独身おじさんの異世界おひとりさまライフ〜金や評価は要りません。コーヒーとタバコ、そして本があれば最高です〜

旅する書斎(☆ほしい)

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第15章 おじさんと静寂

第191話

一冊の本を最後まで読み終えるってのは、案外贅沢な時間の使い方かもしれない。

特に、誰にも話しかけられず、扉が一度も叩かれず、音が一切割り込んでこない日に限っては、読書はまるで深い穴を掘る作業みたいに心を落ち着けてくれる。

今日は、そういう日だった。

朝から誰の足音も聞こえない。

鳥の鳴き声すら遠ざかって、風だけが木々の隙間を抜けていく。

本棚の隅から、少し埃をかぶった分厚い一冊を引っ張り出す。

魔術理論の古書。

内容は専門的すぎて俺にはさっぱりだが、構文が整っていて、活字が美しい。

理解できないというのは、逆に想像力の余地があるってことだ。

煙草をくわえ、火をつける。

最初の一行を目で追いながら、煙を肺に溜めてから吐き出す。

「……相変わらず、何を言ってるかわかんねえな」

それでもいい。

この難解さがいい。

頭を空にしたまま、ただ文字を追い、煙を吸って、珈琲を啜る。

一ページ、また一ページ。

読むというより、眺める、のほうが近い。

書き手の意図とか、魔力の性質とか、論理式の解釈とか、正直どうでもいい。

今、目の前に活字があり、指先が紙の感触を確かめている、それだけで意味はある。

ふと、横に置いたカップに手を伸ばす。

冷めかけた珈琲の苦味が、舌にじんわり広がる。

煙草の香りと混ざって、少し甘さすら感じるのが面白い。

「……合うんだよな、これが」

ページをめくるたび、紙が擦れる音が耳に残る。

遠くで風が小屋を揺らしている。

火は落としてあるから、室内の空気は少し冷たい。

それがまた、本の紙質や煙草の乾いた煙とよく馴染む。

光は正午を過ぎて、少し角度が変わってきた。

文字に落ちる影が長くなっていく。

少し目を細めて、それでもページを進める。

「……魔力濃度の累積反応により、事象の再構築が……」

そこだけ声に出して読んでみる。

意味はわからない。

だが、その響きがやけに気に入った。

本の中には、現実とはまったく別の言葉が流れている。

それをただ、受け止める。

理解しようとせず、ただ味わう。

読み進めるうちに、いつの間にか煙草は短くなっていた。

火皿に落として、新しいのを取り出す。

さっきより軽めに巻いたやつだ。

読書中はこれくらいでいい。

強すぎると、煙に気を取られて本が進まない。

火をつけて、再び本に視線を戻す。

ちょうど中盤に差し掛かったあたり。

論理構成が少し緩んで、物語のような形式になっていた。

仮定された世界での魔法応用と、人間の思考の関係性について、詩のように綴られている。

「……この筆者、ちょっと楽しんでるな」

文章のリズムが柔らかく、構文も凝っている。

煙草の煙が文字の上をゆらゆらと漂う。

それを見ながら、ページを進める。

ただ、それだけを延々と繰り返す。

一文読んでは、煙を吸う。

一節読み終えて、珈琲を一口。

そして、次のページへ。

時間の感覚が完全に失われていた。

珈琲はいつの間にか空になっていた。

煙草は四本目が終わったところだった。

外は少し暗くなってきていて、光の角度が低くなっていた。

「……夕方か」

呟いても、誰も応えない。

そのまま読み進める。

終わりはまだ先だ。

ページの厚さを見る限り、あと五十ページ以上は残っている。

だが、焦る理由はない。

この静寂は、今日一日、俺だけのものだ。

この空気、この時間、この香りと紙の手触り。

全部が噛み合っている。

本を読むためだけの空間。

音はなく、風だけが動いて、煙だけが揺れている。

活字が目を流れ、煙が鼻を通り、頭が空白を保ったまま、時間だけが進んでいく。
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