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ダリウスさんが呟いたのは、聞き取れるかどうかの小さな声だった。
「ここの茶は、いつも砂みたいに不味いんだ」
その言葉が、まるで合図だったかのように、他の兵士たちがどっと笑った。
ぴんと張詰めていた空気が、その一言で少しだけ緩んだのを感じる。
「違いない。王都の連中は、毎日美味いものを食っているんだろうな」
「茶どころか、水だって贅沢品だ。俺たちが命を張っている間も、あいつらは舞踏会で浮かれている」
一度緩んだ堰から水が溢れるように、兵士たちの口から不満がこぼれ出した。
その怒りの矛先は、私個人に向けられたものではない。
彼らがずっと胸に抱えてきた、王家や貴族への怒りだった。
私は何も言わず、ただ彼らの言葉に耳を傾けた。
彼らの話は、戦場での過酷な経験や、失った仲間への想いに及んだ。故郷の家族を心配する声もあった。
彼らはただ、誰かに聞いてほしかったのだ。
自分たちが抱える苦しみを、誰かに認めてほしかった。
私は時折、相槌を打つ。
「ええ」
「そうなのですね」
決して彼らの話を遮らない。評価もしない。
ただ、ありのままを受け止める。
相手の話をじっくり聞くことは、心を開かせるための最も良い方法だ。
相手に、自分は受け入れられているという安心感を与える。
「俺のダチは、目の前でオークに殺されたんだ。あいつ、妹が生まれたばかりだって、あんなに喜んでいたのに」
一人の若い兵士が、声を震わせながら叫んだ。
その大きな瞳には、みるみるうちに涙が滲んでいく。
私は彼の前にそっと膝をつき、震える彼と視線を合わせた。
「お辛かったでしょう。大切なご友人を亡くされて」
彼の悲しみを、そのまま言葉にして返す。
ひたすらに、彼の感情に寄り添う。
彼は私の言葉に、はっとしたように顔を上げた。
今まで、誰も彼の悲しみに正面から向き合おうとはしなかったのだろう。
「男だろう、泣くな」という言葉で、彼の痛みに蓋をしてきたのかもしれない。
「当たり前だろ」
彼は俯き、嗚咽を漏らし始めた。
周りの兵士たちも、彼を茶化すことはない。ただ黙って、その様子を見つめている。
誰もが、同じような痛みを胸に抱えているからだ。
私は彼の名前を尋ねた。
「あなたのお名前は」
「レオ、だ」
「レオさん。話してくれて、ありがとう。あなたは、とてもお友達思いの、優しい方なのですね」
私は彼の悲しみの裏にある、友人への深い愛情を言葉にした。
その瞬間、レオさんの堪えていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
子供のように、声を上げて泣きじゃくる。
それは、ずっと心の奥底に押し殺してきた、悲しみの塊だった。
そんなやり取りが、あちこちで始まった。
私は一人ひとりに名前を尋ね、彼らの話にじっくりと耳を傾けていった。
ボルツさんと名乗った屈強な兵士は、故郷の妻と子のことを語った。
ちゃんと暮らせているか、心配で夜も眠れないという。
彼は、読み書きができない。
そのため、手紙を出すことも、故郷からの手紙を読むこともできないのだ。
「妻も字が書けないから、手紙が来たこともないがな。だが、もし何かあっても、俺には知る術がないんだ」
その声には、深い無力感が滲んでいた。
私は彼の、無数の傷が刻まれた手を見つめた。
この手で、愛する家族を守るために戦い続けてきたのだろう。
「ボルツさん。もしよろしければ、私が手紙の代筆をしましょうか。あなたの言葉を、私が文字にして、奥様にお届けします」
私の提案に、ボルツさんは驚いて大きく目を見開いた。
「姫様が、俺なんかのために」
「家族を思う気持ちに、身分なんて関係ありません。それに、私も、誰かの役に立てることが嬉しいのです」
私はにっこりと微笑んだ。
ボルツさんはしばらく黙り込んでいた。
やがて、顔の皺をさらに深くして、力強く頷いた。
その様子を、少し離れた場所からギデオンさんが見ていた。
彼は何も言わず、ただ腕を組んで、厳しい表情でこちらを眺めている。
しかし、その瞳の奥に、先ほどまでとは違う色が浮かんでいた。
