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第8章 おじさんと無口な画家
第113話
扉が、軋んだ音を立てて開いたのは、昼前だった。
外は朝から濃い雲に覆われていたが、この時間になると一層厚みを増し、空がすぐ手の届きそうな低さに感じられた。
湿気は肌にまとわりつき、空気は重い。火鉢にくべた炭さえ、くすぶるような温度でじわじわと煙を上げている。
焙煎器の蓋を開けた俺は、ちょうど一段階目の煎り終わりを確認したところだった。黒く艶を増した豆を、木皿に広げて温度を冷ます。
そのままメモ帳を開き、天気と火力、使用した木炭の種類を書き込みながら、もう一度焙煎台の方へ視線を戻した──ちょうどそのとき、扉の音が鳴った。
ぱた、と小さな足音。振り返ると、店の入り口にひとりの若者が立っていた。
「……ああ」
心の中で呟いた。典型的な“旅人の風”をまとった格好だ。背丈は俺より少し高く、線が細い。服の色味は淡く、雨を吸った布が体に張りついているせいで、肩から肘にかけて濃く色が変わっているのがはっきりわかる。
傘もない。旅支度にしては軽装。背中には細長い筒状のケース──あれは絵描きが使うキャンバス用のものだ。
腰元には小さな防水袋が結ばれていて、紐はほどけかけている。全体の印象としては、乱れはないが、何かが欠けているような佇まい。
目が合う。
……が、彼は何も言わない。軽く口を開きかけて、閉じる。表情は落ち着いているが、眉のあたりにだけ、疲労とも苛立ちともとれない細い皺が見えた。
この時期に、初見で村のはずれに来る者は少ない。雨のせいで道を誤ったか、あるいは宿を探している最中か。
それともただ、立ち寄っただけか。理由はどれでもいい。尋ねる気もない。
俺は、一瞥しただけで言った。
「そこ、座っていい」
カウンター奥の木椅子を、顎で示す。旅人はひと呼吸置いてから、こくりと頷いた。口元にかすかな動きがあったが、やはり言葉は出ない。
椅子に腰を下ろす音が、焙煎器のくぐもった余熱と混じって、部屋の中にぬるく響いた。床板に落ちた雫が、じわ、と染みを広げる。
濡れたマントは肩からずり落ち、足元に置かれた荷物の布が、かすかに水音を立てた。
俺は特に確認もしないまま、焙煎台に戻る。豆の冷却具合を手のひらで確かめたあと、フィルターを取り出し、ポットに湯を注いだ。
「……」
言葉の代わりに、店内に立ちのぼる湯気。湿度を含んだ空気の中に、熱の粒が漂う。今日の豆は、雨季用の深煎り。
酸味を抑えて、土や木の匂いに近い香りを強調してある。雨で疲れた身体には、甘いものよりも、少しだけ苦い風味がいい。
旅人はそのあいだ、椅子の背もたれにもたれず、両手を膝の上に置いたまま、じっと前を見ていた。
正面には、乾燥中の煙草葉を吊るした棚と、古びたランプの明かり。灯りは風がないぶん揺れず、そこにあるだけの光を放っている。
俺は一言も言わず、湯を落とし終わった珈琲を木のカップに注いで、彼の前に置いた。
反応は──わずかに、息を呑んだような気配。それから旅人は、ゆっくりとカップに手を伸ばした。指の節が細い。
爪の縁は短く切られていて、土や汚れもない。絵描きの手、だな。描く道具に触れる者の指先だ。
「……ありがとう」
ようやく出た声は、驚くほど低く、落ち着いていた。
俺は返事をせず、自分の焙煎器の火床を見直す。炭の位置を少しずらして、次の焙煎準備に入った。
客が何者でも関係ない。誰にでも同じように淹れて、同じように差し出す。それが俺のやり方で、今のところそれでうまくいってる。
旅人は、カップに顔を近づけ、深く息を吸い込んだ。そのあと、ごく、ひと口。音も立てず、目も動かさず、ただ香りを舌に染み込ませるように飲む。
そこに、言葉はいらない。
店の奥では、火がくすぶり、炭のはぜる音が雨音と混ざる。外の空は相変わらず重たく、いつまた本降りになるかはわからない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
ここには一杯の珈琲と、ひとりの旅人。そして、香りに浸るだけの時間がある。それだけで十分だった。
