独身おじさんの異世界おひとりさまライフ〜金や評価は要りません。コーヒーとタバコ、そして本があれば最高です〜

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第6章 おじさんと本の虫

第97話

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カップに湯を注いでいると、控えめなノック音が耳に届いた。

「……ん」

そっと扉を開けると、案の定、そこにいたのは黒衣の女──ユスティナだった。重たい革鞄を肩に下げ、いつものように無表情で立っている。

「ああ。入るか」

無言で頷いた彼女は、ゆるやかな仕草で椅子に腰を下ろす。いつもの席、いつもの角度。目の前の卓には、あらかじめ用意しておいた一冊の古書が置いてあった。

「いつものな」

「……ありがたいです」

囁くような声。受け取った湯気立つカップを、両手でそっと包む。目を伏せたまま、まず香りを吸い込む仕草はいつもと同じだった。

今日の一杯は、〈焙焼霧草〉を軽くブレンドした深煎りだ。すこし甘みが強めだが、読書との相性は抜群。煙草は細巻きにした穏やかな葉を、灰皿とともに脇に添えた。

「文書、進んでるか?」

そう尋ねると、ユスティナは、唇だけを微かに動かして答えた。

「……昨日、第五章の第一節まで読解しました」

「へぇ。あれ、けっこう骨が折れるだろ」

「……ええ。記述が断片的で、加えて……構文の崩壊が随所に」

「文法崩れてると、語彙が合ってても意味取れねえんだよな」

「はい。文脈判断が必要になります。単語の選定よりも……思考の追跡が肝要です」

ぱちん、と煙草に火をつけて、ふぅと一息吐く。ユスティナはコーヒーを口に運びながら、鞄から例の古文書を取り出して机に広げた。

この古文書──正確には、辺境地域に伝わる詩文集の断片らしい。中には未発見の薬草や錬金式の記述が含まれていて、王立図書院では“迷文書群”として扱われているらしい。

俺は最初に一目通したときに内容はほとんど把握していたが、もちろん言うつもりはない。

読む、というのは、たとえ意味を知っていても、もう一度辿り直す価値がある行為だと思ってる。

「今日も続き、いいか?」

「どうぞ」

ユスティナはそう言って、薄手の手袋を外した。小さな指が丁寧に頁を繰り、次の章節を指し示す。

「この部分……“アレフの水場にて汲む霊薬、風を宿すもの……”。この“風を宿す”が、単なる比喩ではないように感じます」

「文献上は、風ってのは“記憶の象徴”って意味もあんのよな」

「……それ、古キハル地方の宗教詩ですね。忘却に抗う香草の記述が、幾つか」

「そっち系の文脈で読めば、風=記憶=精神安定の薬草……かもな」

「……やはり、同じ見解」

と、ユスティナの口角が、ごくわずかに持ち上がる。

それが、あの女の「嬉しい」という感情表現なんだろう。

不思議なもんだが、あの寡黙な女のそばにいると、俺も口数が少なくなる。

本とコーヒーと煙草。たったそれだけで、空間はきっちり満ちていく。



一時間ほど経った頃。ページは五節目の中盤へと差し掛かり、ユスティナが目を細めた。

「ここに、“眠り草の涙を乾かし、青き器に封じること”とあります」

「“眠り草の涙”ってのは……抽出液のことか?」

「可能性は高いです。夢を誘発する効果を持つ草は、いくつか候補が」

「青き器ってのも、錬金用語なら“光を遮断する保存瓶”の意か」

「……同感です」

俺は自分のノートを開き、ユスティナの解釈をもとに、該当箇所の素材ブレンド案を走り書きした。

「これ、煙草に混ぜたら面白そうだな」

「──副作用は?」

「多分、無い。“万能生成”で作れば、害は一切出ねぇ」

「……いいですね。文書の検証にも、実例が必要ですから」

ユスティナはすっと立ち上がると、巻物を丁寧にしまいながら言った。

「明日も、来ても?」

「……ああ。席は空いてる」

女は軽く会釈し、いつもの無言の足取りで扉の向こうへと消えていった。

俺はカップに残った最後の一口を口に含み、鼻の奥に香りを留めた。

──古文書。錬金。煙草のブレンド。そして、本。

この静かな時間が、今日もまた俺の中に積み重なっていく。
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