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第12章 おじさんと粗野な獣人
第162話
本棚の隅、布張りの古い装丁が目についたのは、ファルクが店を訪れて四度目の昼だった。
いつも通り、カウンター端の席に腰掛けた彼は、俺が淹れるコーヒーの湯気をじっと見つめていたが、ふと目線を上げた先に、本の背表紙があったらしい。
「……レンジさんは、ああいった本も読むのですね」
声の調子は、以前よりずっと穏やかだった。言葉の選び方も、どこか丁寧になってきた。あれだけ荒々しかった獣人が、今では人との会話にも流れを意識するようになったのだから、大したもんだ。
「ああ。暇つぶしと頭の油差しにはちょうどいい」
俺はそうだけ告げ、ネルフィルターに湯を落とす手を止めなかった。ファルクは目線を戻し、再び湯気を見つめる。
──だが、その日の彼は違った。
「……あの、本を、少しだけ見ても良いでしょうか」
珍しく、言いよどむような声音。俺は目線を上げる。
「ああ、構わんよ。」
ファルクはほんの少し目を細め、席を立った。無骨な手が本棚に伸び、慎重に一冊を引き抜く。厚い紙のページが、一枚ずつめくられていく様子を、俺はカウンター越しに見ていた。
「……よく分かりませんでした」
本を閉じると同時に、彼はため息まじりにそう言った。
「そうか」
それ以上は言わない。俺はカップを差し出し、彼は黙って受け取った。
◇
次にファルクが本棚の前に立ったのは、二日後だった。狩りの帰りらしく、毛皮の外套には葉や枝が数本ひっかかっていたが、彼はそれを気にする様子もなく、昨日と同じ場所から同じ本を取り出した。
ページを開いたまま、しばらく動きが止まる。そして──
「……“風は、葉を通して語り、土に眠る”。これは……例え、でしょうか」
そう呟いた声には、驚きが混じっていた。
「まあ、そうだな」
俺は焙煎の準備をしながら返す。
「単語の意味は、書いてある通りだけど。意味の意味までは、書いてない」
ファルクは、手の中のページを見つめながら、微かにうなずいた。
その日から、彼は読書の時間を日課に組み込むようになった。朝の狩りを終え、獲物を村に預け、昼過ぎに店にやってくる。
珈琲を一杯受け取り、そのまま黙々と文字を追い続ける。読めない単語には印をつけ、後で村の子どもたちに訊いているという。
「勉強ってのは、案外恥の上に積み上がるもんだ」と言ったのは、昔の知人の言葉だが、あいつも今なら納得するかもしれんな。
◇
一週間が経ったある日、ファルクは自分の手帳を広げていた。厚手の紙に、獣の爪痕にも似た字が並ぶ。意味を確かめ、読み方を書き添え、文章を模写しているらしい。
「何か、変わってきた気がします」
ぽつりと漏らしたその声に、俺はカウンターの下から一冊の本を取り出して渡す。
「昨日の続きだ。こっちはもう少し言葉が少ない」
「ありがとうございます。……あの、もし失礼でなければ、お聞きしたいのですが」
「ん?」
「レンジさんは、なぜ本を読むのですか?」
俺は煙草に火をつけ、一息吐いた。
「好きだからさ」
ファルクは、ゆっくりと本を受け取り、微かに笑った。
「……わかる気がします」
ページを開いた彼の目に、集中の色が宿っていた。ああ、こいつはもう、大丈夫だ。
「では、少しだけ、読んでみます」
いつも通り、カウンター端の席に腰掛けた彼は、俺が淹れるコーヒーの湯気をじっと見つめていたが、ふと目線を上げた先に、本の背表紙があったらしい。
「……レンジさんは、ああいった本も読むのですね」
声の調子は、以前よりずっと穏やかだった。言葉の選び方も、どこか丁寧になってきた。あれだけ荒々しかった獣人が、今では人との会話にも流れを意識するようになったのだから、大したもんだ。
「ああ。暇つぶしと頭の油差しにはちょうどいい」
俺はそうだけ告げ、ネルフィルターに湯を落とす手を止めなかった。ファルクは目線を戻し、再び湯気を見つめる。
──だが、その日の彼は違った。
「……あの、本を、少しだけ見ても良いでしょうか」
珍しく、言いよどむような声音。俺は目線を上げる。
「ああ、構わんよ。」
ファルクはほんの少し目を細め、席を立った。無骨な手が本棚に伸び、慎重に一冊を引き抜く。厚い紙のページが、一枚ずつめくられていく様子を、俺はカウンター越しに見ていた。
「……よく分かりませんでした」
本を閉じると同時に、彼はため息まじりにそう言った。
「そうか」
それ以上は言わない。俺はカップを差し出し、彼は黙って受け取った。
◇
次にファルクが本棚の前に立ったのは、二日後だった。狩りの帰りらしく、毛皮の外套には葉や枝が数本ひっかかっていたが、彼はそれを気にする様子もなく、昨日と同じ場所から同じ本を取り出した。
ページを開いたまま、しばらく動きが止まる。そして──
「……“風は、葉を通して語り、土に眠る”。これは……例え、でしょうか」
そう呟いた声には、驚きが混じっていた。
「まあ、そうだな」
俺は焙煎の準備をしながら返す。
「単語の意味は、書いてある通りだけど。意味の意味までは、書いてない」
ファルクは、手の中のページを見つめながら、微かにうなずいた。
その日から、彼は読書の時間を日課に組み込むようになった。朝の狩りを終え、獲物を村に預け、昼過ぎに店にやってくる。
珈琲を一杯受け取り、そのまま黙々と文字を追い続ける。読めない単語には印をつけ、後で村の子どもたちに訊いているという。
「勉強ってのは、案外恥の上に積み上がるもんだ」と言ったのは、昔の知人の言葉だが、あいつも今なら納得するかもしれんな。
◇
一週間が経ったある日、ファルクは自分の手帳を広げていた。厚手の紙に、獣の爪痕にも似た字が並ぶ。意味を確かめ、読み方を書き添え、文章を模写しているらしい。
「何か、変わってきた気がします」
ぽつりと漏らしたその声に、俺はカウンターの下から一冊の本を取り出して渡す。
「昨日の続きだ。こっちはもう少し言葉が少ない」
「ありがとうございます。……あの、もし失礼でなければ、お聞きしたいのですが」
「ん?」
「レンジさんは、なぜ本を読むのですか?」
俺は煙草に火をつけ、一息吐いた。
「好きだからさ」
ファルクは、ゆっくりと本を受け取り、微かに笑った。
「……わかる気がします」
ページを開いた彼の目に、集中の色が宿っていた。ああ、こいつはもう、大丈夫だ。
「では、少しだけ、読んでみます」
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