43 / 243
第2章 おじさんとコーヒー
第43話
今日のテーマは、透過式。
ドリップ──この単純にして、奥深い世界。
「さて、始めるか」
棚の中から、年季の入ったドリッパーを取り出す。
素材は陶器。厚みがあって、保温性に優れている。
フィルターは紙製を選んだ。
ネルも金属も悪くないが、今日は“軽やかさ”を求めたかった。
グラインダーに豆をセットする。
今回は中細挽き。
少しだけ粗めにして、クリアな甘みを引き出す。
挽きたての粉は、甘やかな香りを放っている。
鼻を近づけるだけで、自然と表情が緩んだ。
「うん、いい香りだ」
ポットに湯を沸かす。
温度は92度前後。
これより高すぎれば苦味が出るし、低すぎれば酸味が立ちすぎる。
タイミングを見計らって、ペーパーを湯通しする。
余計な紙の匂いを飛ばすためだ。
ドリッパーをカップに載せ、粉をふんわりと落とし込む。
表面を平らにならし、いざ、抽出開始。
「……蒸らしからだな」
タイマーを起動し、まずは少量のお湯を粉全体に注ぐ。
ふわり、と膨らむコーヒードーム。
粉の中に眠っていた炭酸ガスが、ぷくぷくと湧き上がる。
香りが一段と濃くなる。
その様子を黙って見守る。
慌てない。急がない。
30秒。
じっと蒸らしを終えたら、中心から小さな円を描くように、そっと湯を注ぐ。
お湯は太くも細くもなく、糸のような流れを意識する。
粉が暴れないよう、優しく。
──この瞬間が、たまらない。
何も考えず、ただ粉とお湯に集中する時間。
湯を落とすスピード、温度、量、そのすべてが味に直結する。
失敗すれば、雑味が出る。
うまくいけば、きらきらとした一杯が生まれる。
粉全体に湯を行き渡らせたら、一度止める。
湯が落ちきるのを待ち、再び注ぎ始める。
二投目。
今度は、外周から内側に向かって。
重力と対話するような感覚だ。
──ぽた、ぽた、ぽた。
一滴一滴が、黄金色にきらめきながら、サーバーへと落ちていく。
この音だけで、心が洗われる気がした。
すべての湯を落とし終えたとき、カップから立ちのぼる香りに、思わず深く息を吸った。
「……いい感じだ」
ゆっくりカップを手に取り、口をつける。
──透き通るような甘み。
口の中に広がるのは、柔らかな果実のような酸味と、きゅっと締まった後味。
雑味はない。
苦味も控えめ。
ただただ、まろやかで、清らかだ。
「やっぱり……ドリップは、いいな」
どんなに技術が進歩しても、どれだけ手軽な抽出器具が出ても。
この“手で淹れる”行為だけは、特別だと思う。
粉と対話し、湯を操り、一杯を育てる。
機械的な正確さではなく、指先と感覚だけで、味を作る。
失敗することもあるし、思わぬ成功を引き寄せることもある。
──まるで人生みたいだな。
「……なんてな」
誰に聞かせるでもない独り言を吐き出して、もう一口、啜った。
さっきよりも、甘みが強くなっている。
温度が下がったことで、別の顔を見せ始めた。
こんなふうに、時間とともに味わいが変わるのも、透過式の魅力だ。
飲みながら、頭の中で次のレシピを考える。
「次は、ネルで試してみるか」
ネルドリップは、紙とはまったく違う。
油分を吸わないぶん、コクがぐっと強くなる。
しっとりとした舌触り。
丸みのある甘さ。
そういう一杯も、たまには悪くない。
「それにしても……」
ふと、カップを眺めながら思った。
この世界に来てから、ずいぶん自由になった。
人の顔色を窺うこともない。
締め切りに追われることもない。
誰に命令されるでもなく、ただ、自分のためだけに、珈琲を淹れる。
こんな贅沢があるかと、心から思う。
カップを置き、タバコに火をつける。
珈琲と煙草。
この二つがあれば、それでいい。
何も要らない。
もう一杯、淹れようか。
そんな気持ちになりながら、再びポットに湯を満たした。
ドリップ──この単純にして、奥深い世界。
「さて、始めるか」
棚の中から、年季の入ったドリッパーを取り出す。
素材は陶器。厚みがあって、保温性に優れている。
フィルターは紙製を選んだ。
ネルも金属も悪くないが、今日は“軽やかさ”を求めたかった。
グラインダーに豆をセットする。
今回は中細挽き。
少しだけ粗めにして、クリアな甘みを引き出す。
挽きたての粉は、甘やかな香りを放っている。
鼻を近づけるだけで、自然と表情が緩んだ。
「うん、いい香りだ」
ポットに湯を沸かす。
温度は92度前後。
