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第15章 おじさんと静寂
第188話
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風が止んで、音が消えた。
湯の立つ音も、木の軋む音も、森を抜ける空気の気配すら遠のいたように思えた。
ただ、豆を挽く音だけが部屋にあった。
ごり、ごり、ごり、ごり。
同じ速さで、同じ力で、同じ量だけ。
脳がとろけるような単調さだ。
「……やっぱ、こうでなくちゃな」
一人きりでやるべき作業ってのは、世の中にいくつかある。
焙煎と抽出と、煙草のブレンドはその代表だ。
誰かが横で喋っていたら、微妙な焙煎のタイミングを見逃す。
誰かが立っているだけで、珈琲の香りは空気に散っていく。
そもそも、誰かがいる時点で、もう違う。
一人じゃないってだけで、すでに世界の密度が変わる。
だから、今日みたいな日は貴重だ。
完全に誰も来ない日。
畑に人影はない。
村の道から馬の足音も聞こえない。
扉も叩かれない。
足音も、気配も、声も、全部ゼロ。
「これが、一番いい」
粉を整えて、香りを確かめて、ゆっくりとドリッパーに落とす。
湯の温度は八十三度。今日は少し低めにした。
浅煎りの豆と相性がいい。酸味と甘味を際立たせるには、熱すぎない湯がちょうどいい。
細く、細く、湯を垂らす。
紙が湿って、粉が蒸されて、ぽこぽこと泡が膨らむ。
「……いい香りだ」
しばらく前に作った新しいミルは、粉の粒度が均一で、蒸らしの膨らみがきれいに出る。
自分で作ったものの中でも、あれはかなり気に入っている。
抽出が終わった珈琲をカップに注ぐ。
黒に近い深い琥珀色。
飲む前に、一口ぶんだけ空気を吸い込んで、香りだけを楽しむ。
「悪くねえ」
縁側に座って、湖のほうを眺めながら一口すする。
舌に乗る感触が軽い。だが、余韻がしっかり残る。
甘味の中に、微かにナッツのような香ばしさ。
後から追いかけてくるわずかな渋みが、味に深みを与えてくれていた。
煙草に火をつける。
一本目は、昨日自分で巻いた細めのやつ。
葉の比率を少し変えて、煙の滑らかさを優先した調合にしてある。
「うん。これはこれで、ありだな」
煙が鼻に抜けて、頭の芯がすっと冷える。
風がやや湿っていた。森の奥で、どこか雨が降ったのかもしれない。
だがこの辺りにはまだ届いていないようだった。
焚き火台の端に積んである薪を確認する。
乾いてる。雨が来る前に、一度火を起こしておくのも悪くない。
マッチを取り出し、火をつけて、薪の隙間に押し込む。
少し息を吹きかけると、火が走って、細い枝から燃え始めた。
火の音ってのは、静寂の中でしかちゃんと聞こえない。
ぱち、ぱち、と弾ける音が耳に届く。
それを聞きながらもう一口、珈琲を啜る。
「……静かだな」
何の情報も入ってこない時間は、貴重だ。
誰かと会話しなきゃならないわけでもない。
誰かの顔色を見る必要もない。
すべてが自分の裁量の中で完結する。
昼飯を作ることにした。
適当にサンドにするつもりだったが、せっかくだから、少し手間をかけた。
万能生成で食材を整える。
燻製肉を薄く切り、炭火で軽く炙る。
自分で調合したソースをパンに塗って、トマトとレタスを挟む。
「悪くない組み合わせだ」
食材はどれも上等だった。
パンは表面がカリッとしていて、中はふわりと柔らかい。
噛んだ瞬間に、炙った肉の香ばしさと脂の旨味が染み出してくる。
口の中で一体化したあと、珈琲がそれを洗い流す。
その繰り返しだけで、昼飯は完成する。
誰かと食う食事も悪くない。だが、それは特別な日に取っておけばいい。
普段はこうして、俺が俺のためだけに作ったものを、俺のタイミングで食えばいい。
満足したあと、本棚の端に積んである本を引っ張り出す。
魔法理論の古い書物だ。
内容なんか読まなくてもいい。ただ、文章の構造を追うのが面白い。
意味のない言葉の連なりが、リズムとして心地いいときもある。
ページをめくるたび、紙が風に揺れる。
その音と、煙草の煙が混ざって、また別の静けさが生まれる。
本を読みながら、足元の薪をいじって火力を調整する。
直火じゃなく、ゆっくり熾火にする。
炭の赤がじわじわと揺れていて、それを見ているだけで時間が過ぎる。
珈琲は三杯目に突入していた。
味を少し変えて、今度は深煎りに近いブレンドにした。
これに合わせて、葉巻を吸う。
煙が太くて重い。だがそれが、静けさの濃度を変えてくれる。
深く吸って、鼻から煙を抜きながら、ふと呟いた。
「今日って、何曜日だっけな」