彼もまた、この騎士団の変化を目の当たりにして、何かを感じているのだろう。
私が次に話を聞いたのは、いつも皮肉ばかり言う、細身の兵士だった。
「俺は、どうせ長生きできない。前の戦いで、呪いを受けているんでな」
彼は、敵の呪術師が放った魔術で、胸に深い傷を負ったと語った。
それ以来、常に体調が優れない。乾いた咳が、止まらないのだと自嘲気味に続ける。
「医者にも見せたが、治せないってよ。まあ、いつ死んでもいいように、稼いだ金は全部酒に変えている」
彼の言葉は、投げやりだった。
しかし、その裏には隠しきれない、死への恐怖と未来への絶望が渦巻いていた。
こういう場合は、物事の捉え方を変えることで、心の負担を軽くできる。
「あなたは、ご自身のことを、呪われていると考えているのですね」
まずは、彼の認識をそのまま受け止める。
「ああ、そうだ。事実だからな」
「では、少しだけ、違う見方をしてみませんか。あなたは、死に至る呪いを受けながらも、今こうして生きています。それは、あなたの生命力が、呪いに打ち勝っているからだとは考えられませんか」
私の言葉に、彼はきょとんとした顔をした。
「呪いに、打ち勝っている」
「ええ。あなたは呪われた弱い人間ではなく、呪いと戦い続けている、強い人間なのです。毎日咳が出るのは、あなたの体が、必死に呪いを外に追い出そうとしている証拠です。そう考えてみるのは、どうでしょう」
私は、彼の状況を「絶望的な呪い」から、「戦いの証」へと意味を変えてみた。
彼は、呆然とした表情で自分の胸に手を当てた。
「俺が、強い」
「はい。とても」
私がはっきりとそう告げると、彼の瞳がわずかに揺れた。
すぐに何かが、劇的に変わるわけではないだろう。
でも、彼の心の中に、ほんの小さな希望の種が蒔かれたはずだ。
お茶会は、昼近くまで続いた。
あれだけ張り詰めていた騎士団の空気は、嘘のように和やかになっていた。
もちろん、まだ私への警戒心が、完全に解けたわけではない。
それでも、彼らの表情から、あからさまな敵意は消えていた。
代わりにそこにあったのは、この姫様は何者だ、という好奇心と戸惑いだった。
「さて、と。そろそろお開きにしましょうか。お茶も冷めてしまいましたし」
私がそう言って立ち上がると、ダリウスさんが少し名残惜しそうな顔で言った。
「姫様。また、来てくれるのか」
「ええ、もちろん。いつでも参ります。あなたの話、もっと聞かせてくださいね、ダリウスさん」
私が彼の名を呼んで微笑むと、彼は大きな体を少し縮こませた。そして、ぶっきらぼうに顔をそむけた。
耳が、少し赤くなっているのが見えた。
他の兵士たちも、どこか期待するような目で私を見ている。
私は彼ら全員に笑顔を向けて一礼し、エマと一緒にその場を後にした。
城の中に戻ると、ギデオンさんが廊下で待っていた。
「殿下。兵士たちに、何をなさったのですかな」
彼の声には、まだ疑いの色が濃い。
しかし、以前のような刺々しさは消えていた。
「何も。ただ、少しお話を伺っただけです」
「話を、ですか。それだけで、あいつらが」
ギデオンさんは信じられないといった表情で、訓練場の方を振り返った。
そこからは、今まで聞こえてこなかった、兵士たちの穏やかな話し声が聞こえてくる。
「人は誰でも、自分の話を聞いてほしい、と願う時があるものです。特に、辛い経験をされた方々は」
ギデオンさんは、何かを考えるように押し黙ってしまった。
彼の失われた左腕が、彼の過去の痛みを物語っている。
きっと、彼も誰にも言えない苦しみを、ずっと一人で抱えてきたのだろう。
「あなたのお話も、いつか聞かせてくださいね、ギデオン副団長」
私は彼にそう言い残し、自分の部屋へと戻った。
部屋に入るなり、エマが興奮した様子で私に駆け寄ってきた。
「リリアーナ様、すごいです。あんな騎士団の皆さんの顔、私、初めて見ました」
彼女は、自分のことのように喜んでくれている。
その純粋な心が、私にはとても嬉しかった。
「ありがとう、エマさん。でも、まだ始まったばかりですよ」
「はい。あの、私、もっとリリアーナ様のお手伝いがしたいです。何でも言ってください」
エマは、固く拳を握りしめている。
