独身おじさんの異世界おひとりさまライフ〜金や評価は要りません。コーヒーとタバコ、そして本があれば最高です〜

旅する書斎(☆ほしい)

文字の大きさ
113 / 243
第8章 おじさんと無口な画家

第114話

焙煎器のふたを開けると、深煎りの豆が軽やかな音を立てて、じわじわと香りを広げ始めた。しばらく放置してから、手で豆を撫でるように冷ます。温かい手のひらの感触と、深い香りが心地よく広がって、思わず小さくため息をついた。

「ああ、いい香りだな」

店の中に漂うその香りに、思わず目を細めたとき、ふいに扉の音がした。

ぱた、ぱた。湿った足音。背後で、それが途切れるまで、俺は一瞬動きを止めた。

振り返ると、昨日の青年が立っていた。

昨日と変わらず、彼は乾いた服に着替えて、荷物を持っている。その姿は、どこかぎこちない。絵描きが使う、スケッチブックと筆記具を丁寧に抱え、手に握ったまま、静かにこちらを見ている。

「……ああ」

心の中で呟いてしまった。昨日と同じように、口を開きかけては言葉を飲み込む、あの無言の気配。

そのまま、彼は何も言わず、ただ店に足を踏み入れる。だが、やはりそこには言葉は続かない。彼が発したのは、ただひとつ。

「しばらく村に居ます」

それだけを言うと、彼は静かに頭を下げ、俺の目を見つめていた。

ふむ、と俺は無意識に視線を少しずらす。言葉の意味はわかる。村で何かを見つけようとしているのだろう。だが、それが俺にどう関わるのか、すぐに考えることもない。

「……座れ」

俺はカウンター奥の木椅子を指で示した。彼がゆっくりと頷き、あまりにも静かに椅子に座る。その動きには、わずかな戸惑いが見えたが、何も言わず、何も問わず、俺はまた焙煎台に目を戻す。

店内には、焙煎中のコーヒー豆の香りと、炭の微かな煙の匂いが混じる。窓の外は重たい雲が垂れ込めていて、今にも雨が降りそうな気配が漂っていた。

旅人の男は、椅子に座りながらも、足元に置かれた荷物に目をやる。その目には、ほんの少し、疲れが滲んでいる。それがどうした、俺には関係ない。俺のやることはただ一つ、いいコーヒーを淹れて、煙草をくゆらせることだ。

ただそれだけだ。

湯を注いだコーヒーを木のカップに注ぎ、彼の前に静かに置いた。

「……ありがとう」

一瞬の沈黙を経て、彼はようやく口を開く。低く、静かな声だった。

「おう」

俺は、短く返事をし、焙煎器の調整に手を加えながらも、目を離さずに作業を続けた。彼が何を考えているのか、それを知りたくはなかった。そんなことを考える暇もなく、豆の冷却を確認し、次の手順を進めていく。

その間、彼は一言も言わず、ただカップを手に取って、ゆっくりと飲み始めた。喉に流れ込むコーヒーの熱さが、彼の気持ちを少しだけほぐしてくれるのだろうか。

「……うまい」

彼がまた、声を発したのはそれから数分後だった。穏やかに、やはり低い声で。

俺は返事をせず、そのまま焙煎台に視線を戻す。心地よい音が、炭の温もりと共に続いていく。彼の飲むコーヒーが、どんな風に彼を変えるのか、俺には関係ない。俺がここにいるのは、それだけだ。

あくまで自分のペースで、ただ、静かにコーヒーと煙草を楽しむ。

旅人はそのまま静かに飲み続ける。その静けさの中に、何かが溶け込んでいくような、そんな気がした。

そして、また、何も言わずに数分が過ぎた。
感想 5

あなたにおすすめの小説

おばさんは、ひっそり暮らしたい

蝋梅
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。 たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。 さて、生きるには働かなければならない。 「仕方がない、ご飯屋にするか」 栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。 「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」 意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。 騎士サイド追加しました。2023/05/23 番外編を不定期ですが始めました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

神様の手違いで異世界転生した俺の魅了チートが、勇者のハーレムを根こそぎ奪って溺愛ハーレム作りました!

まさき
恋愛
ブラック企業で働き続けた俺が過労で倒れ、気づけば異世界に転生していた。 「手違いでごめんなさい」と神様に言われ、お詫びに貰ったのは【魅了】スキル——でも俺には使ってる自覚がない。 ただ普通に生きてるだけなのに、気づけばエルフが隣で微笑んでいる。 獣人族が耳を赤くしてついてくる。元魔王の娘が手料理を持ってくる。 そして10年かけてハーレムを作った勇者が、なぜか仲間を全員失っていく。 「手違い転生者に何故負けるんだああ!?」 社畜だった俺の、異世界溺愛ハーレム生活——ざまぁあり、甘々あり、笑いあり。 1話完結のオムニバス形式でお届けします!