これより高すぎれば苦味が出るし、低すぎれば酸味が立ちすぎる。
タイミングを見計らって、ペーパーを湯通しする。
余計な紙の匂いを飛ばすためだ。
ドリッパーをカップに載せ、粉をふんわりと落とし込む。
表面を平らにならし、いざ、抽出開始。
「……蒸らしからだな」
タイマーを起動し、まずは少量のお湯を粉全体に注ぐ。
ふわり、と膨らむコーヒードーム。
粉の中に眠っていた炭酸ガスが、ぷくぷくと湧き上がる。
香りが一段と濃くなる。
その様子を黙って見守る。
慌てない。急がない。
30秒。
じっと蒸らしを終えたら、中心から小さな円を描くように、そっと湯を注ぐ。
お湯は太くも細くもなく、糸のような流れを意識する。
粉が暴れないよう、優しく。
──この瞬間が、たまらない。
何も考えず、ただ粉とお湯に集中する時間。
湯を落とすスピード、温度、量、そのすべてが味に直結する。
失敗すれば、雑味が出る。
うまくいけば、きらきらとした一杯が生まれる。
粉全体に湯を行き渡らせたら、一度止める。
湯が落ちきるのを待ち、再び注ぎ始める。
二投目。
今度は、外周から内側に向かって。
重力と対話するような感覚だ。
──ぽた、ぽた、ぽた。
一滴一滴が、黄金色にきらめきながら、サーバーへと落ちていく。
この音だけで、心が洗われる気がした。
すべての湯を落とし終えたとき、カップから立ちのぼる香りに、思わず深く息を吸った。
「……いい感じだ」
ゆっくりカップを手に取り、口をつける。
──透き通るような甘み。
口の中に広がるのは、柔らかな果実のような酸味と、きゅっと締まった後味。
雑味はない。
苦味も控えめ。
ただただ、まろやかで、清らかだ。
「やっぱり……ドリップは、いいな」
どんなに技術が進歩しても、どれだけ手軽な抽出器具が出ても。
この“手で淹れる”行為だけは、特別だと思う。
粉と対話し、湯を操り、一杯を育てる。
機械的な正確さではなく、指先と感覚だけで、味を作る。
失敗することもあるし、思わぬ成功を引き寄せることもある。
──まるで人生みたいだな。
「……なんてな」
誰に聞かせるでもない独り言を吐き出して、もう一口、啜った。
さっきよりも、甘みが強くなっている。
温度が下がったことで、別の顔を見せ始めた。
こんなふうに、時間とともに味わいが変わるのも、透過式の魅力だ。
飲みながら、頭の中で次のレシピを考える。
「次は、ネルで試してみるか」
ネルドリップは、紙とはまったく違う。
油分を吸わないぶん、コクがぐっと強くなる。
しっとりとした舌触り。
丸みのある甘さ。
そういう一杯も、たまには悪くない。
「それにしても……」
ふと、カップを眺めながら思った。
この世界に来てから、ずいぶん自由になった。
人の顔色を窺うこともない。
締め切りに追われることもない。
誰に命令されるでもなく、ただ、自分のためだけに、珈琲を淹れる。
こんな贅沢があるかと、心から思う。
カップを置き、タバコに火をつける。
珈琲と煙草。
この二つがあれば、それでいい。
何も要らない。
もう一杯、淹れようか。
そんな気持ちになりながら、再びポットに湯を満たした。
あなたにおすすめの小説
おばさんは、ひっそり暮らしたい
蝋梅
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。
たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。
さて、生きるには働かなければならない。
「仕方がない、ご飯屋にするか」
栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
神様の手違いで異世界転生した俺の魅了チートが、勇者のハーレムを根こそぎ奪って溺愛ハーレム作りました!
まさき
恋愛
ブラック企業で働き続けた俺が過労で倒れ、気づけば異世界に転生していた。
「手違いでごめんなさい」と神様に言われ、お詫びに貰ったのは【魅了】スキル——でも俺には使ってる自覚がない。
ただ普通に生きてるだけなのに、気づけばエルフが隣で微笑んでいる。
獣人族が耳を赤くしてついてくる。元魔王の娘が手料理を持ってくる。
そして10年かけてハーレムを作った勇者が、なぜか仲間を全員失っていく。
「手違い転生者に何故負けるんだああ!?」
社畜だった俺の、異世界溺愛ハーレム生活——ざまぁあり、甘々あり、笑いあり。
1話完結のオムニバス形式でお届けします!
