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第18章 おじさんとじいさん
第223話
朝の光が森を割って、村を金色に染めるころ。
焙煎の準備をしていると、じいさんの姿が見えなくなる時間がある。
決まってそのとき、彼は村の外れの古びた泉に向かっていた。
誰が呼ぶともなく「聖霊の宿る泉」と言われている場所。苔むした石の縁、奥からこんこんと湧く清水。人の手はあまり入っておらず、風の音と水の音だけがよく響く。
「ちょっと、じいさん見てくる!」
ある日、子どもたちのひとりが店の前を駆けていった。
戻ってきたのは昼近くで、はしゃいだ様子のまま言った。
「おっちゃん、あのじいさん、泉で誰かと話してる!」
俺は手を止めて聞き返した。
「誰かと?」
「うん、誰もいないのに“久しいのう”とか“わしは元気じゃ”とか言ってた! 水に話してたんだ!」
「……そうか」
「明日、また行ってみる!」
そのまま話題を流すように、豆を挽き始めた。
だが、翌朝、俺も焙煎前にふらっと泉に向かってみることにした。
杖の音が、草を踏む足音に混ざって聞こえる。
森の縁にある泉に着くと、じいさんはすでにいた。ローブの裾を結び、膝を折って水辺に座り込んでいた。
耳を澄ませば、確かに何かを囁いている。
「……いや、わしは何も偉くない。ただ、しぶとかっただけじゃ」
「そなたは、まだ水に潜っておるのか? 苦しくはないかのう」
返事などあるはずもないが、じいさんの声は穏やかだった。
まるで旧友に語りかけるように、何のてらいもなく。
「じいさん、誰と話してるの?」
泉の奥に隠れていた子どもたちの声が飛ぶ。
じいさんは驚きもせず、笑いながら振り返った。
「ちょっとした昔の知り合いじゃよ。ここに住んどる。目に見えぬが、話はできる」
「ほんとに!?」
「ほんとじゃとも。聞こうとすれば、誰でも聞こえる。だが、ほとんどの者は、聞くよりも言うほうが先じゃからの」
「俺も聞こえるかなあ!」
「聞こえるとも。ただ、焦らずに座って、心を静かにするのじゃ」
その日から、泉はちょっとした遊び場になった。
いや、遊びというより、何かを感じ取ろうとする場、と言ったほうが近い。
子どもたちは静かに泉の縁に並び、じいさんは傍らで杖を立てて目を閉じている。
俺も時折足を運んだが、不思議とその場の空気は澄んでいた。
数日が経ったころ、村の農家が口を揃えて言い出した。
「今年の水、甘くねえか?」
「いや、ほんとに。井戸の水、味が違う」
「作物の育ちも、いつもより早い。葉が濃くて、実が張ってる」
水源をたどると、それはあの泉だった。
誰も騒ぎ立てるような真似はしなかったが、自然と人が泉に集まるようになり、やがて村長がぽつりと漏らした。
「……ありがたいことだな」
それに対して、じいさんは首を横に振って言った。
「わしがやったわけではない。あの子が、わしに答えてくれただけじゃ」
「子?」
「この泉の奥に棲む霊よ。わしの知る限り、この地に三百年はおる。むかし助けられたことがあってのう。わしが倒れておったとき、水を口に含ませてくれた」
「お返しに来たのか」
「いや、お礼を言いに来たんじゃ」
「ずいぶん、長い付き合いだな」
「まあな。霊も歳を取る。わしも歳を取る。だから、こうして話すのも、あと何度あるか分からん」
じいさんはそう言いながら、泉に手を差し入れた。
水は澄みきっていて、手を沈めると指先がそのまま消えていくようだった。
「なあ、レンジよ。水ってのは、味じゃなくて音で分かる」
「音?」
「そう。いい水は、音が軽い。跳ね返りじゃ。たゆたう音が、まるで宙に浮く」
俺は泉に石を一つ投げ入れてみた。
ぽちゃん、という音がした。確かに、どこか軽く、響きがやわらかい。
「たしかに、妙に響きがいいな」
「そうじゃろう。あの子が、喜んでおる証拠よ」
「……で、その霊と、また何を話してたんだ?」
「この国の行く末についてじゃ。未来というやつは、案外水に似ておる。流れる方向は、定まっておらん。だが、誰かが音を立てれば、波紋が生まれる」
じいさんは煙草を取り出し、火をつけた。
風に乗って、煙が泉の上を滑るように流れていく。
「言葉は水に似とる。触れずとも届き、形がないのに、心を揺らす」
そう言って、じいさんはまた、泉に向かって何かを囁きはじめた。