彼女の中に、確かな自信と目的が芽生え始めているのを感じた。
「では、お願いがあります。この辺境領のことで、もっと詳しく教えていただけますか。領民の方々が、どんな暮らしをしているのか、知りたいのです」
「はい、わかりました」
エマは、力強く頷いた。
彼女は、私にとって最初の、そして最も信頼できる協力者になってくれそうだ。
その日の午後、私は早速ボルツさんの手紙を代筆した。
紙と、インクを用意する。
ボルツさんは、私の部屋の前で、大きな体を小さくして、そわそわと待っていた。
「ひ、姫様。本当に、よろしいんで」
「もちろんです。さあ、こちらへ。奥様に、どんなことを伝えたいですか」
私は彼を椅子に座らせ、ペンを手に取った。
ボルツさんは、最初はひどく戸惑い、なかなか言葉が出てこない。
しかし、私が急かすことなく待っていると、ぽつり、ぽつりと話し始めてくれた。
妻の体を気遣う言葉。息子の成長を喜ぶ言葉。
そして、自分が帰れなくて申し訳ないという、切実な謝罪の言葉。
彼の言葉は、飾り気のない、素朴なものだった。
でも、そこには深い愛情が込められている。
私は、彼が語る一言一句を、丁寧に紙に書き記していった。
時々、言葉に詰まる彼に、いくつか質問を投げかけた。
「息子さんは、今おいくつなのですか」
「奥様の、どんなところが好きですか」
そんな質問に答えるうち、ボルツさんの表情はみるみるうちに和らいでいった。
最後には、照れくさそうに顔を赤らめながら、妻との思い出を語ってくれる。
手紙を書き終え、私がそれを読み上げて聞かせた。
すると、ボルツさんは、その傷だらけの顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
「ありがてえ。本当に、ありがてえや、姫様」
彼は何度も何度も、私に頭を下げた。
私は、彼の大きな背中を優しく撫でる。
言葉は、人を傷つける刃にもなる。
けれど、人を癒し、繋げる架け橋にもなるのだ。
私は、この地でその架け橋を、一つでも多く作っていきたい。
夕食の席で、アシュトン様は相変わらず無言だった。食事にも、ほとんど手をつけない。
しかし、いつもと少しだけ違うことがあった。
彼が、ちらりと、一度だけ私の方を見たのだ。
その灰色の瞳には、ほんの僅かな、問いかけるような色が浮かんでいた。
彼はきっと、ギデオンさんから騎士団の様子を聞いたのだろう。
そして、理解できない変化に、戸惑っている。
それでいい。今は、それで十分だ。
彼の心の氷が溶けるまでには、まだ時間がかかるだろう。
私は、焦らない。
一歩ずつ、着実に。
この城に、この土地に、温かい変化をもたらしていく。
その夜、私はエマから、この辺境領の厳しい現状について詳しく話を聞いた。
痩せた土地では作物が育たず、人々は常に飢えに苦しんでいること。
冬の寒さは想像以上に厳しく、凍え死ぬ者も少なくないこと。
そして、夜になれば魔物が森から現れ、人々は常に恐怖と隣り合わせで暮らしていること。
話を聞けば聞くほど、問題は山積みだった。
食糧問題、防寒対策、そして魔物からの防衛。
これらを解決するには、私一人の力ではどうにもならない。
領主であるアシュトン様の協力が、どうしても必要になる。
「でも、アシュトン様は、ほとんど誰ともお話になりませんから」
エマは、不安そうな顔で呟く。
確かに、今の彼に領地の問題を訴えても、まともに取り合ってはくれないだろう。
まずは、彼自身の心を癒やすことが先決だ。
しかし、直接的な働きかけは、かえって彼の心を閉ざさせてしまう危険がある。
どうすればいいだろうか。
私は机の上に置かれた、王都から持ってきた唯一の本に目をやった。
その時、ふと思いついた。
カウンセリングには、様々な技法があるのだ。
直接的な対話だけが全てではない。
「エマさん。このお城に、書庫はありますか」
「え、書庫、ですか。はい、確か北の塔に。でも、もう何年も使われていなくて、埃だらけだと思いますが」
「構いません。明日、少し案内していただけますか」
私の問いに、エマは不思議そうな顔をした。それでも、こくりと頷いてくれた。
私は、アシュトン様の心を癒やすための、新たな糸口を見つけたような気がしていた。
