独身おじさんの異世界おひとりさまライフ〜金や評価は要りません。コーヒーとタバコ、そして本があれば最高です〜

旅する書斎(☆ほしい)

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第16章 おじさんと旅芸人の少女

第199話

「あの……そ、それ……」

店の隅に立てかけてあるリュートを見て、トレシーが小さな声でつぶやいた。

彼女の指先が、椅子の背にかけたショールをいじりながら、そわそわと揺れている。

「リュートか?」

「は、はい……。ちょっとだけ、見ても……?」

「ああ。勝手に使っていいぞ」

「えっ……!」

思ってもみなかった即答だったのか、トレシーの目が大きくなった。

緊張で肩が硬直しているのが、距離越しにもわかる。

だが、彼女は深呼吸を一つして、そろりと歩み寄る。

そして、両手で慎重にリュートを持ち上げた。

まるで、生まれたての動物を抱くかのように。

指の角度、膝への乗せ方、ネックの支え方──どれもぎこちない。

最初の音は、案の定、ズレていた。

チューニングも触っていないまま、指で一本ずつ撫でるように鳴らす。

音の高さも、押さえ方も定まっていない。

だが、それでいい。

「……む、ずかしい……」

ぽつりと呟いてから、もう一度、弦に触れる。

今度は少しだけ、音がまっすぐに響いた。

音を確かめるように、何度も何度も同じ弦を弾く。

三回、五回、十回と繰り返すたびに、指の角度が変わっていく。

手の形が馴染んでいく。

ほんの十五分ほどで、ぎこちなさが取れ、指が弦に吸い付くようになった。

「……どうして、こんなに……響くの……」

呟きながら、今度は別の弦に手を伸ばす。

四度、三度、五度と、音を重ねながら試していく。

顔を上げないまま、集中した空気が店内に満ちていた。

俺はカウンターに肘をつきながら、静かに様子を見ていた。

初心者の手つきは、確かにあった。

だが、音の捉え方が違う。

音が、まるで彼女の指を選ぶように鳴っていた。

これは偶然じゃない。

「……あっ……」

リズムを探るように、指が動いた瞬間、トレシーの口から、無意識のように鼻歌が漏れた。

旋律は単純だったが、響きが異様に澄んでいた。

音階が一つひとつ、まるで水面に落ちるしずくのように広がる。

音が音を呼び、そこに意味が宿っていく。

「…………」

俺は煙草に火をつけ、視線だけを彼女に向けたまま、言葉は出さない。

感動、とか、驚き、とか、そんな大げさなものじゃない。

ただ、確信した。

この娘には、間違いなく天賦の才がある。

それも、磨かれた技術とか、訓練の成果とか、そういうものではない。

根本に、音そのものが棲みついているような存在。

自然に音を知っている者だけが持つ、“整いすぎない美しさ”だった。

トレシーは夢中になっていた。

鼻歌に合わせて指を動かし、簡単な旋律を何度も繰り返していた。

その姿は、音と会話しているようだった。

一つの音が彼女の中で言葉となり、また次の音へと繋がる。

呼吸のように、歌と旋律が寄り添っていた。

そして──

「はっ……!」

急に我に返ったように、彼女が跳ねるように立ち上がった。

リュートを大慌てで元の場所に戻し、俺のほうを向いて深く頭を下げる。

「ご、ごめんなさい! つい、夢中に……すごく……すごく、きれいな音で……!」

「別に、謝ることはない」

「い、いえ、でも……! その、ほんとに、ありがとうございます!」

トレシーはそのまま、何度も頭を下げ、顔を赤くしたまま店を飛び出していった。

扉の音が、彼女の余韻を残して閉まる。

店内に再び静けさが戻る。

俺はしばらくその場に立ち、まだ微かに残っているリュートの余韻を感じ取っていた。

「……流石は旅芸人の家系ってことか」

ぽつりとそう呟いて、カップの底に残った珈琲を飲み干した。
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