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黄金色に輝く『記憶を紡ぐ糸』が完成してから、高峰の上は嘘のような静寂に包まれていた。私たちの仕掛けた防衛網は沈黙を守り続け、術師たちは次なる一手を慎重に練っているのだろう。その沈黙が、逆に決戦の時が近いことを私たちに告げていた。
私とエルは残された時間を穏やかに過ごしていた。互いの間にあった壁が完全に取り払われた今、私たちはごく自然に家族のように寄り添っていた。食事の準備をする時も焚き火の番をする時もその視線はいつも互いを捉え、言葉を交わさずとも相手が何を考えているのか、何を感じているのかが手に取るように分かった。
そしてその日はあまりにも唐突に、しかしあまりにも厳かに訪れた。
ゴオオオォォン…
それは地鳴りのような深くて重い響きだった。洞窟全体がびりびりと震えている。けれどそれは決して暴力的な振動ではない。まるで巨大な鐘がこの世の終わりと始まりを告げるかのように、厳かに鳴り響いているのだ。それはイグニス様の最後の呼び声だった。
私とエルは同時に顔を上げた。その瞳に覚悟の色が宿る。
「…時間だ」
エルの声は震えていなかった。
「ええ」
私も力強く頷いた。
私たちは儀式に必要な祭具一式を手にすると、洞窟の奥深くへと足を踏み入れた。これまで決して立ち入ることのなかった、聖域の中の聖域。そこに古竜イグニス様は静かに横たわっていた。山と見紛うほどの巨体。陽光を浴びて鈍く輝いていた鱗はその輝きを失い、まるで古びた石のようになっている。閉じられた瞼は丘のように盛り上がり、天を突く角は永い歳月の重みに耐えかねるかのように力なく垂れていた。けれどその姿には不思議なほどの威厳と神聖さが満ちており、一つの偉大な生命がその役目を終えようとしている荘厳な光景に、私はただ圧倒されていた。
私たちが近づくとイグニス様の巨大な瞼がゆっくりと持ち上げられ、その瞳が私たちを捉えた。その瞳は溶かした黄金のように深く、どこまでも澄み切っていた。そこには千年の時を生きた者の計り知れないほどの知恵と慈愛が宿っている。
『…よく来てくれた。竜葬司の娘よ』
その声は直接私の脳に響いた。テレパシーだ。もう声を出す力さえ残ってはいないのだろう。
『そして、我が友、エルよ』
イグニス様の視線が私の隣に立つエルへと注がれる。
「イグニス…」
エルはその場に膝をつき嗚咽を漏らした。友との最後の対面。
『泣くな、エル。お前のそんな顔を見ながら旅立つのは、寝覚めが悪い』
イグニス様の声には穏やかながらも、親が子を諭すような力強さがあった。
『リーナ、と言ったな。娘よ。我が魂の最後の旅路を、お前に託す。光栄に思う』
「はい。竜葬司として最高の儀式を、お約束します」
私は深々と頭を下げた。イグニス様は満足そうに一度頷くと、再びその視線をエルへと戻した。
『エル。お前には感謝しかない。この千年、お前がそばにいてくれたからこそ我は孤独ではなかった。お前は最高の番人であり、最高の友だった』
「俺の方こそだ、イグニス! 俺は、お前がいたから…!」
エルは言葉にならず、ただ子供のように涙を流し続ける。
『約束しろ、エル』
イグニス様の声が少しだけ厳しくなった。
『我がいなくなった後も、お前は生きるのだ。ただ生きるのではない。幸せに生きろ。我の死に囚われるな。それが我の最後の願いだ』
そしてイグニス様の黄金の瞳が、私の方をちらりと見た。その視線に込められた意味を、私は痛いほど理解した。この孤独で不器用で、でも誰よりも優しい青年を頼む、と。
「…ああ」
エルは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて叫んだ。
「約束する! 俺は幸せになる! だからお前も安らかに逝ってくれ、友よ!」
その言葉を聞いてイグニス様は本当に嬉しそうに、満足そうにその黄金の瞳を細めた。
『…それで、いい』
その言葉を最後に、イグニス様の体から凄まじい量の魔力が溢れ出し始めた。それはまるでダムが決壊したかのような圧倒的な奔流。高峰全体がその魔力によって激しく震動する。空気がびりびりと悲鳴を上げ、洞窟の壁がミシミシと音を立てた。このままでは山そのものがこの莫大な魔力に耐えきれずに崩壊してしまう。そしてこの強大な魔力の波動は必ず奴らを呼び寄せるだろう。術師たちがこの瞬間を今か今かと待ち構えているはずだ。
イグニス様の巨大な瞳がゆっくりと、永遠に閉じられていく。一つの伝説がその幕を閉じた。
洞窟の中に完全な静寂が訪れる。それは世界の終わりを告げるかのような、深くて重い沈黙だった。
私はまだその場で泣き崩れているエルの肩にそっと手を置いた。彼ははっとしたように顔を上げる。その瞳に、私は竜葬司としての全ての覚悟を込めて告げた。