それは、言葉を介さない、穏やかな対話の始まりになるかもしれない。
「ここの茶は、いつも砂みたいに不味いんだ」
その言葉が、まるで合図だったかのように、他の兵士たちがどっと笑った。
ぴんと張詰めていた空気が、その一言で少しだけ緩んだのを感じる。
「違いない。王都の連中は、毎日美味いものを食っているんだろうな」
「茶どころか、水だって贅沢品だ。俺たちが命を張っている間も、あいつらは舞踏会で浮かれている」
一度緩んだ堰から水が溢れるように、兵士たちの口から不満がこぼれ出した。
その怒りの矛先は、私個人に向けられたものではない。
彼らがずっと胸に抱えてきた、王家や貴族への怒りだった。
私は何も言わず、ただ彼らの言葉に耳を傾けた。
彼らの話は、戦場での過酷な経験や、失った仲間への想いに及んだ。故郷の家族を心配する声もあった。
彼らはただ、誰かに聞いてほしかったのだ。
自分たちが抱える苦しみを、誰かに認めてほしかった。
私は時折、相槌を打つ。
「ええ」
「そうなのですね」
決して彼らの話を遮らない。評価もしない。
ただ、ありのままを受け止める。
相手の話をじっくり聞くことは、心を開かせるための最も良い方法だ。
相手に、自分は受け入れられているという安心感を与える。
「俺のダチは、目の前でオークに殺されたんだ。あいつ、妹が生まれたばかりだって、あんなに喜んでいたのに」
一人の若い兵士が、声を震わせながら叫んだ。
その大きな瞳には、みるみるうちに涙が滲んでいく。
私は彼の前にそっと膝をつき、震える彼と視線を合わせた。
「お辛かったでしょう。大切なご友人を亡くされて」
彼の悲しみを、そのまま言葉にして返す。
ひたすらに、彼の感情に寄り添う。
彼は私の言葉に、はっとしたように顔を上げた。
今まで、誰も彼の悲しみに正面から向き合おうとはしなかったのだろう。
「男だろう、泣くな」という言葉で、彼の痛みに蓋をしてきたのかもしれない。
「当たり前だろ」
彼は俯き、嗚咽を漏らし始めた。
周りの兵士たちも、彼を茶化すことはない。ただ黙って、その様子を見つめている。
誰もが、同じような痛みを胸に抱えているからだ。
私は彼の名前を尋ねた。
「あなたのお名前は」
「レオ、だ」
「レオさん。話してくれて、ありがとう。あなたは、とてもお友達思いの、優しい方なのですね」
私は彼の悲しみの裏にある、友人への深い愛情を言葉にした。
その瞬間、レオさんの堪えていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
子供のように、声を上げて泣きじゃくる。
それは、ずっと心の奥底に押し殺してきた、悲しみの塊だった。
そんなやり取りが、あちこちで始まった。
私は一人ひとりに名前を尋ね、彼らの話にじっくりと耳を傾けていった。
ボルツさんと名乗った屈強な兵士は、故郷の妻と子のことを語った。
ちゃんと暮らせているか、心配で夜も眠れないという。
彼は、読み書きができない。
そのため、手紙を出すことも、故郷からの手紙を読むこともできないのだ。
「妻も字が書けないから、手紙が来たこともないがな。だが、もし何かあっても、俺には知る術がないんだ」
その声には、深い無力感が滲んでいた。
私は彼の、無数の傷が刻まれた手を見つめた。
この手で、愛する家族を守るために戦い続けてきたのだろう。
「ボルツさん。もしよろしければ、私が手紙の代筆をしましょうか。あなたの言葉を、私が文字にして、奥様にお届けします」
私の提案に、ボルツさんは驚いて大きく目を見開いた。
「姫様が、俺なんかのために」
「家族を思う気持ちに、身分なんて関係ありません。それに、私も、誰かの役に立てることが嬉しいのです」
私はにっこりと微笑んだ。
ボルツさんはしばらく黙り込んでいた。
やがて、顔の皺をさらに深くして、力強く頷いた。
その様子を、少し離れた場所からギデオンさんが見ていた。
彼は何も言わず、ただ腕を組んで、厳しい表情でこちらを眺めている。
しかし、その瞳の奥に、先ほどまでとは違う色が浮かんでいた。
彼もまた、この騎士団の変化を目の当たりにして、何かを感じているのだろう。
私が次に話を聞いたのは、いつも皮肉ばかり言う、細身の兵士だった。
