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第8章 おじさんと無口な画家
第114話
焙煎器のふたを開けると、深煎りの豆が軽やかな音を立てて、じわじわと香りを広げ始めた。しばらく放置してから、手で豆を撫でるように冷ます。温かい手のひらの感触と、深い香りが心地よく広がって、思わず小さくため息をついた。
「ああ、いい香りだな」
店の中に漂うその香りに、思わず目を細めたとき、ふいに扉の音がした。
ぱた、ぱた。湿った足音。背後で、それが途切れるまで、俺は一瞬動きを止めた。
振り返ると、昨日の青年が立っていた。
昨日と変わらず、彼は乾いた服に着替えて、荷物を持っている。その姿は、どこかぎこちない。絵描きが使う、スケッチブックと筆記具を丁寧に抱え、手に握ったまま、静かにこちらを見ている。
「……ああ」
心の中で呟いてしまった。昨日と同じように、口を開きかけては言葉を飲み込む、あの無言の気配。
そのまま、彼は何も言わず、ただ店に足を踏み入れる。だが、やはりそこには言葉は続かない。彼が発したのは、ただひとつ。
「しばらく村に居ます」
それだけを言うと、彼は静かに頭を下げ、俺の目を見つめていた。
ふむ、と俺は無意識に視線を少しずらす。言葉の意味はわかる。村で何かを見つけようとしているのだろう。だが、それが俺にどう関わるのか、すぐに考えることもない。
「……座れ」
俺はカウンター奥の木椅子を指で示した。彼がゆっくりと頷き、あまりにも静かに椅子に座る。その動きには、わずかな戸惑いが見えたが、何も言わず、何も問わず、俺はまた焙煎台に目を戻す。
店内には、焙煎中のコーヒー豆の香りと、炭の微かな煙の匂いが混じる。窓の外は重たい雲が垂れ込めていて、今にも雨が降りそうな気配が漂っていた。
旅人の男は、椅子に座りながらも、足元に置かれた荷物に目をやる。その目には、ほんの少し、疲れが滲んでいる。それがどうした、俺には関係ない。俺のやることはただ一つ、いいコーヒーを淹れて、煙草をくゆらせることだ。
ただそれだけだ。
湯を注いだコーヒーを木のカップに注ぎ、彼の前に静かに置いた。
「……ありがとう」
一瞬の沈黙を経て、彼はようやく口を開く。低く、静かな声だった。
「おう」
俺は、短く返事をし、焙煎器の調整に手を加えながらも、目を離さずに作業を続けた。彼が何を考えているのか、それを知りたくはなかった。そんなことを考える暇もなく、豆の冷却を確認し、次の手順を進めていく。
その間、彼は一言も言わず、ただカップを手に取って、ゆっくりと飲み始めた。喉に流れ込むコーヒーの熱さが、彼の気持ちを少しだけほぐしてくれるのだろうか。
「……うまい」
彼がまた、声を発したのはそれから数分後だった。穏やかに、やはり低い声で。
俺は返事をせず、そのまま焙煎台に視線を戻す。心地よい音が、炭の温もりと共に続いていく。彼の飲むコーヒーが、どんな風に彼を変えるのか、俺には関係ない。俺がここにいるのは、それだけだ。
あくまで自分のペースで、ただ、静かにコーヒーと煙草を楽しむ。
旅人はそのまま静かに飲み続ける。その静けさの中に、何かが溶け込んでいくような、そんな気がした。
そして、また、何も言わずに数分が過ぎた。
「ああ、いい香りだな」
店の中に漂うその香りに、思わず目を細めたとき、ふいに扉の音がした。
ぱた、ぱた。湿った足音。背後で、それが途切れるまで、俺は一瞬動きを止めた。
振り返ると、昨日の青年が立っていた。
昨日と変わらず、彼は乾いた服に着替えて、荷物を持っている。その姿は、どこかぎこちない。絵描きが使う、スケッチブックと筆記具を丁寧に抱え、手に握ったまま、静かにこちらを見ている。
「……ああ」
心の中で呟いてしまった。昨日と同じように、口を開きかけては言葉を飲み込む、あの無言の気配。
そのまま、彼は何も言わず、ただ店に足を踏み入れる。だが、やはりそこには言葉は続かない。彼が発したのは、ただひとつ。
「しばらく村に居ます」
それだけを言うと、彼は静かに頭を下げ、俺の目を見つめていた。
ふむ、と俺は無意識に視線を少しずらす。言葉の意味はわかる。村で何かを見つけようとしているのだろう。だが、それが俺にどう関わるのか、すぐに考えることもない。
「……座れ」
俺はカウンター奥の木椅子を指で示した。彼がゆっくりと頷き、あまりにも静かに椅子に座る。その動きには、わずかな戸惑いが見えたが、何も言わず、何も問わず、俺はまた焙煎台に目を戻す。
店内には、焙煎中のコーヒー豆の香りと、炭の微かな煙の匂いが混じる。窓の外は重たい雲が垂れ込めていて、今にも雨が降りそうな気配が漂っていた。
旅人の男は、椅子に座りながらも、足元に置かれた荷物に目をやる。その目には、ほんの少し、疲れが滲んでいる。それがどうした、俺には関係ない。俺のやることはただ一つ、いいコーヒーを淹れて、煙草をくゆらせることだ。
ただそれだけだ。
湯を注いだコーヒーを木のカップに注ぎ、彼の前に静かに置いた。
「……ありがとう」
一瞬の沈黙を経て、彼はようやく口を開く。低く、静かな声だった。
「おう」
俺は、短く返事をし、焙煎器の調整に手を加えながらも、目を離さずに作業を続けた。彼が何を考えているのか、それを知りたくはなかった。そんなことを考える暇もなく、豆の冷却を確認し、次の手順を進めていく。
その間、彼は一言も言わず、ただカップを手に取って、ゆっくりと飲み始めた。喉に流れ込むコーヒーの熱さが、彼の気持ちを少しだけほぐしてくれるのだろうか。
「……うまい」
彼がまた、声を発したのはそれから数分後だった。穏やかに、やはり低い声で。
俺は返事をせず、そのまま焙煎台に視線を戻す。心地よい音が、炭の温もりと共に続いていく。彼の飲むコーヒーが、どんな風に彼を変えるのか、俺には関係ない。俺がここにいるのは、それだけだ。
あくまで自分のペースで、ただ、静かにコーヒーと煙草を楽しむ。
旅人はそのまま静かに飲み続ける。その静けさの中に、何かが溶け込んでいくような、そんな気がした。
そして、また、何も言わずに数分が過ぎた。
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