思い出す必要はない。曜日がどうだろうと、誰かが来ない限り、俺の時間は変わらない。
湯の立つ音も、木の軋む音も、森を抜ける空気の気配すら遠のいたように思えた。
ただ、豆を挽く音だけが部屋にあった。
ごり、ごり、ごり、ごり。
同じ速さで、同じ力で、同じ量だけ。
脳がとろけるような単調さだ。
「……やっぱ、こうでなくちゃな」
一人きりでやるべき作業ってのは、世の中にいくつかある。
焙煎と抽出と、煙草のブレンドはその代表だ。
誰かが横で喋っていたら、微妙な焙煎のタイミングを見逃す。
誰かが立っているだけで、珈琲の香りは空気に散っていく。
そもそも、誰かがいる時点で、もう違う。
一人じゃないってだけで、すでに世界の密度が変わる。
だから、今日みたいな日は貴重だ。
完全に誰も来ない日。
畑に人影はない。
村の道から馬の足音も聞こえない。
扉も叩かれない。
足音も、気配も、声も、全部ゼロ。
「これが、一番いい」
粉を整えて、香りを確かめて、ゆっくりとドリッパーに落とす。
湯の温度は八十三度。今日は少し低めにした。
浅煎りの豆と相性がいい。酸味と甘味を際立たせるには、熱すぎない湯がちょうどいい。
細く、細く、湯を垂らす。
紙が湿って、粉が蒸されて、ぽこぽこと泡が膨らむ。
「……いい香りだ」
しばらく前に作った新しいミルは、粉の粒度が均一で、蒸らしの膨らみがきれいに出る。
自分で作ったものの中でも、あれはかなり気に入っている。
抽出が終わった珈琲をカップに注ぐ。
黒に近い深い琥珀色。
飲む前に、一口ぶんだけ空気を吸い込んで、香りだけを楽しむ。
「悪くねえ」
縁側に座って、湖のほうを眺めながら一口すする。
舌に乗る感触が軽い。だが、余韻がしっかり残る。
甘味の中に、微かにナッツのような香ばしさ。
後から追いかけてくるわずかな渋みが、味に深みを与えてくれていた。
煙草に火をつける。
一本目は、昨日自分で巻いた細めのやつ。
葉の比率を少し変えて、煙の滑らかさを優先した調合にしてある。
「うん。これはこれで、ありだな」
煙が鼻に抜けて、頭の芯がすっと冷える。
風がやや湿っていた。森の奥で、どこか雨が降ったのかもしれない。
だがこの辺りにはまだ届いていないようだった。
焚き火台の端に積んである薪を確認する。
乾いてる。雨が来る前に、一度火を起こしておくのも悪くない。
マッチを取り出し、火をつけて、薪の隙間に押し込む。
少し息を吹きかけると、火が走って、細い枝から燃え始めた。
火の音ってのは、静寂の中でしかちゃんと聞こえない。
ぱち、ぱち、と弾ける音が耳に届く。
それを聞きながらもう一口、珈琲を啜る。
「……静かだな」
何の情報も入ってこない時間は、貴重だ。
誰かと会話しなきゃならないわけでもない。
誰かの顔色を見る必要もない。
すべてが自分の裁量の中で完結する。
昼飯を作ることにした。
適当にサンドにするつもりだったが、せっかくだから、少し手間をかけた。
万能生成で食材を整える。
燻製肉を薄く切り、炭火で軽く炙る。
自分で調合したソースをパンに塗って、トマトとレタスを挟む。
「悪くない組み合わせだ」
食材はどれも上等だった。
パンは表面がカリッとしていて、中はふわりと柔らかい。
噛んだ瞬間に、炙った肉の香ばしさと脂の旨味が染み出してくる。
口の中で一体化したあと、珈琲がそれを洗い流す。
その繰り返しだけで、昼飯は完成する。
誰かと食う食事も悪くない。だが、それは特別な日に取っておけばいい。
普段はこうして、俺が俺のためだけに作ったものを、俺のタイミングで食えばいい。
満足したあと、本棚の端に積んである本を引っ張り出す。
魔法理論の古い書物だ。
内容なんか読まなくてもいい。ただ、文章の構造を追うのが面白い。
意味のない言葉の連なりが、リズムとして心地いいときもある。
ページをめくるたび、紙が風に揺れる。
その音と、煙草の煙が混ざって、また別の静けさが生まれる。
本を読みながら、足元の薪をいじって火力を調整する。
直火じゃなく、ゆっくり熾火にする。
炭の赤がじわじわと揺れていて、それを見ているだけで時間が過ぎる。
珈琲は三杯目に突入していた。
味を少し変えて、今度は深煎りに近いブレンドにした。
これに合わせて、葉巻を吸う。
煙が太くて重い。だがそれが、静けさの濃度を変えてくれる。
深く吸って、鼻から煙を抜きながら、ふと呟いた。
「今日って、何曜日だっけな」
思い出す必要はない。曜日がどうだろうと、誰かが来ない限り、俺の時間は変わらない。
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