「俺は、どうせ長生きできない。前の戦いで、呪いを受けているんでな」
彼は、敵の呪術師が放った魔術で、胸に深い傷を負ったと語った。
それ以来、常に体調が優れない。乾いた咳が、止まらないのだと自嘲気味に続ける。
「医者にも見せたが、治せないってよ。まあ、いつ死んでもいいように、稼いだ金は全部酒に変えている」
彼の言葉は、投げやりだった。
しかし、その裏には隠しきれない、死への恐怖と未来への絶望が渦巻いていた。
こういう場合は、物事の捉え方を変えることで、心の負担を軽くできる。
「あなたは、ご自身のことを、呪われていると考えているのですね」
まずは、彼の認識をそのまま受け止める。
「ああ、そうだ。事実だからな」
「では、少しだけ、違う見方をしてみませんか。あなたは、死に至る呪いを受けながらも、今こうして生きています。それは、あなたの生命力が、呪いに打ち勝っているからだとは考えられませんか」
私の言葉に、彼はきょとんとした顔をした。
「呪いに、打ち勝っている」
「ええ。あなたは呪われた弱い人間ではなく、呪いと戦い続けている、強い人間なのです。毎日咳が出るのは、あなたの体が、必死に呪いを外に追い出そうとしている証拠です。そう考えてみるのは、どうでしょう」
私は、彼の状況を「絶望的な呪い」から、「戦いの証」へと意味を変えてみた。
彼は、呆然とした表情で自分の胸に手を当てた。
「俺が、強い」
「はい。とても」
私がはっきりとそう告げると、彼の瞳がわずかに揺れた。
すぐに何かが、劇的に変わるわけではないだろう。
でも、彼の心の中に、ほんの小さな希望の種が蒔かれたはずだ。
お茶会は、昼近くまで続いた。
あれだけ張り詰めていた騎士団の空気は、嘘のように和やかになっていた。
もちろん、まだ私への警戒心が、完全に解けたわけではない。
それでも、彼らの表情から、あからさまな敵意は消えていた。
代わりにそこにあったのは、この姫様は何者だ、という好奇心と戸惑いだった。
「さて、と。そろそろお開きにしましょうか。お茶も冷めてしまいましたし」
私がそう言って立ち上がると、ダリウスさんが少し名残惜しそうな顔で言った。
「姫様。また、来てくれるのか」
「ええ、もちろん。いつでも参ります。あなたの話、もっと聞かせてくださいね、ダリウスさん」
私が彼の名を呼んで微笑むと、彼は大きな体を少し縮こませた。そして、ぶっきらぼうに顔をそむけた。
耳が、少し赤くなっているのが見えた。
他の兵士たちも、どこか期待するような目で私を見ている。
私は彼ら全員に笑顔を向けて一礼し、エマと一緒にその場を後にした。
城の中に戻ると、ギデオンさんが廊下で待っていた。
「殿下。兵士たちに、何をなさったのですかな」
彼の声には、まだ疑いの色が濃い。
しかし、以前のような刺々しさは消えていた。
「何も。ただ、少しお話を伺っただけです」
「話を、ですか。それだけで、あいつらが」
ギデオンさんは信じられないといった表情で、訓練場の方を振り返った。
そこからは、今まで聞こえてこなかった、兵士たちの穏やかな話し声が聞こえてくる。
「人は誰でも、自分の話を聞いてほしい、と願う時があるものです。特に、辛い経験をされた方々は」
ギデオンさんは、何かを考えるように押し黙ってしまった。
彼の失われた左腕が、彼の過去の痛みを物語っている。
きっと、彼も誰にも言えない苦しみを、ずっと一人で抱えてきたのだろう。
「あなたのお話も、いつか聞かせてくださいね、ギデオン副団長」
私は彼にそう言い残し、自分の部屋へと戻った。
部屋に入るなり、エマが興奮した様子で私に駆け寄ってきた。
「リリアーナ様、すごいです。あんな騎士団の皆さんの顔、私、初めて見ました」
彼女は、自分のことのように喜んでくれている。
その純粋な心が、私にはとても嬉しかった。
「ありがとう、エマさん。でも、まだ始まったばかりですよ」
「はい。あの、私、もっとリリアーナ様のお手伝いがしたいです。何でも言ってください」
エマは、固く拳を握りしめている。
彼女の中に、確かな自信と目的が芽生え始めているのを感じた。
「では、お願いがあります。この辺境領のことで、もっと詳しく教えていただけますか。領民の方々が、どんな暮らしをしているのか、知りたいのです」