【完結】転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。

【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~

きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。 前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。

スマホアプリで衣食住確保の異世界スローライフ 〜面倒なことは避けたいのに怖いものなしのスライムと弱気なドラゴンと一緒だとそうもいかず〜

もーりんもも
ファンタジー
命より大事なスマホを拾おうとして命を落とした俺、武田義経。 ああ死んだと思った瞬間、俺はスマホの神様に祈った。スマホのために命を落としたんだから、お慈悲を! 目を開けると、俺は異世界に救世主として召喚されていた。それなのに俺のステータスは平均よりやや上といった程度。 スキル欄には見覚えのある虫眼鏡アイコンが。だが異世界人にはただの丸印に見えたらしい。 何やら漂う失望感。結局、救世主ではなく、ただの用無しと認定され、宮殿の使用人という身分に。 やれやれ。スキル欄の虫眼鏡をタップすると検索バーが出た。 「ご飯」と検索すると、見慣れたアプリがずらずらと! アプリがダウンロードできるんだ! ヤバくない? 不便な異世界だけど、楽してダラダラ生きていこう――そう思っていた矢先、命を狙われ国を出ることに。 ひょんなことから知り合った老婆のお陰でなんとか逃げ出したけど、気がつけば、いつの間にかスライムやらドラゴンやらに囲まれて、どんどん不本意な方向へ……。   2025/04/04-06 HOTランキング1位をいただきました! 応援ありがとうございます! ※AI学習禁止・無断転載禁止・無断翻訳禁止・無断朗読禁止

勇者召喚に巻き込まれ、異世界転移・貰えたスキルも鑑定だけ・・・・だけど、何かあるはず!

よっしぃ
ファンタジー
9月11日、12日、ファンタジー部門2位達成中です! 僕はもうすぐ25歳になる常山 順平 24歳。 つねやま  じゅんぺいと読む。 何処にでもいる普通のサラリーマン。 仕事帰りの電車で、吊革に捕まりうつらうつらしていると・・・・ 突然気分が悪くなり、倒れそうになる。 周りを見ると、周りの人々もどんどん倒れている。明らかな異常事態。 何が起こったか分からないまま、気を失う。 気が付けば電車ではなく、どこかの建物。 周りにも人が倒れている。 僕と同じようなリーマンから、数人の女子高生や男子学生、仕事帰りの若い女性や、定年近いおっさんとか。 気が付けば誰かがしゃべってる。 どうやらよくある勇者召喚とやらが行われ、たまたま僕は異世界転移に巻き込まれたようだ。 そして・・・・帰るには、魔王を倒してもらう必要がある・・・・と。 想定外の人数がやって来たらしく、渡すギフト・・・・スキルらしいけど、それも数が限られていて、勇者として召喚した人以外、つまり巻き込まれて転移したその他大勢は、1人1つのギフト?スキルを。あとは支度金と装備一式を渡されるらしい。 どうしても無理な人は、戻ってきたら面倒を見ると。 一方的だが、日本に戻るには、勇者が魔王を倒すしかなく、それを待つのもよし、自ら勇者に協力するもよし・・・・ ですが、ここで問題が。 スキルやギフトにはそれぞれランク、格、強さがバラバラで・・・・ より良いスキルは早い者勝ち。 我も我もと群がる人々。 そんな中突き飛ばされて倒れる1人の女性が。 僕はその女性を助け・・・同じように突き飛ばされ、またもや気を失う。 気が付けば2人だけになっていて・・・・ スキルも2つしか残っていない。 一つは鑑定。 もう一つは家事全般。 両方とも微妙だ・・・・ 彼女の名は才村 友郁 さいむら ゆか。 23歳。 今年社会人になりたて。 取り残された2人が、すったもんだで生き残り、最終的には成り上がるお話。

ダンジョンを拾ったので、スキル〈ホームセンター〉で好き勝手リフォームします

ランド犬
ファンタジー
 異世界に転移した佐々木悠人は、召喚でも勇者でもなかった。ただ迷い込んだ先で見つけたのは、王都を望む郊外にひっそりと口を開けるダンジョン。足を踏み入れた瞬間、発動したスキルは ――〈ホームセンター〉 壁を張り替え、部屋を増やし、畑や牧場、カフェまで作れる不可思議な力だった。 気ままに始めたリフォームは、もふもふなネコミミ獣人の少女との出会いをきっかけに、思わぬ変化を呼び始める。 拡張され続けるダンジョンの先で、悠人が作り上げる“住める迷宮”とは――?