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第3章 おじさんとパティシエ
第53話
朝、厨房の奥からかすかな物音がした。
店を開ける前、俺はマグカップを片手にそちらを覗き込む。
マリウスが、小さな作業台の前に立っていた。
白いシャツの袖をまくり、ぎこちない手つきで粉をふるい、バターを練っている。
その顔には、張りつめたような集中があった。
だが、指先は震え、思うように動いていない。
俺は何も言わず、カウンター席に腰を下ろす。
煙草に火を点け、マグを軽く傾けながら、その様子を眺めた。
「……レンジ様」
しばらくして、マリウスがこちらを振り向いた。
額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「少し……試しても、よろしいでしょうか」
「ああ。好きにしろ」
俺はそう答えるだけだ。
手伝いもしないし、止めもしない。
マリウスは頷くと、再び粉と向き合った。
手元がたどたどしく、バターと砂糖が均一に混ざらない。
生地をこねる手は、すぐに力尽き、何度も止まる。
それでも、彼は投げ出さない。
たどたどしく、根気よく、作業を続けた。
焼き上がったのは、少し膨らみの足りない、かたく小さなクッキーだった。
色は悪くない。
だが、ほんの少しだけ、焦げの匂いが混じっていた。
マリウスは、皿に並べたクッキーをじっと見つめた。
その手が、震えながらも皿ごと差し出される。
「……お口に合うかどうか、わかりませんが……」
俺は無言で一枚を取り上げた。
ぽり、と噛む。
舌の上に広がるのは、確かに甘みと香ばしさ。
だが──繊細な層も、とろける口どけもない。
昔の彼なら、こんなものは到底納得しなかっただろう。
それでも俺は、ただ、もう一口かじった。
マリウスはじっと俺の顔色を伺っている。
不安と、期待と、恐怖が入り混じった表情で。
俺はただ、マグカップを片手にクッキーを食べきった。
「……」
無言のまま、もう一枚、手を伸ばす。
それだけで十分だった。
マリウスの表情が、ほんのわずかに和らぐ。
「……ありがとうございます。……下手な菓子を、お召し上がりいただいて……」
「……別に、誰かに頼まれたわけじゃない。お前がやりたいなら、好きにやれ」
マリウスはかすかに目を伏せ、拳を膝の上で握りしめた。
その拳が、ゆっくりと解かれていくのが見える。
「……私は……もう、かつてのようには戻れないかもしれません」
絞るような声だった。
諦めと、わずかな希望とが、ないまぜになっている。
「かもな」
俺は肯定もしないし、否定もしない。
ただ、煙草の煙を吐き出す。
「それでも、やるなら、やれ」
その一言で、マリウスは小さく息をついた。
それは、泣きそうでもあり、笑いそうでもある、奇妙な吐息だった。
「……はい」
彼は、もう一度、ぎこちない手で粉をふるい直した。
震える指先で、今度は慎重に、慎重に、砂糖を計る。
クッキー作りは、今日もまた、うまくいかないかもしれない。
いや、きっとまだまだ時間がかかるだろう。
それでも──俺は、何も言わず、その過程を見届けるつもりだった。
店を開ける前、俺はマグカップを片手にそちらを覗き込む。
マリウスが、小さな作業台の前に立っていた。
白いシャツの袖をまくり、ぎこちない手つきで粉をふるい、バターを練っている。
その顔には、張りつめたような集中があった。
だが、指先は震え、思うように動いていない。
俺は何も言わず、カウンター席に腰を下ろす。
煙草に火を点け、マグを軽く傾けながら、その様子を眺めた。
「……レンジ様」
しばらくして、マリウスがこちらを振り向いた。
額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「少し……試しても、よろしいでしょうか」
「ああ。好きにしろ」
俺はそう答えるだけだ。
手伝いもしないし、止めもしない。
マリウスは頷くと、再び粉と向き合った。
手元がたどたどしく、バターと砂糖が均一に混ざらない。
生地をこねる手は、すぐに力尽き、何度も止まる。
それでも、彼は投げ出さない。
たどたどしく、根気よく、作業を続けた。
焼き上がったのは、少し膨らみの足りない、かたく小さなクッキーだった。
色は悪くない。
だが、ほんの少しだけ、焦げの匂いが混じっていた。
マリウスは、皿に並べたクッキーをじっと見つめた。
その手が、震えながらも皿ごと差し出される。
「……お口に合うかどうか、わかりませんが……」
俺は無言で一枚を取り上げた。
ぽり、と噛む。
舌の上に広がるのは、確かに甘みと香ばしさ。
だが──繊細な層も、とろける口どけもない。
昔の彼なら、こんなものは到底納得しなかっただろう。
それでも俺は、ただ、もう一口かじった。
マリウスはじっと俺の顔色を伺っている。
不安と、期待と、恐怖が入り混じった表情で。
俺はただ、マグカップを片手にクッキーを食べきった。
「……」
無言のまま、もう一枚、手を伸ばす。
それだけで十分だった。
マリウスの表情が、ほんのわずかに和らぐ。
「……ありがとうございます。……下手な菓子を、お召し上がりいただいて……」
「……別に、誰かに頼まれたわけじゃない。お前がやりたいなら、好きにやれ」
マリウスはかすかに目を伏せ、拳を膝の上で握りしめた。
その拳が、ゆっくりと解かれていくのが見える。
「……私は……もう、かつてのようには戻れないかもしれません」
絞るような声だった。
諦めと、わずかな希望とが、ないまぜになっている。
「かもな」
俺は肯定もしないし、否定もしない。
ただ、煙草の煙を吐き出す。
「それでも、やるなら、やれ」
その一言で、マリウスは小さく息をついた。
それは、泣きそうでもあり、笑いそうでもある、奇妙な吐息だった。
「……はい」
彼は、もう一度、ぎこちない手で粉をふるい直した。
震える指先で、今度は慎重に、慎重に、砂糖を計る。
クッキー作りは、今日もまた、うまくいかないかもしれない。
いや、きっとまだまだ時間がかかるだろう。
それでも──俺は、何も言わず、その過程を見届けるつもりだった。
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