焙煎の準備をしていると、じいさんの姿が見えなくなる時間がある。
決まってそのとき、彼は村の外れの古びた泉に向かっていた。
誰が呼ぶともなく「聖霊の宿る泉」と言われている場所。苔むした石の縁、奥からこんこんと湧く清水。人の手はあまり入っておらず、風の音と水の音だけがよく響く。
「ちょっと、じいさん見てくる!」
ある日、子どもたちのひとりが店の前を駆けていった。
戻ってきたのは昼近くで、はしゃいだ様子のまま言った。
「おっちゃん、あのじいさん、泉で誰かと話してる!」
俺は手を止めて聞き返した。
「誰かと?」
「うん、誰もいないのに“久しいのう”とか“わしは元気じゃ”とか言ってた! 水に話してたんだ!」
「……そうか」
「明日、また行ってみる!」
そのまま話題を流すように、豆を挽き始めた。
だが、翌朝、俺も焙煎前にふらっと泉に向かってみることにした。
杖の音が、草を踏む足音に混ざって聞こえる。
森の縁にある泉に着くと、じいさんはすでにいた。ローブの裾を結び、膝を折って水辺に座り込んでいた。
耳を澄ませば、確かに何かを囁いている。
「……いや、わしは何も偉くない。ただ、しぶとかっただけじゃ」
「そなたは、まだ水に潜っておるのか? 苦しくはないかのう」
返事などあるはずもないが、じいさんの声は穏やかだった。
まるで旧友に語りかけるように、何のてらいもなく。
「じいさん、誰と話してるの?」
泉の奥に隠れていた子どもたちの声が飛ぶ。
じいさんは驚きもせず、笑いながら振り返った。
「ちょっとした昔の知り合いじゃよ。ここに住んどる。目に見えぬが、話はできる」
「ほんとに!?」
「ほんとじゃとも。聞こうとすれば、誰でも聞こえる。だが、ほとんどの者は、聞くよりも言うほうが先じゃからの」
「俺も聞こえるかなあ!」
「聞こえるとも。ただ、焦らずに座って、心を静かにするのじゃ」
その日から、泉はちょっとした遊び場になった。
いや、遊びというより、何かを感じ取ろうとする場、と言ったほうが近い。
子どもたちは静かに泉の縁に並び、じいさんは傍らで杖を立てて目を閉じている。
俺も時折足を運んだが、不思議とその場の空気は澄んでいた。
数日が経ったころ、村の農家が口を揃えて言い出した。
「今年の水、甘くねえか?」
「いや、ほんとに。井戸の水、味が違う」
「作物の育ちも、いつもより早い。葉が濃くて、実が張ってる」
水源をたどると、それはあの泉だった。
誰も騒ぎ立てるような真似はしなかったが、自然と人が泉に集まるようになり、やがて村長がぽつりと漏らした。
「……ありがたいことだな」
それに対して、じいさんは首を横に振って言った。
「わしがやったわけではない。あの子が、わしに答えてくれただけじゃ」
「子?」
「この泉の奥に棲む霊よ。わしの知る限り、この地に三百年はおる。むかし助けられたことがあってのう。わしが倒れておったとき、水を口に含ませてくれた」
「お返しに来たのか」
「いや、お礼を言いに来たんじゃ」
「ずいぶん、長い付き合いだな」
「まあな。霊も歳を取る。わしも歳を取る。だから、こうして話すのも、あと何度あるか分からん」
じいさんはそう言いながら、泉に手を差し入れた。
水は澄みきっていて、手を沈めると指先がそのまま消えていくようだった。
「なあ、レンジよ。水ってのは、味じゃなくて音で分かる」
「音?」
「そう。いい水は、音が軽い。跳ね返りじゃ。たゆたう音が、まるで宙に浮く」
俺は泉に石を一つ投げ入れてみた。
ぽちゃん、という音がした。確かに、どこか軽く、響きがやわらかい。
「たしかに、妙に響きがいいな」
「そうじゃろう。あの子が、喜んでおる証拠よ」
「……で、その霊と、また何を話してたんだ?」
「この国の行く末についてじゃ。未来というやつは、案外水に似ておる。流れる方向は、定まっておらん。だが、誰かが音を立てれば、波紋が生まれる」
じいさんは煙草を取り出し、火をつけた。
風に乗って、煙が泉の上を滑るように流れていく。
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そう言って、じいさんはまた、泉に向かって何かを囁きはじめた。
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