「エル、始めましょう」
「私たちの、最後の仕事を」
彼の瞳に再び番人としての強い光が宿る。彼は力強く頷いた。
私とエルは残された時間を穏やかに過ごしていた。互いの間にあった壁が完全に取り払われた今、私たちはごく自然に家族のように寄り添っていた。食事の準備をする時も焚き火の番をする時もその視線はいつも互いを捉え、言葉を交わさずとも相手が何を考えているのか、何を感じているのかが手に取るように分かった。
そしてその日はあまりにも唐突に、しかしあまりにも厳かに訪れた。
ゴオオオォォン…
それは地鳴りのような深くて重い響きだった。洞窟全体がびりびりと震えている。けれどそれは決して暴力的な振動ではない。まるで巨大な鐘がこの世の終わりと始まりを告げるかのように、厳かに鳴り響いているのだ。それはイグニス様の最後の呼び声だった。
私とエルは同時に顔を上げた。その瞳に覚悟の色が宿る。
「…時間だ」
エルの声は震えていなかった。
「ええ」
私も力強く頷いた。
私たちは儀式に必要な祭具一式を手にすると、洞窟の奥深くへと足を踏み入れた。これまで決して立ち入ることのなかった、聖域の中の聖域。そこに古竜イグニス様は静かに横たわっていた。山と見紛うほどの巨体。陽光を浴びて鈍く輝いていた鱗はその輝きを失い、まるで古びた石のようになっている。閉じられた瞼は丘のように盛り上がり、天を突く角は永い歳月の重みに耐えかねるかのように力なく垂れていた。けれどその姿には不思議なほどの威厳と神聖さが満ちており、一つの偉大な生命がその役目を終えようとしている荘厳な光景に、私はただ圧倒されていた。
私たちが近づくとイグニス様の巨大な瞼がゆっくりと持ち上げられ、その瞳が私たちを捉えた。その瞳は溶かした黄金のように深く、どこまでも澄み切っていた。そこには千年の時を生きた者の計り知れないほどの知恵と慈愛が宿っている。
『…よく来てくれた。竜葬司の娘よ』
その声は直接私の脳に響いた。テレパシーだ。もう声を出す力さえ残ってはいないのだろう。
『そして、我が友、エルよ』
イグニス様の視線が私の隣に立つエルへと注がれる。
「イグニス…」
エルはその場に膝をつき嗚咽を漏らした。友との最後の対面。
『泣くな、エル。お前のそんな顔を見ながら旅立つのは、寝覚めが悪い』
イグニス様の声には穏やかながらも、親が子を諭すような力強さがあった。
『リーナ、と言ったな。娘よ。我が魂の最後の旅路を、お前に託す。光栄に思う』
「はい。竜葬司として最高の儀式を、お約束します」
私は深々と頭を下げた。イグニス様は満足そうに一度頷くと、再びその視線をエルへと戻した。
『エル。お前には感謝しかない。この千年、お前がそばにいてくれたからこそ我は孤独ではなかった。お前は最高の番人であり、最高の友だった』
「俺の方こそだ、イグニス! 俺は、お前がいたから…!」
エルは言葉にならず、ただ子供のように涙を流し続ける。
『約束しろ、エル』
イグニス様の声が少しだけ厳しくなった。
『我がいなくなった後も、お前は生きるのだ。ただ生きるのではない。幸せに生きろ。我の死に囚われるな。それが我の最後の願いだ』
そしてイグニス様の黄金の瞳が、私の方をちらりと見た。その視線に込められた意味を、私は痛いほど理解した。この孤独で不器用で、でも誰よりも優しい青年を頼む、と。
「…ああ」
エルは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて叫んだ。
「約束する! 俺は幸せになる! だからお前も安らかに逝ってくれ、友よ!」
その言葉を聞いてイグニス様は本当に嬉しそうに、満足そうにその黄金の瞳を細めた。
『…それで、いい』
その言葉を最後に、イグニス様の体から凄まじい量の魔力が溢れ出し始めた。それはまるでダムが決壊したかのような圧倒的な奔流。高峰全体がその魔力によって激しく震動する。空気がびりびりと悲鳴を上げ、洞窟の壁がミシミシと音を立てた。このままでは山そのものがこの莫大な魔力に耐えきれずに崩壊してしまう。そしてこの強大な魔力の波動は必ず奴らを呼び寄せるだろう。術師たちがこの瞬間を今か今かと待ち構えているはずだ。
イグニス様の巨大な瞳がゆっくりと、永遠に閉じられていく。一つの伝説がその幕を閉じた。
洞窟の中に完全な静寂が訪れる。それは世界の終わりを告げるかのような、深くて重い沈黙だった。
私はまだその場で泣き崩れているエルの肩にそっと手を置いた。彼ははっとしたように顔を上げる。その瞳に、私は竜葬司としての全ての覚悟を込めて告げた。
「エル、始めましょう」
「私たちの、最後の仕事を」
彼の瞳に再び番人としての強い光が宿る。彼は力強く頷いた。
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