外は朝から濃い雲に覆われていたが、この時間になると一層厚みを増し、空がすぐ手の届きそうな低さに感じられた。
湿気は肌にまとわりつき、空気は重い。火鉢にくべた炭さえ、くすぶるような温度でじわじわと煙を上げている。
焙煎器の蓋を開けた俺は、ちょうど一段階目の煎り終わりを確認したところだった。黒く艶を増した豆を、木皿に広げて温度を冷ます。
そのままメモ帳を開き、天気と火力、使用した木炭の種類を書き込みながら、もう一度焙煎台の方へ視線を戻した──ちょうどそのとき、扉の音が鳴った。
ぱた、と小さな足音。振り返ると、店の入り口にひとりの若者が立っていた。
「……ああ」
心の中で呟いた。典型的な“旅人の風”をまとった格好だ。背丈は俺より少し高く、線が細い。服の色味は淡く、雨を吸った布が体に張りついているせいで、肩から肘にかけて濃く色が変わっているのがはっきりわかる。
傘もない。旅支度にしては軽装。背中には細長い筒状のケース──あれは絵描きが使うキャンバス用のものだ。
腰元には小さな防水袋が結ばれていて、紐はほどけかけている。全体の印象としては、乱れはないが、何かが欠けているような佇まい。
目が合う。
……が、彼は何も言わない。軽く口を開きかけて、閉じる。表情は落ち着いているが、眉のあたりにだけ、疲労とも苛立ちともとれない細い皺が見えた。
この時期に、初見で村のはずれに来る者は少ない。雨のせいで道を誤ったか、あるいは宿を探している最中か。
それともただ、立ち寄っただけか。理由はどれでもいい。尋ねる気もない。
俺は、一瞥しただけで言った。
「そこ、座っていい」
カウンター奥の木椅子を、顎で示す。旅人はひと呼吸置いてから、こくりと頷いた。口元にかすかな動きがあったが、やはり言葉は出ない。
椅子に腰を下ろす音が、焙煎器のくぐもった余熱と混じって、部屋の中にぬるく響いた。床板に落ちた雫が、じわ、と染みを広げる。
濡れたマントは肩からずり落ち、足元に置かれた荷物の布が、かすかに水音を立てた。
俺は特に確認もしないまま、焙煎台に戻る。豆の冷却具合を手のひらで確かめたあと、フィルターを取り出し、ポットに湯を注いだ。
「……」
言葉の代わりに、店内に立ちのぼる湯気。湿度を含んだ空気の中に、熱の粒が漂う。今日の豆は、雨季用の深煎り。
酸味を抑えて、土や木の匂いに近い香りを強調してある。雨で疲れた身体には、甘いものよりも、少しだけ苦い風味がいい。
旅人はそのあいだ、椅子の背もたれにもたれず、両手を膝の上に置いたまま、じっと前を見ていた。
正面には、乾燥中の煙草葉を吊るした棚と、古びたランプの明かり。灯りは風がないぶん揺れず、そこにあるだけの光を放っている。
俺は一言も言わず、湯を落とし終わった珈琲を木のカップに注いで、彼の前に置いた。
反応は──わずかに、息を呑んだような気配。それから旅人は、ゆっくりとカップに手を伸ばした。指の節が細い。
爪の縁は短く切られていて、土や汚れもない。絵描きの手、だな。描く道具に触れる者の指先だ。
「……ありがとう」
ようやく出た声は、驚くほど低く、落ち着いていた。
俺は返事をせず、自分の焙煎器の火床を見直す。炭の位置を少しずらして、次の焙煎準備に入った。
客が何者でも関係ない。誰にでも同じように淹れて、同じように差し出す。それが俺のやり方で、今のところそれでうまくいってる。
旅人は、カップに顔を近づけ、深く息を吸い込んだ。そのあと、ごく、ひと口。音も立てず、目も動かさず、ただ香りを舌に染み込ませるように飲む。
そこに、言葉はいらない。
店の奥では、火がくすぶり、炭のはぜる音が雨音と混ざる。外の空は相変わらず重たく、いつまた本降りになるかはわからない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
ここには一杯の珈琲と、ひとりの旅人。そして、香りに浸るだけの時間がある。それだけで十分だった。
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