【完結】転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~
きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。
前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。
スマホアプリで衣食住確保の異世界スローライフ 〜面倒なことは避けたいのに怖いものなしのスライムと弱気なドラゴンと一緒だとそうもいかず〜
もーりんもも
ファンタジー
命より大事なスマホを拾おうとして命を落とした俺、武田義経。
ああ死んだと思った瞬間、俺はスマホの神様に祈った。スマホのために命を落としたんだから、お慈悲を!
目を開けると、俺は異世界に救世主として召喚されていた。それなのに俺のステータスは平均よりやや上といった程度。
スキル欄には見覚えのある虫眼鏡アイコンが。だが異世界人にはただの丸印に見えたらしい。
何やら漂う失望感。結局、救世主ではなく、ただの用無しと認定され、宮殿の使用人という身分に。
やれやれ。スキル欄の虫眼鏡をタップすると検索バーが出た。
「ご飯」と検索すると、見慣れたアプリがずらずらと! アプリがダウンロードできるんだ!
ヤバくない? 不便な異世界だけど、楽してダラダラ生きていこう――そう思っていた矢先、命を狙われ国を出ることに。
ひょんなことから知り合った老婆のお陰でなんとか逃げ出したけど、気がつけば、いつの間にかスライムやらドラゴンやらに囲まれて、どんどん不本意な方向へ……。
2025/04/04-06 HOTランキング1位をいただきました! 応援ありがとうございます!
※AI学習禁止・無断転載禁止・無断翻訳禁止・無断朗読禁止
勇者召喚に巻き込まれ、異世界転移・貰えたスキルも鑑定だけ・・・・だけど、何かあるはず!
よっしぃ
ファンタジー
9月11日、12日、ファンタジー部門2位達成中です!
僕はもうすぐ25歳になる常山 順平 24歳。
つねやま じゅんぺいと読む。
何処にでもいる普通のサラリーマン。
仕事帰りの電車で、吊革に捕まりうつらうつらしていると・・・・
突然気分が悪くなり、倒れそうになる。
周りを見ると、周りの人々もどんどん倒れている。明らかな異常事態。
何が起こったか分からないまま、気を失う。
気が付けば電車ではなく、どこかの建物。
周りにも人が倒れている。
僕と同じようなリーマンから、数人の女子高生や男子学生、仕事帰りの若い女性や、定年近いおっさんとか。
気が付けば誰かがしゃべってる。
どうやらよくある勇者召喚とやらが行われ、たまたま僕は異世界転移に巻き込まれたようだ。
そして・・・・帰るには、魔王を倒してもらう必要がある・・・・と。
想定外の人数がやって来たらしく、渡すギフト・・・・スキルらしいけど、それも数が限られていて、勇者として召喚した人以外、つまり巻き込まれて転移したその他大勢は、1人1つのギフト?スキルを。あとは支度金と装備一式を渡されるらしい。
どうしても無理な人は、戻ってきたら面倒を見ると。
一方的だが、日本に戻るには、勇者が魔王を倒すしかなく、それを待つのもよし、自ら勇者に協力するもよし・・・・
ですが、ここで問題が。
スキルやギフトにはそれぞれランク、格、強さがバラバラで・・・・
より良いスキルは早い者勝ち。
我も我もと群がる人々。
そんな中突き飛ばされて倒れる1人の女性が。
僕はその女性を助け・・・同じように突き飛ばされ、またもや気を失う。
気が付けば2人だけになっていて・・・・
スキルも2つしか残っていない。
一つは鑑定。
もう一つは家事全般。
両方とも微妙だ・・・・
彼女の名は才村 友郁
さいむら ゆか。 23歳。
今年社会人になりたて。
取り残された2人が、すったもんだで生き残り、最終的には成り上がるお話。
ダンジョンを拾ったので、スキル〈ホームセンター〉で好き勝手リフォームします
ランド犬
ファンタジー
異世界に転移した佐々木悠人は、召喚でも勇者でもなかった。ただ迷い込んだ先で見つけたのは、王都を望む郊外にひっそりと口を開けるダンジョン。足を踏み入れた瞬間、発動したスキルは
――〈ホームセンター〉
壁を張り替え、部屋を増やし、畑や牧場、カフェまで作れる不可思議な力だった。
気ままに始めたリフォームは、もふもふなネコミミ獣人の少女との出会いをきっかけに、思わぬ変化を呼び始める。
拡張され続けるダンジョンの先で、悠人が作り上げる“住める迷宮”とは――?