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第6章 おじさんと本の虫
第95話
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珈琲の香りが、ページをめくる音に交じって空間を満たす夜だった。
カウンター越しに、痩身の女司書が本の海に沈んでいる。肩までの黒髪は一筋も乱れず、手の動きすら最小限。その指先が、羊皮紙の縁をなぞるようにしてめくるたび、長年積み重ねられた知識の埃が、目には見えない濃密な重みとなって空気を揺らす。
俺はその対面で煙草を燻らせていた。長く吐いた煙が、わずかに差し込むランタンの灯りに溶け、空気と境界を失っていく。
「この本は……古いな。文字体系が三代前の王都標準。構成は旧公用の論文式」
ユスティナが呟く。表情は変わらないが、その声には、明らかに愉悦が滲んでいた。
黙って指先を鳴らし、カウンターの下から陶器の灰皿を出す。彼女はそれに気づくと、かすかに会釈をした。慣れている所作だった。きっと王都の図書院でも、こんな夜を幾度となく過ごしてきたのだろう。
そして――俺の店においても、それが問題になることはない。俺は干渉しない。ただ、うまい珈琲を淹れ、煙草を吸い、余計なことを言わず、必要があれば最低限の対応をする。それで充分だ。
しかし、ふと気になって問いかけた。
「その本、そんなに貴重なもんだったのか?」
ユスティナはページから視線を外さずに答える。
「王立図書院の基準では、第五級相当の禁書指定……知識の危険度ではなく、影響範囲での区分。写本も現存三冊のみ。ここにあるのは、原本に近いと思われる」
「で、没収しないんだよな」
「ええ。条件付きで、記録と閲覧だけ」
「条件って?」
「あなたの協力意思がない限り、持ち出し不可。これは王立図書院の規定による」
つまり、俺が首を縦に振らなければ、どれほど貴重な本であろうと、彼女たちは強制的に奪うことはできないというわけだ。
それを確信しているからこそ、ユスティナはあくまで“交渉”という体裁を保っている。
「……なるほどな。厄介な連中だな」
「あなたも、なかなかに厄介です」
「誉め言葉と受け取っとくよ」
灰を落とし、カウンターの奥で次の豆を挽く。濃く、深く、余韻のある一杯を。今夜の空気にはそれが似合う。
「おかわりは?」
「お願いします」
短くそう返すと、彼女は本を閉じ、薄い指でブックマークを挟み込んだ。わずかに瞼を閉じ、眼精疲労をほぐす仕草。次いで、香りだけで味わうように、コーヒーの湯気を嗅ぐ。
「……この豆は?」
「自家栽培だ。手間はかかるが、まあ俺の気まぐれだな」
ユスティナは頷いた。それ以上何も訊かない。知りたいことと、触れてはいけない領域の違いを理解している者の態度だった。
「ここ、いい場所ですね」
「そうかい」
「本を読むには……理想的。煩わしさがない。静かで、香りも良い」
俺は笑いもせず、うなずきもせず、ただカウンターの向こうから彼女を見た。彼女はそれを気にも留めず、再び本を開く。
外では木々がわずかにざわめき、虫の音が一定のリズムを刻んでいた。遠くの湖面に月が揺れているはずだ。見に行く気はなかったが、何となくそう思った。
ユスティナの指先が再びページをめくる。ページの向こうには、王都でも触れられない知識が眠っているのだろう。
「読み終えたら、また来てもいいですか?」
ふいに問われたその声は、これまでのものよりわずかに――ごくわずかにだが、柔らかさがあった。
「店はいつでもやってる。コーヒーとタバコを求めるなら、な」
「ええ、それは当然」
再びページをめくる音。カップに指を添える音。灰皿に小さな灰が落ちる音。
それだけで充分だった。
カウンター越しに、痩身の女司書が本の海に沈んでいる。肩までの黒髪は一筋も乱れず、手の動きすら最小限。その指先が、羊皮紙の縁をなぞるようにしてめくるたび、長年積み重ねられた知識の埃が、目には見えない濃密な重みとなって空気を揺らす。
俺はその対面で煙草を燻らせていた。長く吐いた煙が、わずかに差し込むランタンの灯りに溶け、空気と境界を失っていく。
「この本は……古いな。文字体系が三代前の王都標準。構成は旧公用の論文式」
ユスティナが呟く。表情は変わらないが、その声には、明らかに愉悦が滲んでいた。
黙って指先を鳴らし、カウンターの下から陶器の灰皿を出す。彼女はそれに気づくと、かすかに会釈をした。慣れている所作だった。きっと王都の図書院でも、こんな夜を幾度となく過ごしてきたのだろう。
そして――俺の店においても、それが問題になることはない。俺は干渉しない。ただ、うまい珈琲を淹れ、煙草を吸い、余計なことを言わず、必要があれば最低限の対応をする。それで充分だ。
しかし、ふと気になって問いかけた。
「その本、そんなに貴重なもんだったのか?」
ユスティナはページから視線を外さずに答える。
「王立図書院の基準では、第五級相当の禁書指定……知識の危険度ではなく、影響範囲での区分。写本も現存三冊のみ。ここにあるのは、原本に近いと思われる」
「で、没収しないんだよな」
「ええ。条件付きで、記録と閲覧だけ」
「条件って?」
「あなたの協力意思がない限り、持ち出し不可。これは王立図書院の規定による」
つまり、俺が首を縦に振らなければ、どれほど貴重な本であろうと、彼女たちは強制的に奪うことはできないというわけだ。
それを確信しているからこそ、ユスティナはあくまで“交渉”という体裁を保っている。
「……なるほどな。厄介な連中だな」
「あなたも、なかなかに厄介です」
「誉め言葉と受け取っとくよ」
灰を落とし、カウンターの奥で次の豆を挽く。濃く、深く、余韻のある一杯を。今夜の空気にはそれが似合う。
「おかわりは?」
「お願いします」
短くそう返すと、彼女は本を閉じ、薄い指でブックマークを挟み込んだ。わずかに瞼を閉じ、眼精疲労をほぐす仕草。次いで、香りだけで味わうように、コーヒーの湯気を嗅ぐ。
「……この豆は?」
「自家栽培だ。手間はかかるが、まあ俺の気まぐれだな」
ユスティナは頷いた。それ以上何も訊かない。知りたいことと、触れてはいけない領域の違いを理解している者の態度だった。
「ここ、いい場所ですね」
「そうかい」
「本を読むには……理想的。煩わしさがない。静かで、香りも良い」
俺は笑いもせず、うなずきもせず、ただカウンターの向こうから彼女を見た。彼女はそれを気にも留めず、再び本を開く。
外では木々がわずかにざわめき、虫の音が一定のリズムを刻んでいた。遠くの湖面に月が揺れているはずだ。見に行く気はなかったが、何となくそう思った。
ユスティナの指先が再びページをめくる。ページの向こうには、王都でも触れられない知識が眠っているのだろう。
「読み終えたら、また来てもいいですか?」
ふいに問われたその声は、これまでのものよりわずかに――ごくわずかにだが、柔らかさがあった。
「店はいつでもやってる。コーヒーとタバコを求めるなら、な」
「ええ、それは当然」
再びページをめくる音。カップに指を添える音。灰皿に小さな灰が落ちる音。
それだけで充分だった。
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本当に、ありがとうございます。
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