来た。あのとき、城は何もしてくれなかった。あんたも、黙って見てた口だ」

「……俺は、その件を知らなかった。だが、それは言い訳にはならんな」

「え?」

「詫びる。今更だが、詫びる。だが、今度は違う。今回は、俺が動いている」

「……あんたが、か」

「俺の名がある限り、礼も筋も通す。どうか、水を少し分けてくれ」

男はしばし黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……あんた、ずいぶん人が変わったな。昔はもっと、頭ごなしに命令してた」

「変わらなきゃ、ここでは生きられん」

「……わかった。一日、三桶だけ。それ以上は勘弁してくれ」

「感謝する。水代は、後日必ず持参する」

「べらぼうに高くつくぜ?」

「構わん。蔵が動けば、元は取れる」

「……へへ、言うねぇ。期待しとくよ」

私は深く頭を下げた。

帰り道、草むらの中で何かが動いた気配がした。

「……誰だ」

「おっと、見つかっちまったか」

草陰から現れたのは、見覚えのある顔だった。町でもよく噂に上がる、若い岡っ引き崩れの男、庄三。

「見回りの途中か?」

「まさか。ただの野次馬だよ。あんたが農家の水を分けて貰ったって噂が、もう町中に広まってる」

「……早いな」

「そりゃそうさ。お偉方が頭下げたってんだ。皆んな面白がってるよ。家老様が、泥まみれで頼みごとってな」

「好きに言わせておけ」

「でも、俺は悪くないと思ったぜ。人の顔、変わるもんだなって」

「ほう?」

「前のあんたは、ただの“硬ぇやつ”だった。けど今のあんたは……なんつうか、生きてるって感じがする」

「それは褒めているのか?」

「さあね。けど、あんたに手を貸す奴、これから増えると思うよ」

「……お前が最初か?」

「考えとく」

庄三はそれだけ言って、手を振って去っていった。

私は、夕暮れの空を仰いだ。赤い雲が、西へと流れていた。戻るべき蔵は、まだ崩れたままだ。それでも――私は歩き出した。何かが、確かに動き始めていた。
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