独身おじさんの異世界おひとりさまライフ〜金や評価は要りません。コーヒーとタバコ、そして本があれば最高です〜

旅する書斎(☆ほしい)

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第15章 おじさんと静寂

第192話

調律を合わせるときの空気は、いつも少し張り詰める。

指先で弦を弾きながら、俺は呼吸を抑えて耳を澄ませる。

この感覚は、音楽室でも、コンサートでもなく──ひとりきりの静かな午後にこそ合ってる。

「……悪くねえな」

一本ずつ、細かくピッチを確認していく。

軒先から差し込む光が、リュートの弦に反射して、ささやかな銀色の線を描いていた。

薄く乾いた音が部屋に広がって、それが木壁に吸い込まれていく。

雑音がないというのは、こういう時にありがたい。

誰の声も、誰の足音もない。

風も止まって、ただ俺とリュートだけ。

「……さて、どう弾くか」

左手の指をネックに添えて、右手の親指を弦に置いた。

一音。

音が出た瞬間に、室内の空気が変わる。

指先に震えが伝わって、それが胸の奥をノックする。

俺は黙って続けた。

何も考えず、ただ、音の感触に集中する。

コードの繋ぎ目に引っかかりはなかった。

リズムも崩れず、流れは自然だった。

小屋の中に、音の線がすっと走っていく。

「……このフレーズ、いいな」

昔、村に来た旅芸人が一度だけ弾いた旋律を思い出しながら、指を滑らせる。

細かい運指が続くが、手は覚えている。

覚えてしまえば、あとは流れに任せればいい。

旋律の中に、意図なんかいらない。

ただ、そのとき思いついたまま、指を動かす。

風景と混ざるように音が響く。

煙草をくわえて、膝の上でリュートを鳴らしながら、目だけで楽譜を追う。

といっても、譜面はない。

全部、頭の中の断片と感覚だけだ。

「……次は、あの和音だな」

ゆっくりと切り替える。

低音を沈ませて、高音を短く切る。

一瞬、空間が痺れるような音の圧。

それが消えたあとの無音が、たまらなく好きだ。

「この空白がいいんだよな……」

音を止めて、煙草に火をつけた。

紫煙がゆるやかに流れて、リュートの胴にまとわりついた。

それすらも音の残り香みたいに思えてくる。

煙を吐きながら、もう一度弾く。

今度はさっきより少しテンポを落とした。

ゆっくり、弦の一つひとつを確かめるように。

旋律が、空間に馴染んでいく。

それを聞いてるのは俺だけ。

誰もいないこの空間で、音だけが生きている。

それが、いい。

「……しかし、だ」

独り言を混ぜながら、旋律の途切れ目にコードを重ねる。

テンポは自由。流れも気分次第。

感情もいらない。

ただ、音があって、指が動いて、空気が震える。

煙草の灰を落としながら、弦の張りを確かめる。

湿気が少し増えてきたのか、低音がわずかに膨らんでいた。

だが、調整するほどじゃない。

逆に、この微妙な膨らみが、今の空気に合っている気がした。

そのまま一気に通してみる。

さっきまで細切れに弾いていた旋律を、最初から最後まで。

中盤で一度だけ指が滑ったが、気にせず続ける。

この程度のミスは、空気に呑まれて消えていく。

リズムを整えて、終盤は少し強めに。

弾き終えた瞬間、指先にだけ熱が残った。

「……うん、悪くねえ」

珈琲のカップに手を伸ばす。

さっき淹れたばかりの深煎りは、まだ湯気を保っていた。

煙草と混ざる香りを味わいながら、静かに一口。

苦味が舌に絡んで、喉の奥に落ちていく。

音楽と珈琲と煙草。

この三つが揃っていると、他には何もいらなくなる。

外の様子を確認するために立ち上がり、窓を開けた。

雲が広がっていた。だが、雨が降る気配はない。

森は黙っていて、畑の葉も揺れていない。

音がすべて止まっているように見える。

「……最高の練習日和ってわけだ」

俺はまたリュートを手に取った。

同じ旋律を、少しだけ変えてみる。

リズムの取り方を変えるだけで、音の印象はまるで違う。

それを確認するように、何度も繰り返す。

煙草が短くなって、指が少し熱を持って、珈琲がぬるくなっても、まだ続ける。

音があって、煙があって、静けさがある。

それで、十分だった。
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