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第3章 おじさんとパティシエ
第57話
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「……焼き上がりまで、もう少しですね」
そう呟きながら、マリウスがオーブンの前に立ち尽くしていた。
さきほど生地を流し込んだ型は、すでに薄く膨らみ始めている。
甘く、そしてほのかに苦味を含んだカカオの香りが、厨房の空気を濃く染めていた。
ガトー・ショコラ。
それは、王都の名店でも高級な部類に入る定番菓子のひとつ。
だが今、目の前で焼かれているそれは、名声のためでも客のためでもなく──
あくまで、マリウスという一人の男が、己の再起をかけて向き合った一品だ。
「──火加減は、自分で見て決めろ」
俺はそう言ったきり、何も口を挟んでいない。
手伝いもしないし、手本も見せない。
ここは俺の店だが、今この厨房にあるのは、マリウスの“意志”だけだ。
「……レンジ様。もし、また失敗したら……」
「失敗したら、また焼けばいい」
「……ええ、仰る通りです」
彼は小さく息を吐き、布巾で手を拭いた。
動きはまだどこかぎこちない。
以前王都で振るったという繊細な指先の感覚は、まだ戻っていないのだろう。
それでも、今のマリウスは、厨房から逃げていない。
──それだけで、十分だ。
「……レンジ様。先日、少しだけですが……夢を見たのです」
「ほう」
「自分が、また店を構えて……誰かに、お菓子を振る舞っている夢です」
「ふむ」
「不思議でした。味は……夢の中でもわからなかったのに。
それでも、自分が嬉しそうに笑っているのが、わかったのです」
「味がなくても、満足はできるもんだ」
「……そうかもしれませんね」
沈黙が落ちる。だが、それは重さではなく、熱の静けさだ。
オーブンの中で、ショコラはゆっくりとその身を完成させていく。
「……焼き上がりました」
小さな声とともに、マリウスがオーブンの扉を開いた。
立ち上る甘い香りが、思わず鼻腔をつく。
俺は煙草を灰皿に置き、少しだけ身を乗り出す。
「……見た目は、悪くない」
「はい……ですが、やはり、香りの強さが掴みきれませんでした。
焼き時間も、やや短かったかと」
「味は自分で試したのか?」
「……ええ。舌ではなく、舌の“記憶”で。……ですが、曖昧ですね。まだ、遠い」
「それでも、前進してる」
マリウスは少しだけ目を伏せて、それから再び、焼きあがったガトーを切り分ける。
俺の前に、ひときれが差し出された。
「……どうぞ、レンジ様。忌憚のない、ご意見を」
「言ったろう。俺は、肯定もしないし、否定もしない」
俺はそう言いながら、ひとくち口に運んだ。
舌の上で、ほろりと崩れる濃厚なショコラの食感。
甘さよりも、コクとほのかな酸味が勝っている。
……完成とは言えない。けれど、確かに“お菓子”になっていた。
「……なるほどな」
そう呟くと、マリウスがこちらをじっと見つめてきた。
だが俺は、何も言わなかった。言葉で答えを渡すつもりはない。
マリウスの肩がすっと緩む。
その背中が、ようやく厨房の空気に馴染んだように見えた。
そう呟きながら、マリウスがオーブンの前に立ち尽くしていた。
さきほど生地を流し込んだ型は、すでに薄く膨らみ始めている。
甘く、そしてほのかに苦味を含んだカカオの香りが、厨房の空気を濃く染めていた。
ガトー・ショコラ。
それは、王都の名店でも高級な部類に入る定番菓子のひとつ。
だが今、目の前で焼かれているそれは、名声のためでも客のためでもなく──
あくまで、マリウスという一人の男が、己の再起をかけて向き合った一品だ。
「──火加減は、自分で見て決めろ」
俺はそう言ったきり、何も口を挟んでいない。
手伝いもしないし、手本も見せない。
ここは俺の店だが、今この厨房にあるのは、マリウスの“意志”だけだ。
「……レンジ様。もし、また失敗したら……」
「失敗したら、また焼けばいい」
「……ええ、仰る通りです」
彼は小さく息を吐き、布巾で手を拭いた。
動きはまだどこかぎこちない。
以前王都で振るったという繊細な指先の感覚は、まだ戻っていないのだろう。
それでも、今のマリウスは、厨房から逃げていない。
──それだけで、十分だ。
「……レンジ様。先日、少しだけですが……夢を見たのです」
「ほう」
「自分が、また店を構えて……誰かに、お菓子を振る舞っている夢です」
「ふむ」
「不思議でした。味は……夢の中でもわからなかったのに。
それでも、自分が嬉しそうに笑っているのが、わかったのです」
「味がなくても、満足はできるもんだ」
「……そうかもしれませんね」
沈黙が落ちる。だが、それは重さではなく、熱の静けさだ。
オーブンの中で、ショコラはゆっくりとその身を完成させていく。
「……焼き上がりました」
小さな声とともに、マリウスがオーブンの扉を開いた。
立ち上る甘い香りが、思わず鼻腔をつく。
俺は煙草を灰皿に置き、少しだけ身を乗り出す。
「……見た目は、悪くない」
「はい……ですが、やはり、香りの強さが掴みきれませんでした。
焼き時間も、やや短かったかと」
「味は自分で試したのか?」
「……ええ。舌ではなく、舌の“記憶”で。……ですが、曖昧ですね。まだ、遠い」
「それでも、前進してる」
マリウスは少しだけ目を伏せて、それから再び、焼きあがったガトーを切り分ける。
俺の前に、ひときれが差し出された。
「……どうぞ、レンジ様。忌憚のない、ご意見を」
「言ったろう。俺は、肯定もしないし、否定もしない」
俺はそう言いながら、ひとくち口に運んだ。
舌の上で、ほろりと崩れる濃厚なショコラの食感。
甘さよりも、コクとほのかな酸味が勝っている。
……完成とは言えない。けれど、確かに“お菓子”になっていた。
「……なるほどな」
そう呟くと、マリウスがこちらをじっと見つめてきた。
だが俺は、何も言わなかった。言葉で答えを渡すつもりはない。
マリウスの肩がすっと緩む。
その背中が、ようやく厨房の空気に馴染んだように見えた。
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そして、この物語を見つけ出し、最高の形で世に送り出してくださる、担当編集者様、イラストレーターの市丸きすけ先生、全ての関係者の皆様に、心からの感謝を。
本当に、ありがとうございます。
【これまでの主な実績】
アルファポリス ファンタジー部門 1位獲得
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