「はい、わかりました」
エマは、力強く頷いた。
彼女は、私にとって最初の、そして最も信頼できる協力者になってくれそうだ。
その日の午後、私は早速ボルツさんの手紙を代筆した。
紙と、インクを用意する。
ボルツさんは、私の部屋の前で、大きな体を小さくして、そわそわと待っていた。
「ひ、姫様。本当に、よろしいんで」
「もちろんです。さあ、こちらへ。奥様に、どんなことを伝えたいですか」
私は彼を椅子に座らせ、ペンを手に取った。
ボルツさんは、最初はひどく戸惑い、なかなか言葉が出てこない。
しかし、私が急かすことなく待っていると、ぽつり、ぽつりと話し始めてくれた。
妻の体を気遣う言葉。息子の成長を喜ぶ言葉。
そして、自分が帰れなくて申し訳ないという、切実な謝罪の言葉。
彼の言葉は、飾り気のない、素朴なものだった。
でも、そこには深い愛情が込められている。
私は、彼が語る一言一句を、丁寧に紙に書き記していった。
時々、言葉に詰まる彼に、いくつか質問を投げかけた。
「息子さんは、今おいくつなのですか」
「奥様の、どんなところが好きですか」
そんな質問に答えるうち、ボルツさんの表情はみるみるうちに和らいでいった。
最後には、照れくさそうに顔を赤らめながら、妻との思い出を語ってくれる。
手紙を書き終え、私がそれを読み上げて聞かせた。
すると、ボルツさんは、その傷だらけの顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
「ありがてえ。本当に、ありがてえや、姫様」
彼は何度も何度も、私に頭を下げた。
私は、彼の大きな背中を優しく撫でる。
言葉は、人を傷つける刃にもなる。
けれど、人を癒し、繋げる架け橋にもなるのだ。
私は、この地でその架け橋を、一つでも多く作っていきたい。
夕食の席で、アシュトン様は相変わらず無言だった。食事にも、ほとんど手をつけない。
しかし、いつもと少しだけ違うことがあった。
彼が、ちらりと、一度だけ私の方を見たのだ。
その灰色の瞳には、ほんの僅かな、問いかけるような色が浮かんでいた。
彼はきっと、ギデオンさんから騎士団の様子を聞いたのだろう。
そして、理解できない変化に、戸惑っている。
それでいい。今は、それで十分だ。
彼の心の氷が溶けるまでには、まだ時間がかかるだろう。
私は、焦らない。
一歩ずつ、着実に。
この城に、この土地に、温かい変化をもたらしていく。
その夜、私はエマから、この辺境領の厳しい現状について詳しく話を聞いた。
痩せた土地では作物が育たず、人々は常に飢えに苦しんでいること。
冬の寒さは想像以上に厳しく、凍え死ぬ者も少なくないこと。
そして、夜になれば魔物が森から現れ、人々は常に恐怖と隣り合わせで暮らしていること。
話を聞けば聞くほど、問題は山積みだった。
食糧問題、防寒対策、そして魔物からの防衛。
これらを解決するには、私一人の力ではどうにもならない。
領主であるアシュトン様の協力が、どうしても必要になる。
「でも、アシュトン様は、ほとんど誰ともお話になりませんから」
エマは、不安そうな顔で呟く。
確かに、今の彼に領地の問題を訴えても、まともに取り合ってはくれないだろう。
まずは、彼自身の心を癒やすことが先決だ。
しかし、直接的な働きかけは、かえって彼の心を閉ざさせてしまう危険がある。
どうすればいいだろうか。
私は机の上に置かれた、王都から持ってきた唯一の本に目をやった。
その時、ふと思いついた。
カウンセリングには、様々な技法があるのだ。
直接的な対話だけが全てではない。
「エマさん。このお城に、書庫はありますか」
「え、書庫、ですか。はい、確か北の塔に。でも、もう何年も使われていなくて、埃だらけだと思いますが」
「構いません。明日、少し案内していただけますか」
私の問いに、エマは不思議そうな顔をした。それでも、こくりと頷いてくれた。
私は、アシュトン様の心を癒やすための、新たな糸口を見つけたような気がしていた。
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