独身おじさんの異世界おひとりさまライフ〜金や評価は要りません。コーヒーとタバコ、そして本があれば最高です〜

旅する書斎(☆ほしい)

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第7章 おじさんと雨の日

第111話

旅人のカップが空になり、俺は黙ってポットからお代わりを注いだ。湯気が立つ。苦味と焙煎香が、またひときわ際立つ時間帯。

「……ありがたい。まるで山の庵にでも迷い込んだようだ」

旅人はくつろいだ様子で、指先でカップをくるりと回した。

「そういや、思い出したよ。似た匂いを嗅いだことがあってな」

「ほう?」

話を引き出すつもりはなかったが、男はひとりで続きを語り出した。

「東の山の奥でな。煙草葉を育ててる一族がいた。表向きは狩猟民ってことになってるが、実際には、標高千を超える斜面で小規模の葉畑を代々管理してる。葉の色は浅い黄緑。だが、乾かすと一気に黒味が出る」

「ほう……乾燥法、どうしてる?」

「葉をそのまま吊す。けど、下に水を張った陶盤を置く。山霧と湿気を利用して、時間をかけて“内側から水を引く”らしい。火も煙も使わん。だから香りがまるで別物だった。まるで、雨の中に沈めた石のような香りだったよ」

雨の中に沈めた石──なるほど、面白い比喩だ。

火も煙も通さず、ただ湿気だけで香りを引き出す。葉巻とは真逆の発想だが、湿潤気候ならではの技術ってわけか。

「で、その葉はどうやって吸う?」

「少量を紙に巻く。吸うというより“蒸す”に近い。香りを飲むって表現が近いかもしれんな。向こうでは“気葉(きば)”と呼ばれていた」

「……気葉、ね」

俺は旅人に倣ってカップをひと口。アメモリ・ローストの深みが、ゆっくり口内を転がった。

「そいつは面白い。少し、応用できるかもしれん」

「そうか。ま、何かのヒントになれば。俺は詳しくない。ただ、偶然見て、匂いに惚れたってだけだ」

語り口に押しつけがましさはない。あくまで“旅の断片”として流れてきた話。だが、そういう話がいちばん記憶に残る。

俺は隣の棚に置いた茶葉の包みに目をやった。

黒茶と発酵茶──どちらも湿度変化に強く、加工次第で香りが面白くなる素材だ。とくに黒茶は、煙草の燻材にもなり得る。

「この茶、しばらく使わせてもらう」

「喜んでもらえりゃ幸いだ。俺も、お前のこの一杯で、体の芯から乾いたような気がする」

ふと、旅人が立ち上がった。

「……そろそろ行くとするよ。雨が上がったら、また道がぬかるむ前に抜けたい」

「気をつけて」

「それと──この村の先にある峠道、左側の崖が崩れやすい。昨日、馬が足を取られたって話を聞いた。通るなら注意しな」

「聞いておく」

男はマントを手に取り、肩にかけた。

雨は小降りになっているが、空はまだ重い色を残していた。

「……いつか、気葉の葉を持ってきたら、お前に見せたいもんだ」

「ああ。そのときは、こっちも新しい一服を用意しとくよ」

口に出しただけで、構想が頭に浮かぶ。

黒茶を燻材に。発酵茶を粉にして、香りの層に。あの山の湿度環境を再現するには、保湿室の調整と、葉の蒸し温度の安定化がカギになる。

「じゃあな、珈琲屋。よく染みた」

それだけを言い残して、男は足音も立てずに扉を開け、道へと戻っていった。

扉が閉まった瞬間、俺はすぐに焙煎器に向かい、茶葉の仕込みに取りかかった。

新しい実験が始まる気配に、手が勝手に動いていた。
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